まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

シルバーラインは恐ろしく長いトンネル群だった(只見の旅4)

2016年10月23日 | 旅行

奥只見ダムにゆくには、このダム建設に先立って作られた専用道路、シルバーラインを通っていくしか道がないようです。
このシルバーライン、全長22kmのうち18kmがトンネルだという前情報を持って行ったのですが、実際走ってみたら、むき出しの岩盤、湧き水のトンネルが延々と続く、想像を絶するものでした。

交通量も少なく、ここで車が壊れたらどうしよう・・・。そんな悲観的な考えもちらっと浮かんだりして。

よくまあ、こんなトンネルを掘ったものだと、ダムよりも感心してしまいました。

長いトンネル群を抜けると、視界がひらけ、日本最大の重力式ダム、奥只見ダムと広い駐車場、おみやげもの屋さんがありました。

名物またぎせんべい。380円也。一袋購入。
カミさんにおみやげのつもりで買ったのですが、次の目的地への移動中小腹がすいて食べちゃいました()。これがけっこう美味かった。

もっとたくさん買えばよかったなぁ。

 近くにあるという奥只見丸山スキー場というところは、冬季は雪が多すぎて閉鎖されるのだとか。どんだけ雪が降るんだろ?
ここでも、豪雪のイメージはつかめなかった、温暖エリア房総在住おやじでした。

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日本一の豪雪地帯 六十里越を走る(只見の旅3)

2016年10月22日 | 旅行

六十里越、国道252号線は、日本一の豪雪地帯で、11月中旬から5月中旬までは、積雪と雪崩のため閉鎖になるのだそうです。

数年に一度くらい、降雪があっても、翌日には消えてしまう温暖な房総に住んでいると、想像もできません。

只見駅前を通り、山のほうに走ると只見ダム、しばらく進むと田子倉ダムが見えてきました。




田子倉ダム周辺は、展望スポットになっており、ここの食堂でお昼。
旅にでたのだから、地元の美味しいものを、との気持ちはあったのですが、けっきょくいつものジャンクフード、ラーメンでした(笑)。でも、味噌ラーメンの味噌がとても美味しかったぁ。


ここでも、”クサムシ”がたくさんいました。河合継之助記念館で服についてきた虫がいたようで、狭い軽の車内はあの独特の臭いで充満。田舎人なので、なれたはいるものの、ちょっと困りました(笑)。
毎年こんなに発生するのかな?だとしたら、これはこれで、地元の人たちは対策が大変そうです。

あとひと月もすれば雪が積もりだすであろう山々の紅葉はどんどん進んでいました。

峠の展望スポットに六十里越峠開通記念碑がありました。

     越後の窓開く
     
六十里越峠開道記念碑
     
昭和48年9月
     
内閣総理大臣 田中角栄

とあります。

今は道路網、鉄道網が整備され、新潟もぐっと近くになりましたが、昭和の中ごろまでは、新潟と関東の距離は、物理的な距離以上に遠かったのかもしれないなぁ。連なる山並みと角栄さんの顕彰碑を見ながら、そんなふうに感じました。

今、便利さを享受している高速道路網、新幹線網など、角栄さんが活躍された時代に構想されたものが多いのではないでしょうか。田中角栄さんとその人脈というのは、功罪がありますが、ものすごく大きな仕事をしたのだと思います。

福島・新潟県境を越え、魚沼市におり、R352で、奥只見ダムに向かいまいました。

 



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只見の河合継之助記念館はクサムシの大攻撃をうけていた(只見の旅2)

2016年10月21日 | 旅行

いつのころ(50歳を過ぎたころ?)からか、すごく頑張れないけれど、そんなに眠らなくてもいい体質になりました。10月18日の朝は、ジャスト4時に”お目覚め!”

トイレにいったら、すでに歯磨き・洗面をしている方が数名いました。長距離のドライバーさんなのかな?

ぜんぜん眠った感じがしませんでしたが、数時間は記憶が飛んでいる!大丈夫、眠ってる!

河合継之助記念館は、10時開館。
残す距離は、180kmあまり、計算どうり!のはずでしたが、房総の田舎道どころではない走りやすいスカスカの走行環境で、9時には現着。

眠るか?、歩くか!
せっかくなので、付近を散策してみることにしました。

記念館前は、鶴が飛来するという只見川の清流が流れ、使用されていない只見線の線路は草で茫々でした。


鉄道という外の世界へつながる乗り物も、時代に合わなくなれば淘汰され、埋もれていく。この草茫々が、継之助の活きた時代とかさなり、とても印象的でした。

集落のはずれの医王寺まで継之助のお墓参りに歩くと、おお、うちのかあちゃんのいうとおり!
民家のすぐ近くなのに、クマがでるようです()

