みどりの野原

野原の便り

12月13日 菅笠日記 飛鳥を歩く。天武持統陵・岡寺・酒船石・飛鳥坐神社・飛鳥寺(勝手な解釈が含みます) 

2024年12月13日 | Weblog

「菅笠日記」は、江戸時代の国学者、本居宣長が43歳の時、 同行者5名と荷物持ちと共に、  吉野~大和. 方面へ旅に出かけた時の紀行文。

明和9年(1772)3月5日(旧暦)に松阪を出発し、目的の吉野で桜の花見をした後、飛鳥方面~・・・14日に松阪に戻る。9泊10日の旅。

飛鳥を巡る前半コースは、前回に歩いたそうだが、私は参加していない。
今日は後半のコース。

3月10日(新歴4月12日)
吉野如意輪寺・・六田・・・壷坂寺・・土佐・・檜隈・・から、今日のコースに入る。

飛鳥歴史公園館をスタートして菅笠日記の足跡をたどる。
主な行き先のみ。


飛鳥歴史公園館 裏の紅葉


天武天皇・持統天皇陵
野口王墓 檜隈大内陵とよばれていたが、鎌倉時代の盗掘の取り調べの記録(古文書の写本)が明治13年に発見され、古墳内の様子(切り石積みの石室は2室からなり、夾紵棺と金銅製の骨臓器があった・・)が日本書記の記述などとも一致することから、ここが天武天皇・持統天皇の合葬墳と確定した。
被葬者がはっきりしない古墳が多い中、珍しく、被葬者が判明している古墳だ。

3月10日にここを訪れた宣長。『里の人に尋ねると「武烈天皇の御陵」だというが、ありえない』・・と書く。
宣長は古事記や万葉集などに精通している。

この頃は石室が露出していて宣長も中を覗けたようだ。

天武忌(天武天皇崩御の旧暦9月9日(新歴10月8日)には薬師寺で法要が営まれ、翌10月9日、薬師寺の全僧侶による法要が、天武持統陵の前で執り行われるとのお話を聞く。
(薬師寺は天武天皇が後の持統天皇の病気平癒を願って建立された勅願時)

藤原京の中軸線上に並ぶ「藤原京の聖なるライン」の中心になるとのお話もあった。

天武持統陵を下ったあたりの山裾に、武烈天皇を祀る「小泊瀬稚雀神社」がある。

亀石~橘寺へ。手前に柿本人麻呂の「妻が死にし後に泣血哀慟して作る歌」の万葉歌碑がある。

そこから見える「竜王山・三輪山・巻向山」は大鳥が翅を広げたように見え、「大鳥の羽易(はがい)の山」と詠まれている。

橘寺・川原寺も訪れている。川原寺では伽藍の礎石・めのうの礎石を見て寺勢盛んだった頃を偲んでいる。

飛鳥川のそばを通り岡寺参道入口に出る。(変わっているが懐かしい風景)


岡寺参道の前にある「嶋田邸」江戸時代は屋号「クスリや」という旅籠屋だったそうだ。(写真左の家 人がいて写真が撮れなかった)
宣長が泊まった「岡寺前の旅籠 角屋」はここだったのか?


石舞台でお昼。ここでも紅葉


午後、周遊路から岡寺へ。

3月11日(新歴4月13日)


岡寺(龍蓋寺) 仁王門は重文。

宣長は11日、「角屋」をたって岡寺に詣でている。
『観音参りの老若男女の混雑ぶり、大声で歌う御詠歌がやかましい』
(今では考えられない賑わいぶり)


すぐそばにある今は治田神社
菅笠日記には「八幡社」と記す。燈籠には「八幡社」の名が残る。
義淵僧正によって建立された岡寺。創建当時の伽藍は「八幡社」の境内にあったらしい。
(子供の頃のあそび場だった)


治田神社を下りた駐車場から、旧道を歩く。
農免道路ができるまではこの道を通っていたのだろう。
歩いたことはあるが、今はきれいに整備されて短いけれどいい道だ。


農免道路に出て、酒船石へ。酒船石は飛鳥の謎の石造物の1つ。


宣長は『あやしき大石あり・・硯を置いたような平らな石。丸くえぐった穴、溝・・』
『里人は 長者の酒ぶね と言い伝える』


『高取城を作る時に(石を)大きく欠き取っている』と記述。


左、甘樫丘(上に木が見える) その奥 畝傍山 その後ろ 二上山が重なって見える。


飛鳥坐神社 『麗しい鳥居、飛鳥井の跡』
階段を登ったところに4社。『元は神奈備山という所にあったが、淳和天皇の御代、神のおさとしにより鳥形山に遷されたという・・だから今あるところは「鳥形山」』『なので、昔はもっと寺域が広く、鳥形山の麓に近かったであろう飛鳥寺も鳥形山と名付けたのだろう』
飛鳥寺の山号は鳥形山というのは知らなかった。


鳥形山 飛鳥寺 
『飛鳥寺は里のかたはしにわづかに残りて門などもなく、仮のお堂に大仏という丈六の釈迦像が本尊のようだ。まことに古めかしく尊く見える。聖徳太子像というのは近き世の物と見えた。昔の堂の瓦というのも厚さもあり大変古いものだ』
(当時の飛鳥寺の様子に驚く)


