まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

静かな時間

2020年08月30日 | 読経の日々

午前中は、地域の役仕事で外を動き回った。

残暑の日照は、ジリジリ肌が焼ける感じで、危険な暑さだった。

午睡をし、気持ち的に少しラクになった時間で、写仏をした。

仏像などを、これがご本尊さまだから、有難がれ。
と言われても、私には理解ができない。

偶像にどんなにお布施という名で、お金をつぎ込んでも、お願いしても、事態は好転しないと思っている。

ただ、優れた仏教美術や仏像。

綿々と地域の人々が守り受け継いできた仏像などを前に、静かな時間を持つことは、とても清々しい。

情緒的だけれど、神々しさを感じることもある。

仏教美術や仏像、田舎の片隅に残る、庶民の心、生活が紡いできた仏像などを崇める気持ちは経験的に受け入れる。

そういう点では、偶像もメンタル的には大きなご利益があると思う。

Web上には、写仏、写経のツールを無料公開しているサイトもあり、随分前からそんなツールをDLし、印刷して、徒然の時間を過ごしてきた。

観音様の細かい柔らかい輪郭線や、意味のわからない般若心経の漢字に集中してなぞっている内に、とてもいい時間となる。

モーツアルトと写仏、写経の、和洋折衷も案外いい。

何かに集中するということは、その分余計なことを忘れるということかもしれない。

今日も、いい休養時間になった。

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ようやくクリア

2020年08月29日 | PC弄りの日々

窓にも2004 2020年06月09日 | PC弄りの日々』で、Windows 10 2004にアップグレードした際の、使用中PCでの不具合について書いた。

上記記事では、不具合として

1)なでしこに、「IMEオン」という命令があるが、これが機能していない。

2)なでしこで作成したテキストエディタで、日本語変換入力時にカーソルの点滅が消えてしまう。

をあげていた。

技術的なことはわからないので、その後の様子見、対症療法を探ってきたが、今日、ようやく2つの不具合が解消されたので、メモを残しておきたい。

1)については、7月までのWindows Updateの中で、なでしこの命令が機能するようになった。

その後のWindows Updateで、今回の2004バージョンも安定したとアナウンスされたが、それでも、なでしこで作成したテキストエディタ、なでしこpadで、作業中にカーソルが消えてしまうという現象は続いていた。

カーソルが見えないと、現在位置がわからず、文字入力などでは非常に不便である。

2)について、気にしてきたのだけれど、他の日本語入力で試してみようと思い立ち、Google日本語入力(使用は無料)をインストールしてみた。

結果は、カーソルの消失なし。
正常に機能した。\(^o^)/

MS-IMEと日本語プログラムなでしこの相性が良くないようなので、このままGoogle-IMEを使っていこうと思っている。

少し時間がかかったけれど、今回ののWindows10 2004アップグレードはこれでようやく終了である。

2つとも、今回のWindows10 2004で、新しいMS-IMEが採用されたことに起因した問題で、なでしこ側の問題ではなかったようである。

残暑が厳しすぎるので、畑や家周り家事、長い距離のウィーキングは中断中。
引きこもりで、読書やPC弄りの日々である。

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ダイソースピーカーは、Xubuntu PCでもOKだった

2020年08月21日 | PC弄りの日々

久々、掘り出し物 2020年07月18日 | 道具弄りの日々』 で書いた、ダイソーさんの300円商品 PCスピーカーは、Windows PCへつないだり、スマホやラジオにつないだりして、おおいにに活躍中である。

出力3Wの小さなスピーカーだけれど、小さな部屋で使用する分には十分すぎる音量がある。

今週は茹だるような陽気の中、シルバーバイト続きで、ようやく今日家事日に。

お盆前に草対策をがんばったけれど、この二週間ほど、暑さにへこたれて放置。
毎日のカンカン照りで、もちろん水やりなどはしてないのに、草だけは順調に生育中である。

秋野菜の種蒔きや植え付けに備えて、もう一回夏草の始末をつけたいと、昨夜のうちからたくさん予定を立ててみたのだけれど、朝から気温は急上昇。
やる気は急下降!

洗濯や庭先農園の野菜や花に灌水をして、9時にはへばった。(笑)

自分では若いと思っていても、もう十分ジイサンなんだから、休むのも仕事のうちと考え直し、じわっと湧き出る汗を楽しみながら、麦茶をちびりちびり、動画サイトで映画などを見たり、本読みをしたり。

こうなると、普段は5時前から鳴きだし、もう、うっさい!と思う盛大な蝉の鳴き声も、夏らしく、いいBGMになる。

動画を見ていて、ダイソーのPC スピーカーは、Windows用と説明に書かれてあったけれど、Xubuntu PCでも、USBを認識すれば、普通につかえるのではないか、そんなことを思い立ち、さっそくつないでみた。

結果は、なんのストレスもなく、普通に音がでて、現在使用中。

これはお買い得だったなぁ。

ほんと、掘り出し物!

