箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

私たちは自分の意思で出会った

2020年08月18日 18時59分00秒 | 教育・子育てあれこれ

映画「君の膵臓を食べたい」には、次のような言葉が出てきました。

「私たちは皆、自分で選んでここに来たの。偶然じゃない。運命なんかでもない。

君が今まで選んできた選択と、私が今までしてきた選択が私たちを会わせたの。

だから、私たちは自分の意思で出会ったんだよ」

私たちは、「出会い」を偶然の産物と考えがちです。

学校でなら、○年度の○年○組のメンバー同士は、先生たちがクラス分けをして、たまたま同じクラスになった者どうしとなります。

そうかもしれない。

でも、人生や生きることは、じつは選択の連続なのです。

たとえば、A高校へ行って、野球をしたいと思い合格したのです。
選択をしたのです

同時に、別の人が、A高校へ行き吹奏楽をしたい。
これも選択をしたのです。

その二人が、もし学校で恋人どうしになれぼ、二人の選択が、二人を出合わせたことになる。

これは、とりも直さず、自分たちの意思で出会ったことになる。

そういう意味と、私は解釈しました。

ちょうどこの映画を観たあとに、教え子が集まる同窓会がありました。

そのあいさつで、私は映画「君の膵臓を食べたい」の中のセリフを引用して語りました。

「この同窓会の集まりは、偶然の出会いではない。みんなの選択と意思が、私たちを出会わせたのです」と。



気づきを生む教育相談

2020年08月18日 07時48分00秒 | 教育・子育てあれこれ
生徒にとっての教師は、やはり最大の「教育環境」です。生徒が困難なことに直面したとき、教師は生徒から相談を受けます。

その相談によって、子どもの学校生活の過ごし方が大きく変化することがあります。

その点で、「教育相談」は大きな意義をもっています。

中学校では、非行やいじめが起こったり、生徒が不登校になったりする課題があります。

それは生徒指導上の問題ではあります。

ただし、問題が起きることが問題ではなく、その問題が継続することこそが問題なのです。

問題が継続するのは、なんらかの悪循環が働いています。

その悪循環という流れを止め、生徒が自分の力で適切な方向に向いていけるように、教師がかかわり支援することを、中学校では「生徒指導」と呼んでいます。

実際にあった例を示します。

不登校の生徒Sから教師Tが話を聴きます。

T:「家では、いまどんなことをしているの?」

S:「スマホをさわったり、スマホでゲームしたりかな」

T:「スマホなんだ。一人でやっていてさみしくはないかい?」

S:「さみしい時もあるけど、友だちがいないから、しかたない」

T:「ずっと一人で家でがんばっているんだ。なぜ、そんなにがんばれるのかな?」

S:「ぼくはがんばっているのかな・・・? 一人で家にいるのも慣れてきた。自分で学校を休んでいるんだから、しかたないよ。スマホをさわっていると、学校のことが気にならなくなる」

T:「そうなのか。スマホは学校を忘れさせてくれるんだ。そのことに気がついているだけでもすごいと思うよ」

S:「でも、ほんとうは、好きでスマホをやっているのではないかもしれない・・・」

この対話で、よくありがちなのが「なんで学校に来れないのかな」「どうしたら登校できるようになるかな」という質問です。

でも、これは不登校の子には難しい問いです。

そこで、この対話は学校についての話題をとりあげてはいません。

Sがいま生きている世界、リアルな世界である家での本人なりのがんばりに焦点をあて聴くほうがいいだろうと教師は思って質問をしています。

そして、「なぜ、そんなにがんばれるのかな?」と、逆説的な質問をはさみこんでいます。

Sにとっては、「自分は学校を休んでがんばれていない」と感じているのに、予想外の言葉がきて、気持ちを揺り動かされています。

そして、次に自分のことを見つめて、考えて、「スマホをさわっていると、学校のことが気にならなくなる」という気づきに至るのです。

このように、子どもが問われて意外に思う問い、教師が逆説的な聞き方をする方法があります。

「そうだったのか、学校のことを考えたくないので、ぼくはスマホをしていたのかもしれない」という悪循環の連続に、中学生なら気がつきます。

「ぼくは好きでスマホをやっているんじゃない」と続いて考えていくとき、不登校を乗り越える変わり目への一歩となるのです。

このようなやりとりができるのも、思春期の中学生ならではです。

考えて、自分での気づきを見つけた生徒は、自分からどうしていくかを定めて、実行していくのです。

このように、中学生は力強い存在であると、私は思います。