『寺のあたりの田の畔に「入鹿の塚」という五輪の石が半ば埋もれている。
けれど、さして古いものには見えない』

今日の菅笠日記をたどる飛鳥のウォークもここで解散となる。
・・が、次のバスまで50分もある。
この辺で時間をつぶすのもしんどいので、橿原神宮駅まで歩くことにした。
・・おかげで?歩数計は2万歩越え。ちょっと疲れた。

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12月12日 高取方面 土佐街道 植物(コアカミゴケ・シホウチク・ミント)・建物・道標など

2024年12月12日 | Weblog


壺阪山駅前「高取 観光くすり町」のゲート。

高取は、飛鳥時代に天皇が「薬狩り」を行ったと伝えるところ。
動植物も豊かで自然に恵まれたところだったようだ。

江戸時代中期ぐらいからは奉行の許可を得て「大和売薬」として置き薬の行商をして歩くようになった。

子供の頃、家でも「置き薬」があった。
日頃使いそうな薬を先に預かっておき、使った分を次に来られた売薬さんに支払う。そして、また補充。という方式
信用の上に成り立っていた商売だったと思う。
高取は富山と共に薬売りが盛んだった。


マンホールには、町の木 カエデ 町の花 ツツジ  のデザイン。

「土佐街道」に入る。
ここは高取城の城下町として栄えた所。
「土佐町」の名の由来は、飛鳥時代初期、大和朝廷の都造りに召し出された土佐(高知)の人が、任務を終えて帰郷する時には朝廷の援助がなく帰郷できず、ここに住み着つき、郷里の「土佐」名をつけた。


当時の雰囲気を感じられる町並。
道路の両脇の石畳は阪神淡路大震災の後の復旧工事で出た石が活用されているそうだ。


石畳には、薬草になる植物のタイルが埋め込まれている。

歩きながら数えたら・・
タンポポ 2枚・ナンテン 3枚・センブリ 2枚・ゲンノショウコ 2枚・
ドクダミ 3枚・キキョウ 3枚・クズ 2枚・アオキ 3枚・ナズナ 2枚
9種類、合わせて22枚のタイルがあった。みなおなじみの植物だ。


左)札の辻には「右 つぼさか よしの みち」の道標がある。
右)「高取町道路元標」

道標を3基見た。


   十五丁  埋もれそうな十丁?十一丁?  七丁
「これは高取城の丁石?」家に帰って、道標に詳しい息子に尋ねたら「観音院道の丁石」とのこと。
「前に行ったやろ 観音寺跡」と言われ・・うすうす思い出す。
あ~。あの荒れていたところ・・残りの丁石が少し残っていたね。
去年の3月16日に行ったのだった。すぐ忘れる・・

その時のブログが出てきた。参照 ココ

土佐街道には高取城にあった建造物が移築されていたり、城下町時代の建物や跡が残っている。


「松の門」高取児童公園の入り口に移築。


県文化財 植村家長屋門

他にも、重文 臼井家(伊勢屋)屋敷跡・伊勢屋屋敷跡・田塩家住宅長屋門


石川医院 表門は、高取藩主の下屋敷表門を移築したもの。
現在も開業中。など・・


コンピューターグラフィックで高取城を再現したもの。
明治に取り壊されたが、明治の頃の写真も残ってる(高取城址の近くにあった)
近代城郭では日本一の高低差。
日本3大山城の1つに数えられた。
高取城址には今も立派な石垣が残る。

破却せず残っていればどんなに良かっただろうか・・いつも思うが、
583mの山の上。管理も大変だろう。

途中に「馬冷やし」という所があった。
山の上まで荷物をつんだか、人を乗せたか・・馬もそれは疲れたことだろう。

観察した植物。


           イヌカタヒバ                                  ヒイラギ


ミントが道端に繁っていた。

メンバーのお1人から
「アメリカ ケンタッキーダービーを観戦する時、ミントで作った「ミントジュレップ」が欠かせない」というお話。
「シロップに若いミントの葉をつぶして入れ、炭酸水と氷とバーボンウイスキー」を混ぜる」と、作り方まで教えてくださった。

知らない話を聞くのが大好き。それに「ミントジュレップ」おいしそう。


別のメンバーがコハナミゴケを見つけた。
地衣類で、赤い部分は胞子をつくる子器という部分。

水路のセキショウの香りを嗅いだり。


ある人はスギの枝に作ったトックリバチの(空の)巣を見つけ・・


ニューサイランやチョウセンマキも栽培されているようだった。
条件が良ければ花もさくという。見たいものだ。


テイカカズラの実からふわふわと飛んできた種子。
長い種毛が付いて、風で遠くに運ばれる。


シホウチクは稈の断面が四角(角は丸い)竹。
ちょうど倒れていたのがあって、節の部分の気根のようなものや、稈の表面には細かい刺状の突起があるのもよくわかった。
タケノコは秋に出る。この竹もまだ枝が伸びていない若竹だ。




