長居植物園で、コショウノキは夜にガが花粉を媒介すると聞いた。
室生にもコショウノキがあったのを思い出して見に行ってきた。
朝から暖かく、室生の山でも上着のいらない春のような日だった。
室生古道・東海自然歩道へ 室生寺まで4.8キロ 薄暗い山道を登る。
右)トウゲシバ ソーラスあり。
コショウノキ 幼木はたくさんあるがまだつぼみは小さい。ちょっと早かったな~。
右)谷川沿いに山を登る。夏なら足を浸したいきれいな流れ。
台風でか荒れたところも少しあったが所々石畳が残っている。いつ頃できたものだろうか・・
右)門森峠らしい。大岩があった。
ここからは急な下り。
ヘアピンカーブ 石畳になっている所。雨の後なら滑りそう。
右)芸術の森へ出た。3月末まで閉館中
室生寺の前 女人高野室生の大きい石標が立つ。
右)バス停を過ぎたあたりにあった「弘法の泉」
「弘法の七つ井戸」と言われるものも3つ残っているという。
古道入口近くに止めた車まで歩く。
仙人の岩屋(仙人窟)中に仏像でも彫ってあるのかと思ったが何もない。
昔、仙人が住んでいたとか言われている。竜神伝説の九穴八海の、9穴の一つとか。
前歩いた時ここでカワセミを見たことがある。その時はここが何かなど考えたことがなかったが・・
右)対岸にある碑文を望遠で撮ってみたら「島谷導水路 水資源開発公団」と読めた。
「島ヶ谷取水堰を建設し、非灌漑期(農閑期)には島谷導水路を通じ室生湖に導水し貯水量を確保している」(ウィキペディアより)
室生ダムまで山の中を水路が通っているのだ。ここは「取水堰」だったのだ。納得。
歩けばこそ見えた「仙人窟」 「導水路」だった。
そして、歩けばこそのおまけ?が・・
目的のコショウノキ こんな立派な株は初めて見た。花が咲きかけでジンチョウゲと同じような良い香りがした。
子房が見えたので雌株かも。
古道の途中でも少しは見たが、これまた立派なイズセンリョウ。果実とつぼみ付き。
右)キジョランも多いことを発見 アサギマダラの幼虫の丸い食痕がいくつもあった。
トチノキ 冬芽 ユズリハ
キリの枯れた果実の殻がたくさん残る。 ヤマコウバシ しっかり葉がついていた。
川辺にはニワウルシが多い。 ニワウルシの葉痕と冬芽
柱状節理の岩壁 ビロードモウズイカのロゼット
帰りは距離があったが、歩いたからこそいろんなものが見られた。
まだまだ寒い。
長居公園
ジュウガツザクラ 満開 カワズザクラ 咲き始め
長居植物園
ウメ 満開 コゲラが木をつついていた。
カヤ 雌花 カヤ 雄花
プンゲンスマツ 球果は落ちずにいつまでも枝に残る。
右)肥大していく幹に埋もれそうな球果
これは「落ちないお守りになるのでは?」誰かが言ってました。
ヤマコウバシよりご利益があるかも。
朝ドラの「まんぷく」を見ている。
苦労を重ねてやっとまんぷくラーメンが売り出され、テレビコマーシャルの力も得て、大ブームが起こりつつある。そんな時に、早くもバッタもん(偽物)が出てきて・・どうするのかな・・明日が気になる。
失敗も恐れないバイタリティーには感心する。
「なんだかチキンラーメンが食べたくなったわ~」と言ったら、先日買ってきてくれた。
子供の頃、チキンラーメンが田舎にも浸透してきたのか、母が買ってきてくれたことがあった。
珍しいラーメン。どんなんかな?
食べてみたけれど、ちょっとにおいがきつくてあまりおいしいとも思わず、母も買ってこなくなった。
そんな第一印象のチキンラーメン。テレビではみんながおいしいおいしいと言ってたけど・・
ちょうど今日は午後から出かけるところがあり、ちょっと早い昼ご飯にチキンラーメンを食べよう。
「お湯かけ3分、お鍋で1分」お湯よりも、鍋で作った方がおいしいよというので、お鍋で作る。
油揚げめん独特の香ばしさとしつこさが混じった味だった。ちょっと昔を思い出した。
売り出し始めの「まんぷくラーメン」は添加物もないもっと素朴な味なのだろうか?
