わたしは中学の頃、国語の授業で物語や小説を朗読したことがよくありました。
その後、英語の教師になりましたが、授業でも教科書の英文の音読はよく指導しました。また、英単語も生徒がとにかく声に出して発音することを重視してきました。
いまも国語の授業や英語の授業を参観し、授業者(教師)に助言することが多いのですが、最近は朗読や音読をあまりしない授業が多いのが気になっています。
これは、社会全体が音読をあまりしなくなったことに関係するのかもしれません。
たとえば、感染拡大防止のためでもあるでしょうが、電車内で会話をしている人は少ないですし、話していても小声で話していることが多いです。
さらに、みんなが黙々とスマホを見ています。
なかにはイヤホンで、自分の世界の中だけに音声を閉じ込めているのです。そして外部からの音はシャットアウトしています。
しかし、考えてみれば音読とか朗読する行為は、自分の口を動かして発した音を耳で聞き確認することになります。
授業での朗読の場合は多くの聞き手がいて、音を介して小説や物語、時には詩、漢詩、短歌、俳句などを朗々と、リズムを大切に感情を込めて読み上げる効果があります。
音声学的に言えば、朗読は文字言語を音声言語に変えることにより、自分の発する音により、文字を構成し直し、省察的にとらえ直す活動です。
ひらたくいえば、朗読により、音となった声が外の世界に出されて、それをまた耳で聞いてもう一度自分に戻ってくることで、自分の胸に訊くことができるのです。
その結果、自分の考えや思考が膨らみ、活性化するのです。
また、声を出すことで心のモヤモヤが薄らぎ、気分が晴れてくるとも思います。
このように考えると、言葉と音声はもともと密接につながっているといえるのです。
ところが、時代の流れとともに、読書は一人で黙々と文字を追う作業になり、今では「黙読」が主流になってしまいました。
スマホなどの情報コミュニケーションツールの近年の発達が黙読に拍車をかけているのです。
若い国語の教員の世代も、あまり朗読を指導しない人が増えてきました。
わたしなどは、学生時代に習った朗々と朗読した漢詩のリズムが今でも残っています。
「こじんにしのかた こうかくろうをじし
えんか さんがつ ようしゅうに くだる
こはんの えんえい へきくうにつき
ただみる ちょうこうの てんさいに ながるるを」
(故人西辞黄鶴楼
煙花三月下揚州
孤帆遠影碧空尽
唯見長江天際流
[李白])
およそ50年ほどたっても、今でも口に出してこの詩をその時のリズムのとおり発することができます。
実は朗読や音読は、記憶にしっかりととどめるという効果もあるようです。
学校では、音読や朗読を指導する授業をなくしてはならないと思うのです。
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