砂防公園近くでは紅葉がきれいだった。


道路端に紅葉の吹き寄せ。

紅葉を見ながら弁当を食べ、ゆっくり下る。


道横の水路のダイサギ。 
すぐ近くを歩いているのに全く気にせずに悠々と歩いていた。


帰り道で妹が見つけた鬼瓦。この紋は何かな?
これは「丸に一文字 割桔梗」という植村家の家紋、ということがわかった。

高取の町・土佐街道、色々楽しめた。

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12月8日 娘と丹波篠山 1泊2日 ②(再度)篠山城・妻入り商家群・王地山陶器所・まけきらい稲荷社・王地山紅葉・丹波古陶館

2024年12月08日 | Weblog

丹波篠山 2日目 


左)ホテルの庭は「庭師の名人 重森三玲の枯山水の庭」とのこと。
部屋から見下ろす。下りて見に行く時間がなかった。
右)宿泊した篠山観光ホテルは、元、篠山藩家老屋敷だったそうで、重厚な門が残る。

再度、篠山城跡へ。

今日は「東馬出跡」から入る。
説明板によると『「馬出」とは城の出入り口を凹字形の濠と塀で囲んで、城門への通路を複雑にしているもの』


篠山城へ。橋は濠の上にかかっている。濠の景色が美しく、お気に入り。


篠山小学校の前を通る。ここも城域内。
ここに書かれている「デカンショ」ってなに?
「デカンショ節」は聞いたことがある。
篠山節と言われる盆踊り歌で、囃子詞の「ドッコイショ」が訛ったものとの説。
灘方面に出かける酒造り杜氏たちの「出稼ぎしょ」からの説などあるようだ。


左)篠山城の石垣 こちら側もすばらしい。
右)北廊下門から進む。右手奥の桜は「桜開花基準木」のようだ。


左)中門跡(なかのもんあと)
右)城跡に建つ「大書院」入口
大書院は、慶長14年(1609年)の篠山城築城と同時に建てられ、天守のなかった篠山城の 中核をなす建物だった。
廃城令によって日本各地の城の多くが破却されるなか、大書院は 難を逃れたが、昭和19年(1944年)1月6日夜焼失。
今ある大書院は、篠山市民の熱い願いと尊い寄付によって平成12年(2000年)3月再建された。
残念ながら時間の都合で見学できず。


左)井戸跡 城内に3か所の井戸があったそうだ。
これは、大書院玄関西側にあったので「二の井戸」のようだ。
右)石垣と濠 青空に映えるなあ。


広場の向こうに見える小山は、三の丸の土塁

昨日今日と篠山城をたっぷり見た。美しい城だった。

再度、妻入り商家群


妻入り商家群 朝の景色          丹波の焼き栗 気前よく試食させてくれた。
皮の切り目からポロッと実が外れ、ホクホクとおいしく、お土産に買った。

朝食は昨日目星をつけておいた店へ。

  
店の名は何て読むの?「Oito」(オイト) トーストの朝食。
江戸末期、築約二百年の町屋をリノベーションした「喫茶・宿」
ここも見学されてもらった。


朝食は遅めで、他の客とは時間差あり。窓から中庭も望めた。

1Fにベッド2台の部屋、2Fにベッド2台の部屋。1日2組まで宿泊可。
家具や調度にもこだわり、ゆったり過ごせそう。

それにしても「Oito(オイト)」、昨日行った「une(ウネ)」 、見どころを巡回する「meGREEN バス」むつかしい名前が多いなあ。


妻入り商家群をずっと歩いて、端まで来た。
この辺まで来ると観光客の姿はない。 
突き当りに大きいエノキが見えた。その向こうは篠山川らしい。


家の横に黒大豆を干している家があった。


少し戻って山の方に折れる。 熟したクコの実

王地山陶器所


3連の小規模な登り窯があった。
『江戸時代中ごろの文化文政期(1804~30)、当時の篠山藩主であった青山忠裕(あおやまただやす)がこの王地山の地に築いた藩窯』がルーツ。

『王地山陶器所は、廃窯から100年以上の時を経た昭和63年(1988)に、同じ王地山の麓に復興され、独特の緑色の青磁、染付、赤絵などの作品を当時の技法を使って製作されています』

 
紅葉の名所、王地山とはこのあたりのよう。 紅葉は見ごろだった。

王地山まけきらい稲荷社(平左衛門稲り神社)(王地山稲荷社)


左)「吒枳尼天王(だきにてんおう)」の扁額のかかる大鳥居を登る。
右)「王地山まけきらい稲荷社(平左衛門稲荷神社)」

まけきらい・・何のことやら・・
『元和五年(1619年)に、安房守信吉公が丹波篠山城主として転封のおり、吒枳尼天王の霊像を王地山に遷し鎮座したのが始まりと伝えられている。それ以来、王地山稲荷大明神といわれるようになった』
『青山忠裕公が丹波国篠山藩主で、江戸幕府の老中だったときのころのこと。
毎年、将軍様御上覧の大相撲があるのだが、いつも篠山藩の力士は負けてばかりいた。ある年のこと、王地山平左衛門ら8名の力士と行司、頭取ら10名が来て、いつも負けてばかりの篠山藩の力士が、全員全勝するという不思議なことがおこった。
負けきらいの殿様は喜び10名に褒美をやろうとしたが、どこにもいなかった。
全員が領内のお稲荷さんで、いずれも化神力士であった』 