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毎日唱える呪文(3) 仏 法 僧

2020年08月16日 | 読経の日々

前回書いた『懺悔文(さんげもん)』とともに、『三帰礼文(さんきらいもん』という短いお経がある。

『三帰礼文』は、仏(お釈迦様)・法(お釈迦様の教え)・僧(仏教徒としての仲間)の三宝を信仰すると宣言するほどの内容か。

さらに、『修証義 受戒入位』の章では、三帰の重要性が詳しく解説されている。
この章の中で、

南無帰依仏

南無帰依法

南無帰依僧

とあり、これが毎日唱える呪文の2つ目である。

私のようなグータラ強欲ジイサンの中にも、仏性はあるのだそうだ。

そういわれれば、いままでにはた迷惑なこともずいぶんしてきたけれど、少しは人に感謝されたこともあった。

お釈迦様は自分の中にいる、そう考えると、グータラ、強欲はなおるべくもないが、お釈迦様が説かれた教えを頼りに、それを実践して生きていこうという姿勢は悪くない。

修証義にも「一日の行事これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり」とある。

『僧』については、毎日接するすべての人と勝手に解釈している。

私に苦痛や不快をあたえるのも人であるけれど、解決の手がかりを示してくれたり、導いたくれるのもまた人(人の中にある仏性 観音様)である。

渡る世間は鬼ばかりともいうけれど、観音菩薩だってあっちこっちで自分を見守ってくれている。

お釈迦様の教えを伝えてくれる僧という点では、ネットに公開されている法話やメルマガをスマホなどでよく読むようになった。
こちらは、曹洞宗に限らず、真言宗、浄土真宗なども。
いつも良いお話を提供してもらっている。

私には、世にいう死後の世界とか、極楽と地獄など想像もつかないことがたくさんある。
おそらく「死んだら、骨になって終了!」という考えのまま最期を迎えそうか気がする。

最近分かってきた(感じてきた)ことは、

お釈迦様は、自分の中に生きているということ。

ご先祖様も、あの世じゃなくて、自分の中にいるのはないかということである。自分は父母から生まれ、父母も父母から生まれた。その系譜の最先端の今に生きるのが自分である。

今お盆だけれど、宅内やお墓を掃除しお盆の準備をしたり、お墓にお参りしたり、ご住職にお経をあげてもらうという行為も、お盆という機会を通じて、自分が今をしっかり生きているかの確認をしているような気がする。

私がしっかり生きていること=父母をはじめとするご先祖様の喜び のはずである。

早寝早起きをし、起きたらキチンと顔を洗い、歯を磨く。

食事の準備をして、感謝していただき、片付ける。

朝のほんのひとときだけれど、『懺悔文』と、この『三帰戒』を唱えるのが、最近の読経の日々である。

その後は、家事をしたり、シルバーバイトの日雇とりに出たり。

自分なりの思いをこめて唱えると、短い経文でも、一日のスタートにはとても良い効果があると感じている。

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毎日唱える呪文(2) 自業自得と因縁

2020年08月14日 | 読経の日々

曹洞宗では、般若心経、観音経、妙法蓮華経如来寿量品偈、大悲心陀羅尼、舎利礼文、修証義といったお経がよく読まれているようで、私の手に入れた曹洞宗檀信徒勤行という、普及版の経本にもそのいくつかがのっていた。

後に、解説書などを手に入れて読んでみると、仏教のお経は、物語としても興味深いと思うようになったけれど、実物は、日常の日本語からはかけ離れた難解な漢字の音読みで、まったくその意味は解らない。

唯一、繰り返し読んでいるうちに少しづつ言葉が入ってきたものが『修証義』だった。

『修証義』は、道元禅師が著した『正法眼蔵』から抜粋した言葉を口語体で表記したお経だという。

口語体で書かれているといっても、戦後の日本語教育の中で生きてきた私には、とてもとっつきにくい。

死生観、人生観、無常観、因果観、業報観など、自分と向き合ってラクに生きるためのヒントがたくさん書かれているが、特に、「ああ、そいうことか」と最初入ってきたのが、『自業自得と因縁』で、『懺悔文(さんげもん)』という短いお経だった。

我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋癡
従身口意之所生
一切我今皆懺悔

物事の結果(今)は、すべて自分で作った原因と今にいたるまでに自分が選択してきた条件、環境で生じている。

今の苦しい状況は、誰のせいでもない。
反省すべきは、お前だ!
また、それを改めてよりラクに生きられる時間を築けるのもお前だ!

そんな意味だと理解した。

もちろん、頭の中では、自業自得、因縁という言葉の意味は知っていた。

けれど、こういう具体的な言葉にふれ、振り返ってみると、自分が今まで生きてきた時間の中で、どれだけ他人を妬み、恨み、虐げて、意味なく腹を立て、他人に迷惑をかけて生きてきたか、その結果たくさんの敵をつくり、自分がどれだけ苦しんだか。

単に、知っているということと、そのことを理解し、納得することは違う。

もちろん、私は今でも『スーダラ節』のノリで生きている、そうとう強欲ジイサンである。

だから、この『懺悔文』という呪文を毎日唱えて戒めとしている。

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