自然とヒトがせめぎ合って共生している厳しい環境なんですね。
房総のように、観光気分で山道をふらふら散策してはいけないところなんだな、と感じました。

分骨されたお墓のあるお寺です。今は無住のようでしたが、ものすごく雰囲気がありました。奥の石塔がお墓で、

こんな感じでした。

10時になり、記念館(継之助が亡くなった地とのこと)が開きました。

どこかの老人クラブのご一行さんが一緒で、「くせえ、くせえ。クサムシだらけだ」と騒ぎ出しました。
クサムシ?
よく見ると、入り口のガラスに強烈な臭いのあるカメムシがびっしついてうごめいています。異常発生?!いやいやびっくりです。こういう光景初めて見ました。

継之助終焉の間などの展示物を見ながら、しばし小説『峠』の世界にワープ。

 

R252で、六十里越雪わり街道に向かう途中、八十里越につながる道路(R289未開通)の入り口があり、担架で運ばれてきた継之助一行をイメージしました。

時空はちがうけれど、150年くらい前に、この場所に、長岡の国づくりを夢みて突き進み、挫折して、死を覚悟した河合継之助の時間があった。そこに、何もできずに還暦近くまで生きてしまった腰抜けじいさんの自分がいる。
太く短く熱く生き抜いたヒト、生きているヒトは、憧れです。

その交差点には、八十里越してきた継之助一行が休憩したといわれている叶津番所跡が保存されていて、ここでも、思いき切り深呼吸。小説の世界の空気をこれでもか、と吸い込んできました。

今度『峠』を読み返すとき、違う世界が見えてくるかもしれない。そんか感じがする時間になりました。

 

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車中泊を体験(只見の旅1)

2016年10月20日 | 旅行

今回の旅では、行き先を①只見町の河合継之助記念館とその周辺②六十里越(R252)を走って、八十里越の雰囲気をしのぶ③地味な温泉に立ち寄って、旅の思い出を作る(檜枝岐村駒の湯)だけ決めて、詳細はノープランで出発しました。でも、1泊は道の駅等の安全な場所で車中泊を体験してみるつもりでした。

被災地で車で暮らすことを余儀なくされているという話をここ数年よくききますが、それがどんなものかを少しでも感じたかった。

R4号バイパスにある、道の駅しもつけというサービスエリアまでとにかく夜走って、数時間車で寝る。翌日4時に起きて、福島県南会津を目指す、これが最初のミッションでした。

18時に家を出て、23時近くにサービスエリアに到着。車中泊をしている人の多さに驚きました。軽自動車もぽつぽつとまっていました。

ポケットラジオで『Radio Berry』を聞いているうちに数時間うとうとできましたが、軽の小さなシートでは安眠とは程遠いです。持参した寝袋のおかげで寒さは感じませんでしたが、体が休まるという状況ではありませんでした。

被災し、車で一時を過ごすことを強いられる生活のつらさ、あばら屋でも手足を伸ばしてくつろげる家があることのありがたさを体験できた時間でした。

『衣・食・住』という言葉がありますが、ヒトは、衣食足りたあと、安住できる住処があって、はじめて、先のことを考える余裕がでてくるのかもしれい、きっとそうなんですね。


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不良じいさんの貧乏旅

2016年10月18日 | 旅行

最近は、都内、県内はウォーキングなどで出歩いているものの、ちょっと遠くへ出かける機会はめっきりへりました。

自由人生活3年目に入り、ようやく県外へ出かけることができました。

頑張って働いたのだからと、退職金でバーンと海外旅行に行けるほど退職金もないし、言葉も文化も歴史もわからない地へいって、風景をみても、あたしゃたぶんないも感じない。
人が生きるところ、その営みは、日本でも外国でも、そんなに変わらないと思うんです。

とてもみみっちいですが、”旅計画”が資金面もあり、ぜんぜん具体的にならないので、使ったつもりで、お正月から3000円を目安に引当金を始めました。
そんな資金が2万程になったので、南会津を走ってみることにしました。

司馬遼太郎 さんの小説『峠』の主人公、河井継之助が

   八十里腰抜け武士の越す峠

とよんでなくなった、只見の空気を吸いにいきます。

房総の地に、大原幽学という農村指導者がありましたが、河井継之助も同じ”におい”がして、関心を持ち続けている史上の人物です。

ものすごくヒトのためを思って生きたのに、時代に受け入れられず、活きられなかった!でも、誰もできなかったピンチの状況を指導したからこそ、今があるのは間違いありません。

そんなワンポイント登板を評価し今でも、多額の税金を使い、記念館を建て、たたえている、今の人たちがいる。

実”のある行動というのは、後から解るのかもしれませんね。

 


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