王地山のモミジ 堪能した。

午前中あんなにいい天気だったのに、天気予報通り雨が降ってきた。
準備万全。外回りはだいたい行った。
雨の時に行こうととっておいた「丹波古陶館」に入る。


「丹波古陶館」丹波焼の数々の展示を見る。西館・北館・東館 
丹波焼は、平安時代末期に始まった。
丹波古陶館では、丹波焼の創成期から江戸時代末期に至る700年間に作られた代表的な品々が、年代・形・釉薬・装飾等に分類して展示されている。


遅めのランチを、昨日目星をつけておいた「カフェ KUROMAME 六夢叶(くろまめムムト)」で。 ここの名前もむつかしい。

娘は昨日のぼたん鍋がまだお腹に残っているよう。私の健啖ぶりにびっくりしていた。(私の得意は食べることと寝ること)
とはいえ、おいしい炊き込みご飯は全部食べられず、パックをもらって持ち帰った。

丹波杜氏酒造記念館 休館日だった。
『元禄年間の頃より、池田や伊丹に出稼ぎが行くことが盛んになった。
出稼ぎは丹波地方の人々の生活と経済に欠かすことのできないものだった。
ところが、宝暦・天明の頃に各地で天災が続き、凶作が続いた。
篠山藩は、農民が酒造出稼ぎに出るため田畑の管理が十分できないためだとして、厳しい「出稼ぎを制限する命令をだした。
この窮状を救うために、「市原清兵衛」は命を懸けて、江戸屋敷にいた篠山藩主に直訴し、「出稼ぎの制限」を緩和させたという』(説明板抜粋)
すごい人がいてよかった。

まだ雨は降っている。
ホテルに戻って帰り支度。近くのバス停から帰路につく。

城下町丹波篠山を2日間で回り、篠山城跡・武家屋敷群・妻入り商家群などみごたえがあった。おしゃれなカフェでの食事もおいしかったし、知らなかった世界を楽しめた。
楽しい旅に誘ってくれた娘に感謝。お留守番組にも感謝。

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12月7日 娘と丹波篠山 1泊2日 ① 街歩き・御徒士町武家屋敷群・篠山城跡・妻入り商家群・ぼたん鍋

2024年12月07日 | Weblog

娘が1泊2日の丹波篠山の旅に誘ってくれた。
大阪で合流。紅葉のきれいな山の景色を見ているうちに篠山口駅に到着。
お天気は良い。
バスに乗って、ホテルに荷物を預けて・・さっそく町歩き。

初めての丹波篠山の町歩き。 


「une」築約110年の古民家を改修した(ゲストハウス ・セレクトショップ )
娘が店の方と話しているうちに、館内を見せてもらえることになった。

 
           きれいな中庭。                  レトロなガラス窓と陶器 おしゃれ~。

2階は寝室が3部屋(シングル1室、ツイン1室、ダブル1室)のゲストハウス。
どの部屋も居心地よさそう。泊まってみたいなあ。
まだお客様がおられない時間で中を見せていただけてよかった。
人気があるらしく、特に週末は予約がいっぱいらしい。

料理旅館 高砂で遅めのランチ


嘉永元年に開業の老舗旅館 どっしりと貫禄の広い階段 


城下町 丹波篠山の町並み。大きい町です。

重要伝統的建造物群保存地区 御徒士町武家屋敷群




御徒士町武家屋敷群 広い通りに武家屋敷が点在(十数件あるらしい)
スッキリしていると思ったら電線がない。

天保元(1830)年の火災により大半が焼失したそうで、ここはその後ほどなく建てられたものだという。
再建の時、一間(約1.8m)後へ下げ、道が広くなっている。

徒士(かち)とは主君の外出時、徒歩で身辺警護を務めた下級武士のこと。
篠山城の西側 慶長14(1609)年に篠山城が完成した際に町割が行われた。


左)雄山家住宅 茅葺屋根『建築年代は明治期 丹波市柏原の建築物を移築した神官の母屋・離れ・土蔵・門・塀が残る』
右)佐藤家『建築年代は天保年間 母屋・土蔵・門が残る』

このような建物が十数棟残っているそうです。

武家屋敷 安間家 資料館 見学

天保元年(1830年)以降に建てられた武家屋敷。
全面的な改修を行い、史料館として一般に公開されている。
槍かけがあったり、具足が飾られていたり、武士が接客の時に使う調度品があったり、篠山藩の資料もあった。


江戸時代の丹波焼の展示


茅葺屋根の2棟の建物が曲がり屋になっている。
曲がり屋は篠山の武家屋敷の特徴らしい。


曲がり屋になった部分の軒裏


紅葉の残る庭。

おぜんざいで一服して・・篠山城へ。

篠山城跡
『1609年(慶長14年)徳川家康が豊臣氏や西国諸大名の抑えとするために山陰道の要衝の丹波篠山に松平康重に築城を命じた。
普請総奉行を池田輝政が務め、天下普請により6か月で完成した』
廃藩置県後の廃城令によって取り壊された。


