那須野を通って黒羽町にやって来ました。
昔は那須郡黒羽町と独立していましたが現在は大田原市の一部です。
平野が過ぎたあたりで小高い丘陵に接して、那珂川が流れ、城跡があって最寄駅に行くバスターミナル、丘の上には県立高校、絵にかいたような日本の地方の町です。
さだまさしに「案山子」という曲がありますがそんな感じです。
まずは芭蕉の館に行ってみました。
芭蕉の館の前には芭蕉と曾良の銅像がありました。
中に入ると広いエントランスホール、芭蕉展示室、大関記念室などあり、各地にある芭蕉の記念館とあまり変わりがないようです。
というようなスタンプもありました。
さていったん外に出て掘割にかかる橋を渡ると城址公園にでます。
大きな広場がありました。
桜やアジサイが綺麗だそうでシーズンになれば混み合うのでしょう。
物見櫓
黒羽城は留守居役家老の浄法寺図書高勝(芭蕉がお世話になりました)が「館代」と言われるように周囲に濠をめぐらし、堤防を囲んだところに本丸その他を構えた館城だったらしい。
しかしここからのながめは素晴らしい。那須野から遠く那須連山を望めます。
この辺一帯は芭蕉の道とか芭蕉の広場とか本当に静かでのんびりできます。
黒羽では「桃雪」という俳号で句作も行っていた浄法寺図書に世話になりました。
奥の細道の行程で14日間の長きに逗留したのはここだけです。
悪天候が続き、なかなか出立できなかったのと師をもてなす桃雪の心づかいに甘えてしまったのでしょうか。
この間、桃雪の弟・翠桃の案内で名所旧跡を回り句を残しました。
鎌倉時代の武士たちが弓矢の腕を磨いたという「犬追物の跡」妖怪・九尾の狐が退治されたという伝説のある「玉藻の前の古墳」「八幡宮」などを訪ねました。
というのが一般の説です。
近接している大雄寺に行ってみました。
三門
大雄寺には高勝の墓(浄法寺家)があります。
総門
廻廊
境内は誰もいなくて初夏の夕陽が流れ込んでいました。
静かです。この言葉しか出てきません。本当に語彙不足です。
本堂
芭蕉の広場に続く道には「行春や~」の句碑がありました。
さて嵐山光三郎さんの説です。
黒羽に14日間も滞在したのは、曾良が日光奉行と伊達藩の確執を調べるためだったろう。
日光で伊達藩の人足が仕事に取り掛かったのは4月13日であった。
曾良の公務は極秘に行われたので黒羽藩にもばらすことはできない。
この間、芭蕉は修験光明寺へ行き行者堂を拝しまた翠桃宅で36句の歌仙を開きました。
という方が面白い。
奥の細道(黒羽) 前半部分
黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信(おとづ)る。
黒羽の城代浄法寺某のもとを訪れる。
思いがけぬあるじの悦び、日夜語つづけて、その弟桃翠(翠桃が正しい)など云うが、朝夕勤めとぶらり、自らの家にも伴いて、親族の方にもまぬかれ、
思いもかけぬ突然の訪問に、主人の悦びはいいようもなく、日夜歓談してその弟も朝夕まめまめしく心をつかって尋ねてくれ、自分の家にも連れて行ったり
日をふるままに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見して、那須の篠原わけて、玉藻の前の古墳をとふ。
何日か過ごすうちに、ある日郊外を散策して犬追い物の跡をざっと見物して那須の篠原を分け入り玉藻の前の古墳を訪ねた。
「黒羽では思いのほか桃雪さんに気に入られましたね」
「その調子で2週間ぐらい滞在してくださいよ」
「曾良さんは例の調査ですか。なるべく早く切り上げてくださいよ」
「この旅費の一部は幕府から出ているんですから伊達藩のリサーチはきちんとしないと帰ってからひんしゅくをかいますよ」
「それじゃ名所を巡ったり句会でも開きますか」
「参加費沢山集まって税務署に目をつけられそうになったらパナマにでも送金してくださいよ」
「それに地元の人は江戸の話を聞きたがっていたね。4年後にオリンピックがあってエンブレムだスタジアムだと大変だと教えてあげよう」
「勘定奉行の黒田何某が量的・質的金融緩和だ,マイナス金利だとわめきながら江戸城の天守閣から小判をばらまいているとか言ったらたまげますよ」
「そんなでたらめみたいな話こんな田舎でも信用されないよ」
「黒田何某だって2%の物価上昇なんかできないと思ってますよ。立場上だけ」
「しかし20年以上も景気が良くならないのにいつも同じ政策、金融緩和しか思いつかないのかね」
「試験勉強のできる人は模範解答は一つしかないと思っているんですよ」
「老人は退職金をたくさん持っているので金利を一気に5%にしたら利息で物を買って景気が良くなるかもしれない。企業だってしこたま現金もっているから金利上がっても大丈夫」
「ごもっともです」