夏が近づいてくるにつれ、「やっぱり夏といえば怪談話ですね~」などと妙にはしゃぐバラエティ番組を見かけますが、こういう安直な発想に接するといささかシラけます。
季節を秋や冬に設定している怪談もたくさんあるのです。
江戸時代の庶民は、夏の夜に怪談を楽しんでいたようです。
戸外に縁台を置き、近所のご隠居さんが語り手となって、集まった人たちにいろんな怖い話を聞かせたということです。
しかしそれは本来は暑さをしのぐためだったんですね。
そこから「怪談は夏の風物詩」というイメージが定着したようです。
近年では「怖い本」をはじめとする平山夢明氏の一連の著作や「新耳袋」などのように、作者が収集した数々の話を一冊にまとめた形をとっている本も多いです。
個人的には「怖い本」も「新耳袋」も大好き(ということは非常に怖い)です。
「聊斎志異」「耳嚢」「遠野物語」など、今に伝わる良質の説話集も少なくありませんね。
意外に思えるのが、有名な小説家たちも怪談(とくに短編)をものにしている場合が多いことです。
怪談の好きな人が多いせいもあるでしょうが、題材に大きな刺激があり、短い物語のなかできちんと起承転結をつけ、さらに読み手を納得させるようなオチを仕込んでおくという、小説を書くうえでの基本的かつ重要な技術が要求されるため、これが書き手の創作意欲をそそるという側面もあるのかな、と勝手に思ったりします。
というわけで、ぼくの好きなおもしろい(=こわい)短編をいくつか紹介してみます。
猿の手 The Monkey's Paw 作 ウィリアム・W.・ジェイコブズ(1863~1943)
三つの願いが叶うという、干からびた猿の手を手に入れた老夫妻。
冗談半分の「大金が欲しい」という最初の願いは見事に叶えられましたが、代償としてたいへんな悲劇に見舞われます。
近代ホラーの古典的作品です。
エンディング近くの盛り上げ方によって、読んでいるぼくは興奮の極みに連れて行かれます。
恐怖感だけではなく、一種の哀れさを感じる読後感も独特の味わいがあります。
テーブルを前にした死骸 The Corpse at the Table 作 サミュエル・ホプキンス・アダムス(1871~1958)
猛烈な吹雪のため、チャールズとスティーブは山小屋に閉じ込められますが、救援は来ません。
チャールズは「おれを生きたまま埋葬しないでくれ」と言い残して死にます。
死亡をはっきり確認したスティーブは友人を埋葬するのですが、何度葬ってもチャールズはいつの間にか小屋の中にじっと座っているのです・・・。
スティーブの狂気の高まりと、オチのつけ方、見事です。
信号手 The Signalman 作 チャールズ・ディケンズ(1812~1870)
ディケンズは19世紀のイギリスを代表する文豪です。
偶然知り合った「わたし」と鉄道の信号手。
ある恐怖に怯える信号手の打ち明け話を聞いた「わたし」は、その直後に思わぬ事故に遭遇し、愕然とします。
これも短編怪談の古典ともいえる名作です。BBCの作ったTVドラマを見た記憶があります。
これ、だいぶ前にある番組で稲川淳二氏が「実話」だとして物語っていましたが。。。
手 La Main 作 ギー・ド・モーパッサン(1850~1893)
19世紀のフランスを代表する作家モーパッサンも、狂気が垣間見える良質の怪談をいくつか残しています。
干からびて黒ずんだ人間の腕を鎖で室内につないでいる男が殺されたのですが、調べてゆくうちに死体は不思議な状況にあることが分かってきます。
これは、気味の悪い話の裏にひそむ寓意を示唆した、一種教訓めいた面白い短編です。
チャールズ・リンクワースの懺悔 Confession of Charles Linkworth 作 エドワード・ベンスン(1867~1940)
「霊の存在」を題材にしたこの物語は、正統派の怪談といっていいと思います。
夜中に読んでいて、怖さのあまり何度うしろが気になったことか。
これも、恐怖だけでなく、人間の業や主人公から伝わる悲哀について考えさせられる物語です。
怪談というと、単にB級小説のような印象もありますが(たしかにA級とは言えないかもしれません)、文章の巧みさ、構成の面白さ、人間観察など、恐怖感以外にも楽しめるところは多いですね。