篠山城のお濠。そばへ行くと、ダイサギが2羽飛び立った。


篠山城跡へ階段を登る。

石垣には刻印のある石がたくさんあるそうだ。


石垣の角石に「三左之内」の刻印
篠山城普請奉行の池田三左衛門輝政の名を記したようだ。


いくつか刻印を見つけることができた。

石垣を登ると広い城跡に出る。
大書院の建物(再建)と、青山神社(1882年に本丸跡に建立されたという、篠山藩主の青山氏の遠祖が祭神として祀られている)があるだけ。


散り紅葉


    「天守台」へ。    天守台があった所。南東の隅
普通、天守閣があるべき場所だが、城郭が堅固すぎるとの江戸幕府の指示により天守閣の建築を中止したため天守閣はなく、4m四方の単層の隅櫓が造られた。

天守台のあった場所から、下に篠山小学校の校舎が見えた。 
校舎が建っているところも篠山城跡地内。
昔のままの木造校舎で、2023年国の登録有形文化財になっているらしい。
建築好きの娘は見たそうだったが、学校の敷地内へ入るのは無理そうなのでここから眺めることにする。


下から見上げる石垣もすばらしい。一番奥が天守台のあった高い所。
濠にヒドリガモが2羽泳いでいた。
篠山城には外堀内堀、馬出堀がある。ハスの植えてある濠もあった。

河原町 妻入り商家群(重要伝統的建造物群保存地区)

 
妻入りの商家が立ち並ぶ。
軒先に陶器や雑貨が並び、寄り道が楽しい通りだ。


左)西坂家住宅 屋号「綿屋」綿花栽培・醤油屋 中二階建て建築。
右)小林家住宅 (建築年代明治12年)妻入り平入建築を組み合わせ、町医者として建て、昭和40年(1965)まで開業されたそうだ。


川端家住宅 表間口9間半の敷地に建つ入母屋平入の町家


すごい「うだつ」の目立つ家。ここは何だ? 説明板はない。
ネットに「元材木商の豪邸だった」との記事があった。
今も居住されているようだ。


左)器とくらしの店「ハクトヤ」
右)平入の商家もある。軒下に陶器が並ぶ。


店先(作業場の前)に古い畳が山積み。「古い畳さし上げます」の張り紙。
店のご主人が出てこられてお話した。
入れ替えで引き取った古畳。「うちは藁100%のものしか扱いません」
「1枚の畳をほぐせばすごい量の藁が取れます。畑や牛舎の敷き藁にできる」と。
ゴミとして処分せずに活かすというのは素晴らしい考えだ。


角の店

工芸の店・丹波焼の店・軒先に雑貨の並ぶ家・・おしゃれな宿泊できるところも。
静かなレトロな町並み。昔の町家を利用した店や宿。
明日、もう一度来るところ・ランチの店もチェックした。

日暮れは早い。


ホテルに戻ってチェックイン。
預けてあった荷物を部屋へ入れ、夕食を食べに出かける。(素泊まり)

夕食は、篠山名物「ぼたん鍋」

イノシシ君のお出迎え。


ぼたん鍋 お肉も野菜もたっぷり。
私は芋焼酎を。最後にうどんで〆て・・


見事完食。ふ~~お腹いっぱい~。

ホテルに戻り、大浴場へ。そしてバタンキュー。ZZZ

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12月6日 今城塚古代歴史館・今城塚古墳公園・太田茶臼山古墳・新池ハニワ工場公園

2024年12月06日 | Weblog

高槻・茨木方面への、歴史フォローアップ研修会に参加。

バスの中で、今日の見どころ、飛鳥とのつながりもあるという。
跡継ぎを残さず崩御した25代武烈天皇の次になぜ15代応神天皇の5代後の子孫である継体天皇が王位についたかなどの説明を聞く。
最初は承知しなかったが、説得の結果即位したのは507年58歳の時。
しかもすぐに大和に入らず、河内国樟葉宮(枚方市)~筒城宮(京田辺市)~弟国宮と転々とした後、526年磐余玉穂宮(桜井市)に入ったのは526年。
531年息子の27代安閑天皇に譲位。
同日82歳で崩御したという。(古事記と日本書紀で記述は食い違う)
御陵は宮内庁が三嶋藍野陵に比定している。

なぞが多いが、継体天皇は実在が間違いなく、ここから現在の天皇家へと続いている。

今日は、①今城塚古代歴史館・②今城塚古墳公園・③太田茶臼山古墳・④新池史跡ハニワ工場公園 の4カ所を廻った。

①今城塚古代歴史館

 展示が充実。ガイドさんもすばらしかった。
 今城塚古墳についても詳しい展示があった。


後で行く「今城塚古墳」から出土した「本物の埴輪」が並んでいた。

石棺に使用された3種類の石棺材(阿蘇ピンク石(溶結凝灰岩)・兵庫の竜山石・二上山の白石(凝灰岩))の展示。


「阿蘇ピンク石」の触れる展示。
薄ピンク色で柔らかい手触り。彫りやすそうだった。

未盗掘で見つかったという「阿武山古墳」の展示
1934年、京都帝国大学の地震観測所の地下から偶然みつかったという。

石棺は夾紵棺で、中には50~60歳ぐらいの埋葬遺体があり、遺骸とともに金糸で刺繍された冠帽や、玉枕・錦の織物などが見つかり、冠帽は大化の改新で定められた大織冠の特徴がある・・などにより「藤原鎌足の墓」と言われているそうだ。
飛鳥で生まれ、大化の改新に力をつくし、談山神社に眠ると思い込んでいた藤原鎌足が、後年摂津三島に隠遁して亡くなっていたのは知らなかった。