スライド会があった。何人かの写真を上映してくださった。
私も数か所で観察した写真を提供した。
午後からは各地で見た薬用植物などについて発表をされた。
マコモダケ と、その実 ワイルドライスの実物を持ってこられた。
琵琶湖あたりだったか?で自生していたとのこと。おいしそう。
右)マコモの実 ワイルドライス(買ったもの)
マコモダケはイネ科のマコモに黒穂菌が寄生して肥大した茎で、食用になる。
野生のマコモも黒穂菌が付いて肥大することがあるのか気になった。
いくつかのネットでは「日本に自生する野生種は茎が肥大せずマコモタケにはならない」と書いてあったが、本当のところどうなのか知りたい。
「現在栽培されている系統は、食用として中国から輸入されたもの」との記述もあり。
種からよりも株分けや脇芽で増やすらしい。
北米のインディアンは実を食べる習慣があるという。
ワイルドライスを噛んで見た。固いがポリポリと砕け、茹でて食べるとたぶん好きだと思う。
どこかで見つけたら買ってみよう。
「よう歩かんからお前行ってこい」というので、夫の代理で史跡巡りに参加。
案内では約14㎞になっている。
橿原神宮駅東口前は人でいっぱい。参加者は100人ぐらいはいたのでは?
参加者が多くて説明が聞けない。講師がどこにおられるのかもわからない。
ラジオのFM放送で話を聞くことになっているようだったが、よく聞こえましたか?との問いにあまり聞こえないと言ってた人もあった。
歴史音痴の私は聞きかじりと資料とでなんとか理解しようと思ったが、ちょっと無理。
いつものことながら、正確性は??の記事になっています。
「神名火」時によって甘南備 甘南備 神奈備などの表記もあり「かんなび」と言われるところはいくつもある。
今日は、諸説ある「飛鳥の神名火」候補地を中心に歩くらしい。
万葉集には「飛鳥の神名火」と特定できるものは13例あるそうだ(資料)
里に近い山である。飛鳥を展望できる。近くに川がある。人の利用や古墳などがない・・等々の条件を満たす所。
雷丘~飛鳥坐神社・飛鳥山口神社~酒船石遺跡~ミハ山~飛鳥稲渕宮殿跡~坂田寺址~都塚古墳~石舞台古墳へと歩く。
雷の丘に登る。大勢が1列で登るので時間がかかる。 香久山が見える。
「ちいさこべのすがる」の説話の残る「雷の丘」も神名火候補の1つ。
でも規模が小さすぎる。
飛鳥坐神社へ。 拝殿
飛鳥坐神社の境内にある飛鳥山口神社 元は飛鳥坐神社とは別だったらしい。
飛鳥坐神社は天長6年(829)に賀美郷甘南備山から鳥形山(飛鳥池遺跡の西にある丘陵「ミノヤブ」)に遷座し、元禄11年(1698)に現在地に遷された(資料)
そのことから、本来鎮座していた甘南備山が古代の「飛鳥の神名火」の可能性がありそう。でもそれがどこなのか?
飛鳥山口坐神社は元は飛鳥山裂谷(酒船石もある丘陵・天神山の南側に入り込む「酒谷」)から宝暦元年(1751)現地に鎮座。 しかし、酒船石遺跡は人工的に築かれた丘陵なので、古代神名火説の可能性は低いらしい。
鳥形山・ミノヤブ 裂谷 酒谷・・資料に図を付けてくれてあるが、頭の中はついていけなくなった・・
万葉文化館の丘陵の裾の水路。
「これも狂心渠だ」と写真を撮っている男性が言う。へえ~、そうなの?
万葉文化館前から山手へ登る。
酒船石 酒を造ったとか、祭祀用とか、庭園施設などともいわれる飛鳥の謎の石の一つ。
右)下ると、酒船石遺跡 H4年に発見された石垣の一部。
天理から運ばれた石を積み上げて「石の山」を作ったという(日本書紀)。
飛鳥宮址(伝飛鳥板蓋宮址) 皇極天皇が営んだ飛鳥板蓋宮 後の舒明天皇・天武天皇などの複数の宮跡が重なっている。
広い地の一角に復元された大井戸の遺跡がある。 右)建物跡も。
ここでお弁当。
ここからは周囲の山が見渡せる。
すぐそばに甘樫丘(神名火説あり) 東には岡寺山(ここも神名火説あり)
飛鳥を見下ろせた甘樫丘や形の整った岡寺山付近にも「神名火」の説があるそうだ。
・・が、甘樫丘には蘇我氏の邸宅?倉庫?の建物がある。
古墳や邸宅などの利用は神聖な神名火には当てはまらない?
