「菅笠日記」は、江戸時代の国学者、本居宣長が43歳の時、 同行者5名と荷物持ちと共に、 吉野~大和. 方面へ旅に出かけた時の紀行文。
明和9年(1772)3月5日(旧暦)に松阪を出発し、目的の吉野で桜の花見をした後、飛鳥方面~・・・14日に松阪に戻る。9泊10日の旅。
飛鳥を巡る前半コースは、前回に歩いたそうだが、私は参加していない。
今日は後半のコース。
3月10日(新歴4月12日)
吉野如意輪寺・・六田・・・壷坂寺・・土佐・・檜隈・・から、今日のコースに入る。
飛鳥歴史公園館をスタートして菅笠日記の足跡をたどる。
主な行き先のみ。
飛鳥歴史公園館 裏の紅葉
天武天皇・持統天皇陵
野口王墓 檜隈大内陵とよばれていたが、鎌倉時代の盗掘の取り調べの記録(古文書の写本)が明治13年に発見され、古墳内の様子(切り石積みの石室は2室からなり、夾紵棺と金銅製の骨臓器があった・・)が日本書記の記述などとも一致することから、ここが天武天皇・持統天皇の合葬墳と確定した。
被葬者がはっきりしない古墳が多い中、珍しく、被葬者が判明している古墳だ。
3月10日にここを訪れた宣長。『里の人に尋ねると「武烈天皇の御陵」だというが、ありえない』・・と書く。
宣長は古事記や万葉集などに精通している。
この頃は石室が露出していて宣長も中を覗けたようだ。
天武忌(天武天皇崩御の旧暦9月9日(新歴10月8日)には薬師寺で法要が営まれ、翌10月9日、薬師寺の全僧侶による法要が、天武持統陵の前で執り行われるとのお話を聞く。
(薬師寺は天武天皇が後の持統天皇の病気平癒を願って建立された勅願時)
藤原京の中軸線上に並ぶ「藤原京の聖なるライン」の中心になるとのお話もあった。
天武持統陵を下ったあたりの山裾に、武烈天皇を祀る「小泊瀬稚雀神社」がある。
亀石~橘寺へ。手前に柿本人麻呂の「妻が死にし後に泣血哀慟して作る歌」の万葉歌碑がある。
そこから見える「竜王山・三輪山・巻向山」は大鳥が翅を広げたように見え、「大鳥の羽易(はがい)の山」と詠まれている。
橘寺・川原寺も訪れている。川原寺では伽藍の礎石・めのうの礎石を見て寺勢盛んだった頃を偲んでいる。
飛鳥川のそばを通り岡寺参道入口に出る。(変わっているが懐かしい風景)
岡寺参道の前にある「嶋田邸」江戸時代は屋号「クスリや」という旅籠屋だったそうだ。(写真左の家 人がいて写真が撮れなかった)
宣長が泊まった「岡寺前の旅籠 角屋」はここだったのか?
石舞台でお昼。ここでも紅葉
午後、周遊路から岡寺へ。
3月11日(新歴4月13日)
岡寺(龍蓋寺) 仁王門は重文。
宣長は11日、「角屋」をたって岡寺に詣でている。
『観音参りの老若男女の混雑ぶり、大声で歌う御詠歌がやかましい』
(今では考えられない賑わいぶり)
すぐそばにある今は治田神社。
菅笠日記には「八幡社」と記す。燈籠には「八幡社」の名が残る。
義淵僧正によって建立された岡寺。創建当時の伽藍は「八幡社」の境内にあったらしい。
(子供の頃のあそび場だった)
治田神社を下りた駐車場から、旧道を歩く。
農免道路ができるまではこの道を通っていたのだろう。
歩いたことはあるが、今はきれいに整備されて短いけれどいい道だ。
農免道路に出て、酒船石へ。酒船石は飛鳥の謎の石造物の1つ。
宣長は『あやしき大石あり・・硯を置いたような平らな石。丸くえぐった穴、溝・・』
『里人は 長者の酒ぶね と言い伝える』
『高取城を作る時に(石を)大きく欠き取っている』と記述。
左、甘樫丘(上に木が見える) その奥 畝傍山 その後ろ 二上山が重なって見える。
飛鳥坐神社 『麗しい鳥居、飛鳥井の跡』
階段を登ったところに4社。『元は神奈備山という所にあったが、淳和天皇の御代、神のおさとしにより鳥形山に遷されたという・・だから今あるところは「鳥形山」』『なので、昔はもっと寺域が広く、鳥形山の麓に近かったであろう飛鳥寺も鳥形山と名付けたのだろう』
飛鳥寺の山号は鳥形山というのは知らなかった。
鳥形山 飛鳥寺
『飛鳥寺は里のかたはしにわづかに残りて門などもなく、仮のお堂に大仏という丈六の釈迦像が本尊のようだ。まことに古めかしく尊く見える。聖徳太子像というのは近き世の物と見えた。昔の堂の瓦というのも厚さもあり大変古いものだ』
(当時の飛鳥寺の様子に驚く)
『寺のあたりの田の畔に「入鹿の塚」という五輪の石が半ば埋もれている。
けれど、さして古いものには見えない』
今日の菅笠日記をたどる飛鳥のウォークもここで解散となる。
・・が、次のバスまで50分もある。
この辺で時間をつぶすのもしんどいので、橿原神宮駅まで歩くことにした。
・・おかげで?歩数計は2万歩越え。ちょっと疲れた。