働き方改革の面で、またとくに東京オリンピックの前後から、日本では「多様性」という言葉がよく使われるようになりました。
多様性は英語ではdiversityとなり、海外の国々では当然のごとく人びとに受け入れられている概念です。
性別、国籍、人種、障害のあるなし、年齢などさまざまなちがいに関係なく、多様な人を受け入れ共生するということが「多様性」であると解釈できます。
が、日本では、まだ言葉だけが先行していて、社会や人びとの意識や行動規範に浸透しているとは言えません。
2019年の世界経済フォーラムでの世界男女平等ランキングでは、世界153国のなかで、日本は121位と低迷しています。
例えば日本では、自分の信条や考えを貫き通そうとすると、軋轢が起こり、他者から攻撃やバッシングを受けることが多くあります。
それを如実に表したのが、新型コロナウイルス対策として「自粛」がみんなに求められるのに、その通りしない人は容赦なく悪口を書かれたり、石を投げられたりしました。
非常時ほど同調圧力が強くなり、「みんながやっているのに、なぜおまえだけがやらないのだ!」というトーンで攻撃されます。
個人が自立しているとは言いがたいのです。
こんな実情なのに、多様性という言葉を聞いて、「それ、いいね」「時代のトレンドだね」(と言ったかどうかはわかりませんが)というように軽々しく使われれるのが日本です。
日本で多様性を浸透させようとするなら、まずは一人ひとりが「個」として自立して生きていなければ、多様性は実現できないのではないかと思います。
子どもの世界でも、学校のなかでまわりとちがった行動をする子やがいじめの対象になったりすることがあります。
日本で多様性を浸透させようとするなら、まずは一人ひとりが「個」として自立して生きていなければ、多様性は実現できないのではないかと思います。
子どもの世界でも、学校のなかでまわりとちがった行動をする子やがいじめの対象になったりすることがあります。
外国にルーツをもつ子にかかわらない、無関心をよそおうクラスメート。グループのすることに外れることをすると、口をきいてくれなくなる友だち。
わたしは子どもを責めるつもりはありません。これは多様性を認めない大人社会の反映であり、大人の縮図です。
多様性とはそれほど簡単なことではありません。
わたしは子どもを責めるつもりはありません。これは多様性を認めない大人社会の反映であり、大人の縮図です。
多様性とはそれほど簡単なことではありません。
多様性は「わたしとあなたはちがっている、ときには利害が対立することもあるでしょう。それでも、いっしょに生きていこうよ」という意識と態度であり、そこにはそれ相当の覚悟がいります。
「あの人、KYだ。まわりの空気を読まないよ」と嘲笑する価値観に多くの人が追随する日本の社会、集団、グループ、仲間内の中で、自分だけが突出しないように多数派の考えや意見に自分を合わせる人間関係にしばられる傾向が強い日本。
「あの人、KYだ。まわりの空気を読まないよ」と嘲笑する価値観に多くの人が追随する日本の社会、集団、グループ、仲間内の中で、自分だけが突出しないように多数派の考えや意見に自分を合わせる人間関係にしばられる傾向が強い日本。
その日本で多様性が保障されるのは難しいと、わたしはつくづく思います、
社会でも、はやり言葉のように「ダイバーシティ推進企業」のようにウリにするが、内実が伴っていない場合も多いのではないかと思います。
社会でも、はやり言葉のように「ダイバーシティ推進企業」のようにウリにするが、内実が伴っていない場合も多いのではないかと思います。
(次回に続く)
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