②今城塚古墳公園
 今城塚古墳は、三島古墳群にある。
『6世紀前半に築かれた2重の濠をそなえる淀川流域最大の前方後円墳』
『学術的には継体大王の真の陵墓と言われている』
 『10年間の発掘調査の成果をもとに、広さ9ヘクタールの緑豊かな古墳公園に  生まれ変わった』(パンフより)


歴史公園から通路を通ってすぐそばにある。
そこには見たことのないような風景が広がっていた。


今城塚古墳 遠景 その前にたくさんの埴輪

そこは「埴輪祭祀場」というお祀りの場。日本最大級だそうだ。






円筒埴輪や家・太刀・盾・人物動物などの形象埴輪
発掘調査で確認された位置に復元配置されたという埴輪のレプリカ。
190点あるらしい。
圧倒された。
古墳の周りには6000本の埴輪があったそうだ。ひえ~~~!


内濠は半分水を溜めてある。
外濠は水なし。


水のない内濠を歩いて後円部に上る。
「天皇陵で登れるのはここだけです」とガイドさん。
ここは宮内庁の管理ではない。


墳丘に生えている木は鳥たちによって運ばれたものとのお話。
アベマキの落ち葉の中を上る。クスノキやエノキもあった。


3段築成の後円部の中心を示すマーク 
墳丘の盛り土を守る石組や排水溝・テラスの外縁には円筒埴輪が廻っていたこと・そこには2本マストの船のへら書きがあったこと・
古墳を作るのに1日200人で7年間かかった・・などのお話を聞く。



芝生の公園では親子の遊ぶ姿もあった。


フユザクラが咲いていた。

バスで移動

③太田茶臼山古墳(茨木市)
 「継体天皇三嶋藍野陵」


宮内庁によって「継体天皇三嶋藍野陵」に比定されている古墳。
大阪市北部では最大規模の古墳。途中で倍塚を数基見かけた。
5世紀中葉頃の築造と推定され、墳丘の周囲には盾形の周濠や周提がある。

現在は三嶋藍野陵が継体天皇陵と比定されているが・・
築造年代が継体天皇の没年と異なり、所在地も史書の記述と食い違うそうで、現在では「今城塚古墳が真の継体天皇陵」とする説が有力視されているそうだ。

次に移動。

④新池ハニワ工場公園(高槻市)
ここもビックリ。
「ハニワ工場」というのも聞いたことがなかった。
ここは太田茶臼山古墳や今城塚古墳・・などの大量のハニワを作った工場の跡。
ハニワ窯は全部で18基 作業小屋(工房)や工人の住居もあったそうで、断続的に100年間使用されたそうだ。


最初に太田茶臼山古墳のためにつくられた1号・2号・3号の窯。
左はハニワ窯の発掘調査中の様子を再現。

その後、窯5基と住居7棟が作られ、番山古墳のハニワを焼き・・
530年頃、今城塚古墳のたくさんのハニワ作りのために、窯10基が造られた。


斜面を彫り込んで造られたハニワ窯。
発掘した跡はサツキの植栽で位置と大きさを再現してある。
(18基の全体像は撮れません)

ここには、窯が築きやすい斜面・粘土や砂が得やすい。近くに燃料となる松林がある。水を得やすいことなど、ハニワ工場の条件がそろっていたようだ。




作業小屋(工房)
ここでハニワをかたちづくり、陰干しで乾燥させて、窯で焼く。


作業小屋(工房)の屋根はカヤと杉板葺き。釘は使っていないそうだ。
天井は高く夏は涼しそう。冬は・・寒そう・・
1つの棟で20人ぐらいが作業していたとか。


遊歩道沿いにはハニワのレプリカが並ぶ。


漫画での説明もわかりやすく、子供も大人も楽しめる工夫。


最後に窯の内部を再現したドームを通り抜ける。


ハニワ窯の様子

すべての見学が終わり、バスに戻る。
橿原まで1時間ぐらいだった。

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12月5日 家の庭 ダルマギク・キチジョウソウ・ハナミョウガ・センリョウ・ヒメノウゼンカズラ剪定・クビキリギス

