先日の地域の総会で、役上がりにはなったものの、今年は、ご近所の『班』というまとまりの『班長』の役が回ってきた。
「お互いさま」で成り立っている字田舎地域社会だから、できることはしなくては、との思いもある。
還暦を超え、数年過ぎたが、わが田舎地域社会では、若手の方なのである。(笑)
昨日、集落の他班の先輩がなくなったという連絡が入った。
急な場合は、班長から、『言い継ぎ』という指示を出して、口頭で十軒近くの皆さんに周知する。
新型コロナウイルスの関係で、今回も、会葬を遠慮したい、という施主様の意向で、亡くなったことのみを周知した。
亡くなった先輩は、85歳で、私の親世代といってもいい。
わが家は今でも、パッとしないけれど、子供のころは事情もあってとくに困窮していた。
そんな時、いつも気にかけてくれた方だった。
自分自身の気持ちの整理のためにも、もし可能ならば、ご遺体に最後のお別れをしたい、そんな思いで、昨晩、電話してみた。
「今まだ家にいるから、来なさいよ」
との奥様のご返答をいただき、ご自宅に伺い、お別れしてきた。
ご主人は、もともとお顔だちのよい方だっけれど、横たわっているお顔は、観音様だった。
人は死んだら、骨になり、風化して終わり。
死後の世界、極楽・地獄、転生などよく解らないことが多いのだけれど、この思いは、少しお釈迦様の教えを紐解いてみた今も変わらない。
それでも、人が死んだらどこへ行くか?
分かったことは、生きている人の心の中に、その人を思ってくれた(好きだっった)人の中に行き続けるのかもしれない、そんなに思い至った。
不徳を積み重ねれば、その人への周囲の思いは、子孫に向かう。
極楽・地獄、転生というのは、今、この一日の問題のような気がする。