昨日の早朝6時のことです。
「金野さんがお亡くなりになりました」
とのメールが届きました。
信じられませんでした。
そして、あの昭和50年夏決勝の岩手県営球場が私の脳裏に浮かび上がってきました。真っ青な空、白一色のスタンド、スタンドにこだまする歓声。何もかも昨日のことのように鮮明です。
金野健さんは私の1学年後輩です。
1年生から4番打者の金野さんは、野球部を応援したくて一高に入学した私にとってスターそのものでした。同級生の千葉愛一郎はもちろんスター。その投球を受ける金野さんも後輩ながら声を掛けることなど思いも浮かばないスターだったのです。
そんな私にもついに金野さんにお会いするチャンスがやって来ました。2006年の春のことです。
金野さんと同期の古川秀彦さんが当時監督を務める青森西高が一高との練習試合にやって来た一高グランドバックネット裏で会うことができたのです。なんと、51歳にして、生まれて初めてのスター金野との接近です(笑)。定かではありませんが、白堊スポーツ、そして平舘という名前を知ってくれていて、金野さんの方から声を掛けられたと記憶しています。
「これがあの金野か!?」
と身震いに近い感覚を覚えたものです。
物凄く静かな話しぶり、その落ち着きたるや51歳の私なんぞ、ガキでしかないと思わせるたたずまい。「大人(たいじん)」という2文字が浮かんで来ました。
その後、幾度となく、宴席でご一緒し、グランドでも話しが出来る間柄となり、あろうことか、一時期「白堊スポーツ芋蔓会」にも入会していただいておりました。
忘れられない出来事があります。
時は、わが校が決勝に進んだ2009年夏のことです。
快進撃に気を良くした私の野次は止まりません。
毎試合、一高ベンチ上に陣取っては相手選手のウィークポイントをえぐる野次のオンパレードです。「なんぼが勝利に貢献したべ!」と毎試合上機嫌だったものです。
そんなある試合の後、金野さんとスタンド下でバッタリ。
私が
「今日も、野次り倒してやりました!」
というと、
金野さんは、シーっ と人差し指を口に当てながら
「平さん、野次はダメですよ。母校を応援しましょう。」
スター金野の言葉は地球より重いのです。
この夏を最後に私は相手チームを野次ることを止めました。
最後に金野さんにお会いしたのは、2012年8月18日の旧大船渡東高校グランドです。一高と高田高校との練習試合に出掛けた私と木下、木下が連絡すると、忙しい中金野さんが足を運んでくれて5回まで観戦、いつもの穏やかな笑みを残してグランドを後にしたのでした。
事情が許せば、もちろん、盛岡一高硬式野球部監督を担える逸材でした。盛岡一高硬式野球部の復活を託すにふさわしい男でした。
今思い返せば、高校時代のこと、大学時代のこと、我々素人では窺い知ることができない野球にまつわるお話をいっぱいいっぱいお聞きしておけばよかったな~と思わずにはいられません。
まさか、こんなに急に天国に召されるとは思ってもいませんでした。
金野さん、あなたの志は盛岡一高硬式野球部の後輩たちが受け継ぎます。また再びの甲子園目指して頑張ります。天国からいつもの温かい眼差しで後輩たち見守ってください。
昭和50年代に青春を生きた我々一高生のスター・金野健さん、何卒、安らかにお休みください。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
頑張ったー 頑張ったー 金野!
金野さん関連記事(白堊スポーツ内)
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信じられませんでした。
そして、あの昭和50年夏決勝の岩手県営球場が私の脳裏に浮かび上がってきました。真っ青な空、白一色のスタンド、スタンドにこだまする歓声。何もかも昨日のことのように鮮明です。
金野健さんは私の1学年後輩です。
1年生から4番打者の金野さんは、野球部を応援したくて一高に入学した私にとってスターそのものでした。同級生の千葉愛一郎はもちろんスター。その投球を受ける金野さんも後輩ながら声を掛けることなど思いも浮かばないスターだったのです。
そんな私にもついに金野さんにお会いするチャンスがやって来ました。2006年の春のことです。
金野さんと同期の古川秀彦さんが当時監督を務める青森西高が一高との練習試合にやって来た一高グランドバックネット裏で会うことができたのです。なんと、51歳にして、生まれて初めてのスター金野との接近です(笑)。定かではありませんが、白堊スポーツ、そして平舘という名前を知ってくれていて、金野さんの方から声を掛けられたと記憶しています。
「これがあの金野か!?」
と身震いに近い感覚を覚えたものです。
物凄く静かな話しぶり、その落ち着きたるや51歳の私なんぞ、ガキでしかないと思わせるたたずまい。「大人(たいじん)」という2文字が浮かんで来ました。
その後、幾度となく、宴席でご一緒し、グランドでも話しが出来る間柄となり、あろうことか、一時期「白堊スポーツ芋蔓会」にも入会していただいておりました。
忘れられない出来事があります。
時は、わが校が決勝に進んだ2009年夏のことです。
快進撃に気を良くした私の野次は止まりません。
毎試合、一高ベンチ上に陣取っては相手選手のウィークポイントをえぐる野次のオンパレードです。「なんぼが勝利に貢献したべ!」と毎試合上機嫌だったものです。
そんなある試合の後、金野さんとスタンド下でバッタリ。
私が
「今日も、野次り倒してやりました!」
というと、
金野さんは、シーっ と人差し指を口に当てながら
「平さん、野次はダメですよ。母校を応援しましょう。」
スター金野の言葉は地球より重いのです。
この夏を最後に私は相手チームを野次ることを止めました。
最後に金野さんにお会いしたのは、2012年8月18日の旧大船渡東高校グランドです。一高と高田高校との練習試合に出掛けた私と木下、木下が連絡すると、忙しい中金野さんが足を運んでくれて5回まで観戦、いつもの穏やかな笑みを残してグランドを後にしたのでした。
事情が許せば、もちろん、盛岡一高硬式野球部監督を担える逸材でした。盛岡一高硬式野球部の復活を託すにふさわしい男でした。
今思い返せば、高校時代のこと、大学時代のこと、我々素人では窺い知ることができない野球にまつわるお話をいっぱいいっぱいお聞きしておけばよかったな~と思わずにはいられません。
まさか、こんなに急に天国に召されるとは思ってもいませんでした。
金野さん、あなたの志は盛岡一高硬式野球部の後輩たちが受け継ぎます。また再びの甲子園目指して頑張ります。天国からいつもの温かい眼差しで後輩たち見守ってください。
昭和50年代に青春を生きた我々一高生のスター・金野健さん、何卒、安らかにお休みください。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
頑張ったー 頑張ったー 金野!
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心からご冥福をお祈り致しますm(_ _)m