2024年12月05日 | Weblog


咲かないのかと思っていたダルマギクがようやく咲き出した。
去年、壱岐島の海岸で大群生を見た。


庭の隅にはキチジョウソウの花。


センリョウは今年は実付きがよくない。


草陰に赤い宝石を見つけた。ハナミョウガの実
柱頭は太い。

家の前に植えているヒメノウゼンカズラ
花の少ない秋にオレンジ色の花を次々とよく咲かせてくれた。

枝葉が繁って気になっていたのをゴミの日に合わせて朝から高枝切ばさみとノコギリで剪定した。


スッキリしたヒメノウゼンカズラ

落ちた葉を掃除していたら・・


クビキリギス


俗称「血吸いバッタ」と言われる赤い口・鋭い大あご。

嚙まれた時、外そうと思って引っ張ったら首がちぎれるらしい。
幸い、気を付けているのでそんな目にはあったことがない。
成虫で越冬するらしい。
いい越冬場所を見つけて冬を過ごしてね。

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12月3日 種なしリンゴ

2024年12月03日 | Weblog

朝、リンゴを食べようと思って半分に切ったら・・


あら? 種がない。 
子房にあたる部分もなく、種は1粒もなく、ほんの少し筋があるのみ。
種なしリンゴ、初めて見た。

スイカが種なしになったように、リンゴも品種改良で本当の種なしリンゴができるかも?

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12月1日 西ノ京から富雄丸山古墳

2024年12月01日 | Weblog

行ったことがなかった「富雄丸山古墳」
西ノ京から歩けるって? 考えたこともなかった。
西ノ京駅で降りるのも久しぶり。


左松並木を行くと「薬師寺 北門跡」の看板があった。
境内はここまであったようだ。

そして、左折して養天満宮参道へ。


養天満宮は近鉄線踏切を渡るったところ。
参道が近鉄線に分断されているようだ。


養天満宮 初めて来た。静かな境内。


養天満宮 本殿 御祭神は菅原道真公
『平城遷都により薬師寺が飛鳥から移建された頃、「寺内外十三社」の1つとして創建されたという』


 社叢は奈良市指定文化財(天然記念物)に指定されている。
住宅街の中にあって、シカの影響を受けず「原生林」のような森が広がっている大変貴重な空間。

境内を抜ける。・・・


住宅地の1角に「瑠璃宮跡」の表示板
孝謙天皇の離宮がこのあたりにあったそうだ。

平安遷都で衰退して廃墟になったらしい。

そこから右折左折 富雄川を渡り・・・

赤膚山に来た。


赤膚山元釜 古瀬堯三窯を見学。

 
庭に陶器が使われているのも窯元らしい。


入った所はショップ 奈良絵の付いた陶器などが並んでいた。
ここから裏へ抜ける。

「赤膚」の由来は平城京の造営で山の木が大量に伐採されて(赤い山肌が)赤裸になったように見えたこと。
「赤膚焼」は豊臣秀吉の弟、倭大納言の秀長が、赤膚山に常滑の陶工与九郎を招いて茶器を焼かせたことに始まる。

現在の赤膚山元釜は、天明の頃、京都から赤膚山に入り、茶人としても高名な大和郡山城主柳沢保光(堯三候)の意向を受けて赤膚焼きを再興した「治兵衛」を祖とする。



登り窯が3つ。これは一番大きい窯 
大中小全部の窯が使用可能な窯というのが評価されて、大型登り窯(江戸後期)と中型登り窯(昭和初期)は国の登録有形文化財に登録されている。

 
窯の中を覗く。


左が小型の登り窯 右が中型登り窯 その右側に大型の窯がある。


軒下には薪がたくさん準備されていた。


登り窯から山道を少し上がった所 見晴らしがよく、若草山も見えた。

古瀬堯三窯を出て・・・イオンを通り抜け・・・・


道路に富雄丸山古墳への案内


この山の向こう側なのか? 警備員さんもいた。

まもなく、丘陵の下に到着。
先発集団の説明が終わるのと交代して、丘の上へ。


フェンスには説明板が付けられている。


ここなのか~。土嚢を積んだのが見える。
資料の図を見ながら説明を聞く。

土嚢を積んだところが「造り出し部」らしい。
その奥が円墳の部分のようだが・・
そして左の方には最古の湧水施設があったらしい。
現場を見てもピンとこない。大きさも感じられないが・・
どんなところか見に来れてよかった。

富雄丸山古墳
1972年(S47)団地造成のための発掘調査が行われ、円墳の中央部に埋葬施設(粘土槨)・木棺が見つかった。

2023年(H29)日本最大の円墳(3段築成)であることが判明。
直径109m 円墳としては全国最大。墳丘は3段築成の円墳で北東部には「造り出し」が付いている。

墳丘の埋葬施設は激しく盗掘されていたらしいが、その散乱の中から出土品もあった。
そして、京都国立博物館や天理参考館の所蔵品の中にも丸山古墳出土と確認されたものもあるのだとか。国の重文に指定されているものもある。

「造り出し部分」も3段築成で、ここにも埋葬施設があり、木棺が確認されたと聞いてびっくりした。
(歴史に強くない。他の古墳の「造り出し部」でも埋葬施設があることがあるのかな)

2023年。その造り出し部の木棺を覆った粘土層から出土したのが「蛇行剣」
全長237m。剣身はうねうねと蛇行する。
日本最古最大のものと言われる。(橿原考古学研究所で見たことがある)


現地で「実物大の蛇行剣」のコピー(継ぎ目なしのコピーにビックリ)を見せながら解説してくださった。


同じく、造り出し部から見つかった「鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡」
これも前例の無いものだそうだ。


