9/19~9/30に、わがコーラスグループの練習風景と無観客によるミニコンサートが地元のケーブルテレビ(CCNC)で放映されているそうで。
残念ながら、私の住んでいる市では視聴できないため、員さんがビデオ画像をDVDにダビングしてくれました。
その中で、私たちのテーマ曲でもある「いのちの歌」が披露されています。
練習の折に、指導者からこの歌詞の中に何度も出てくる「ありがとう」という言葉について質問が。
早速、調べました。
「ありがとう」とは―
仏説譬喩経(ぶっせつひゆきょう)に「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ」と言われるたとえ話があります。
ある時、釈迦が、阿難(あなん)という弟子に、「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」と尋ねた。
「大変、喜んでおります」
と阿難が答えると、釈迦は、次のような話をしている。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その盲亀が、百年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には、一本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は、風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿難よ。百年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴に、ひょいと頭を入れることがあると思うか」
阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことは、とても考えられません」。
「絶対にないと言い切れるか」
「何億年掛ける何億年、何兆年掛ける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と、釈迦は教えている。
「有り難い」とは「有ることが難しい」ということで、めったにないことをいいます。
人間に生まれることは、それほど難しいことなのです。
仏教では、人間に生まれてきたことは大変、喜ぶべきことであると教えられています。
「他人から何かしてもらうことは、めったにないことなんだよ、有り難いことなんだよ」というところから「有り難い」、それがくずれて「有り難う(ありがとう)」となりました。
私たちは、一人では生きていけません。
多くの人のおかげで生きています。
今日も、誰かに「ありがとう」と言ってみてはいかがでしょうか。
(「1から分かる親鸞聖人と浄土真宗」から)
ありがとう ありがとう 平和をありがとう
ありがとう ありがとう 優しさをありがとう