今回は、前回撮り忘れたJR鵜原駅舎を撮影し、徒歩7分ほどの所にある景勝地、『鵜原理想郷ハイキングコース(2.3Km)』を歩くことから始めました。
鵜原理想郷は、大正時代、大木遠吉鉄道大臣の秘書をしていた後藤杉久氏が、大木大臣の後援を得て鵜原理想郷土地株式会社を設立、別荘地として開発・分譲。当時は、大臣などの別荘が多く建ち、大臣村と呼ばれたそうです。
今風に言えば、高級リゾート地計画とでもいうのでしょうか。その後、諸般の事情で開発計画が中止となり、その名前が今に残っているらしいです。
現在は静かな場所ですが、当時はたくさん人の夢とロマンで沸き立ったところだったのでしょう。
時代は下り、太平洋戦争末期には、鵜原にもモーターボートを使った特攻部隊、第55震洋隊 (神浦性太(少尉) 昭和20年5月25日 千葉県勝浦鵜原)があったという記録があります。
鵜原特攻基地と呼ばれ、機体の数が揃わず海洋戦に回された数多くの青年余剰兵がこの地で従事したのだそうです。
理想郷というリゾートの夢を描いたその同じ場所で、若者たちが、米艦に、爆弾を積んだボートで自滅攻撃をかけるために過ごした時間もある。
実際の戦争遺跡の場所は私には分かりませんが、現地周辺に立って、戦時への思いも馳せてみたいと考えました。
駅を出て右手に進むと案内板があり、これにを頼りに、鵜原館の方向へ進みました。
トンネルを抜けて右折すると、すぐに、顕彰碑があったので立ち止まってみると、後藤杉久氏がこの地を開発したという碑でした。
更に進むと、鵜原理想郷の無料駐車場があり、コースの案内などが書かれた看板が建っていました。その先を右折して、鵜原館さんの敷地内を通って、山道のハイキングコースに入ります。
『私有地につき立ち入り禁止』、『入場(通行)料をお支払ください』が一般的な中で、私有地でも、ウォーキングはOKしてくれるのは有難いですね。
コースの途中に、
こんな感じの案内板や道標の石柱があったのですが、今一つ分かりづらく、手弱女平(たおやめだいら)という見どころを一つ飛ばしてしまったり、毛戸岬に行くつもりが、道に迷って毛戸浦の海岸へ降りてしまったりしました。
毛戸浦の海岸は、太平洋の荒波に浸食されたこんな感じのリアス式海岸でした。
この入り江で、思いがけず防空壕のような穴を複数みかけました。
漁師さんたちが使っているような感じではありません。一つは、ブロックでしっかり塞がれています。もしかしたら、戦争中に特攻兵器などを格納してあった跡かもしれないと気づき、しばらく入江で海をながめました。
こんな人知れない入江から、二十歳前後の若者が、爆弾を積んだボートで「お国のために死んで来い」と送り出されたのでは、たまりません(想像!)。
幸い、この地から特攻により亡くなった人はいないようですが、飛行機がないから、船で突っ込め、船がないから、潜水服を着て竹竿に爆弾を付けて、海の中からつつけ!
まさしく戦争は狂気ですね。
特攻で命を捨てるなら、若い人ではなく責任者世代(GG世代)でしょ!
これからを創っていける若い人の生きる時間を、特攻攻撃などという形で奪うことは間違いです。特攻までいく前に、間違って戦争を起こしてしまったとしても、間違いを早く認め、収束を図ることが大事。これに気づかなくなってしまうから、戦争は、狂気なんですね。
コースに戻り毛戸岬から見た景色は、なかなかのものでした。この画像は、迷子でパスしてしまった手弱女平(たおやめだいら)を、悔し紛れに、安物のデジカメのズームを最高にして撮りました。
一緒に歩いていた方(鵜原駅に降り立ったのは私とこの人の2人だけでした)とも話したのですが、案内が分かりにくいのが残念でした。
既存の石柱の文字が読めないのでペイントしてくれると多少いいかなと思うのですが・・・。自然の維持にはお金がかかりますね。
理想郷を下りて、鵜原海岸に出ました。
台風7号の影響で、海は大荒れです。
そんな中で見つけたのが、海に立つ鳥居。房総の海岸ではときどき見られます。
房総で観光的に残るお祭りのほとんどは、海と神輿の競演で、神が海から渡ってきたという伝説が多いと思います。神というのは、自分たちのできない事を可能にする技術や知識をもっている人、その技術や知識は、病も治し、農耕を広め、飢えをなくし、蓄えも与えたかもしれません。
遭難した地なのか、探索目的でたどり着いた地なのかはわかりませんが、ひたすら純粋なネイティブ房の国人は、文化・技術を持った人たちを神と崇めたのではないか?神様を信じていない不届き者の私は、海にたつ鳥居を見てそんな事を考えました。(単なる妄想です!)
鵜原海岸を後に、国道128号線を歩いていると、『清海小学校』という文字か目に入ってきました。
学校や保育所があるのなら、旧道かもしれないと思い、左の脇道に入ってみると、すぐに海岸線で、理想郷から遠望した岸壁の穴の場所に偶然たどり着きました。
かなり大きな人工的な穴です。画像には映っていませんが、この右側には、大きなトンネルがあり、日本冶金さんが、入り口を閉鎖してありました。
戦争遺跡かもしれないと思い、帰宅してWebをみてみたら、1945年5月に勝浦市立清海小学校の校庭で撮影された第55震洋特別攻撃隊の集合写真というものを見つけることができました。
この場所でも、きっと、激しく戦時を生きた時間があったんですね。
この穴や大きなトンネルを眺めていると、戦時のたくさんの人の辛い思いと共に、時間を遡り、引き込まれて行くような、悲しいというか、寂しいというか、複雑な気持ちになりました。
後編につづく。
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