そばの公園を下る。


ホコリタケが並んでいた。老菌

下った所が若草台中央バス停。
学園前から帰る。

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11月29日 サイクリング あちこち回る

2024年11月29日 | Weblog

先日自転車を買った。

今日は、試乗を兼ねて息子とサイクリング。
家を出発して、気になる所(オオツメクサ)~ニオイタデのあった所~広陵町の百済寺
帰りにタコノアシの生育地4カ所~ソテツシジミのいた所など廻って帰ってきた。
12.5㎞ぐらい走ったそうだ。


オオツメクサ 前に見た場所より少し離れたところに。
小さいので目立たない。


サイクリングの目的の1つは、ニオイタデの種まき。
数年前に、30年来探していたニオイタデをここで発見。
去年もあったのに、今年は全く見当たらず。
草刈りなど人手が入らない所なのに、他の草に負けてしまったのか?
ここから持って帰った1本がベランダでよく育ったので、ここへ種を返しに来た。

百済寺まで足を延ばすことに。


百済寺 三重塔 
『全高23.27m 現存の搭は鎌倉中期の建築と考えられ、国の重文』

百済寺 本堂
『江戸時代中期の建立とされ、江戸時代に百済寺は談山神社の領地となり、その末寺とされていた。談山神社の旧本殿をここへ移築したものではないか』とのこと。

梵字池もある。


春日若宮神社 
百済寺は春日若宮神社の境内にある。
百済大寺の鎮守社として創建されたとのネット記事。

帰りに曽我川堤防への坂道を自転車を押して登っていると・・


斜面にウマノスズクサの群生地を見つけた。

見忘れた所(先日クロマダラソテツシジミがいたソテツ)に戻り、卵を産んでないかちょっと見てみる(見つけられなかった)


ついでに、子部神社(右の大屋根は瑞花院)にも立ち寄り・・

 
大峰山三十三度記念碑と 宝篋印塔  
右)宝篋印塔の中の役行者像は、銘はないが、佐吉作という人もある。
右手の細い錫杖の掘り出しなどの技術も優れていると思うが、どうなのだろう?


京奈和自動車道の工事中の所。今の橿原バイパスの歩道橋を自転車を押して登る。
歩道橋中央部から見下ろす。
左右に新歩道橋を渡るための長~~い登り道。
その左右をつないで(点線部分)歩道橋が完成するようだが・・
「人」はこれだけの苦労を強いられるのか・・車社会
近くに学校があり、西(右)から通う生徒たちはこれを毎日渡ることになるのかな?

以前タコノアシを見た何カ所かを廻ってみる。


1か所目の家の間を入った所には、枯草の中に数本見えた。
2か所目これも家の間を入った所・・見つからず。


3か所目。以前、幅1mぐらいの白枠部分に大群生があった所。 1本もなし。

4カ所目。近くで見れた所だが、西はなくなった。東は草の間に倒れたのが少し。


5か所目は今日の新発見地 一番タコノアシらしい姿が見れた。

約3時間で帰宅。


マイ自転車 今日が初乗り。

今日の感想。
あっちやこっちや寄り道。これは歩いては行けない。
その点では自転車は便利。

歩きなら何でもない細い道や田んぼの間の農道は走れない。
慣れないこともあり、走ることに集中して周りが見れない。
歩いたらちょっとしたことも目に付く。

そんなことで、自転車と徒歩をうまく使い分けることが必要ですね。

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11月28日 橿原神宮周辺 

2024年11月28日 | Weblog

午前中、今年初めに亡くなった先生を偲んで橿原神宮周辺をぐるっとひと回り。

雑草の中に白く枯れたオギの穂。


「オギはススキに比べて穂の下の葉までの茎が短い」という人があった。
そこまで見なくてもオギとススキはわかるので、気にしていなかったが・・
帰って、前に採ってきたオギを見ると・・。
(ススキがなかったので比べられなかったが)確かに短そう。


色づいてきたハナノキ 


深田池 ほとんど ヒドリガモで、オオバンが少し。


ウラジロガシ


橿原神宮拝殿前の絵馬
「辰」は取り外され「己」は取り付け前の状態。
間もなく12月だ。


イヌセンブリ 花もあり、まだつぼみもたくさんある。


イヌセンブリ 花冠中心部に長い毛がある。


モミジ


ドウダンツツジの鮮やかな赤。


森の中にヤブコウジ


地面の端に固いキノコ 一見丸い石に見える。


割ってみたら・・ コツブタケだ。


これも石ころ状の固いキノコ。


同じキノコかと思ったが、割ってみると、薄い灰色で粒はない。
コツブタケと同じニセショウロ科のキノコらしい。
土の中の木の根に寄生しているのかも。

みんなで歩きながら「こここでは石垣のシダを見たね」
「ここでオオハシカグサを教えてもらったね」
「これはちょっと珍しいものやで」・・先生の声が聞こえそう。

残念ながらこの会は最終回となり、午後はお別れ懇親会となる。 
のほほんと参加していたのが悔やまれるが、楽しい思い出の多い会だった。
お世話して下さった皆さまありがとうございました。

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