岡寺山は姿も美しく、条件にはかなり当てはまるらしいが、飛鳥時代から岡寺などの土地利用がされ、古墳もあるところから、ここも神名火とは言えない?
岡寺山も行く予定になっていて、行ったことがないので楽しみにしていたが、時間が押してきて省略された。
でも、岡寺の手前までの予定だったらしく、それならいいや・・と。
もっと山の上まで行けるのかと思った。登る道はあるのかな?
石舞台の近くからミハ山へ。俗にふぐり山ともいわれる山。
標高216m ミハ山へ直登。急な階段を上り尾根道を進むと大岩がごろごろしたところ、磐座がある。
ミハ山は飛鳥の神名火の最も有力な候補らしい。
飛鳥を見渡せ、川が近くを流れ、古墳などもなく・・条件にかなうらしい。
一つ問題なのが「飛鳥の範囲」だというのだ。
香久山の南、大官大寺から南、島之庄から橘寺付近より北で飛鳥川右岸・・という狭い範囲が「飛鳥」だという説があり、そこには該当しないというのだ。
でも「飛鳥」をもっと広く考えることもでき、それならミハ山が「飛鳥の神名火」の条件に合うとのこと。
飛鳥の範囲に「狭い・広い」の考え方があるのは初めて知った。
この後、坂田寺跡、都塚なども見て石舞台古墳で一時解散となる。
甘樫丘を通って橿原神宮前駅まで歩く方たちと別れて、私は石舞台からバスで帰った。
去年はバスを降りたあたりからアイゼンをつけて広い伏見林道を登った。
今年は雪はまったくなし。
去年とは違う道を歩こうと、登り口あたりで出会った2人連れの男性に尋ねたら「シルバーコースで一緒に行きましょう」と言ってくださる。
これで一安心といううれしさと共にペースが合うかどうか?ちと不安。
ゆっくり行きますから大丈夫とおっしゃってくださる。
広い伏見林道から登り始める。山中には台風で倒れた木がたくさん見えるが林道は片付けられて影響なし。 右)千早のトチノキ
斜面には地中から絞り出されたような大きい霜柱。 少し雪の残る所も出てきた。
左に寺谷の分岐を通り過ぎる。
小休止していよいよ細尾谷コースの山道に入る。
急な登り、ほとんどが岩ごろごろの谷道。これがシルバーコース?
転んで怪我すると今後の予定にも差し支えるので気を付けて、慎重に・・
谷の水が残っているところは凍っていた。流れがツララになっている所もあった。
谷道を登り・・ 遊歩道に出た。小休止含め約1.5時間
自分たちだけで登っていたら、もうちょっと時間がかかっていたと思う。
写真ももっと撮ったと思う。
案内してくださった男性お二人はここまで見届けてくださって、マイペースで歩いて行かれた。
ありがとうございました~。
「大変お疲れ様」
雪の広場の向こうは転法輪寺 夏場にトンボを観察する「ひさご池」も氷と雪に閉ざされている。
少し溶けかけの「かまくら」 金剛山頂でお弁当を食べた。風はないが無茶苦茶寒い。
帰りはロープウェイで下ることにした。山頂駅までの下りはアイゼンを着用した。
ロープウェイ 犬用のケージ 貸し出し?有料?があるようだ。
片道だけの金剛登山。帰ってから夜は卓球に行った。
万葉文化館集合して観察会
今日の担当には植物以外にも歴史に詳しい方もいるので、歴史の説明もしてもらえた。
マンサクの樹名板 シナマンサクかも。咲きかけ。 ノシランのブルーの実(種子)
庭園に植えられた様々な木、シラカシやマテバシイやコブシなどを観察。
万葉文化館の地下からは「飛鳥池工房の遺跡」が発見されている。
石敷き井戸の復元模型 井戸の模型
5基?の万葉歌碑の中で、これは私の職場の先輩の松塚玲糸さんの揮毫による万葉歌碑
万葉文化館を出て、復原八釣マキト古墳公園へ。
八釣・東山地域で農業基盤整備事業の事前調査で丘陵上の発掘を行ったところ、発見されたものをここに移築復原されたもの。
マキト1号墳 6世紀築造の円墳 金や銀の製品など多くの副葬品が出たらしい。
右)入口近くにある4号墳 古墳ともいえないぐらいの小ささ。改葬墓とみられるとのこと。
弘計(おけ)皇子神社
2人のおけ皇子(弘計皇子と億計皇子)のお話、ずいぶん前に聞いた。懐かしい。
身の危険を感じて隠れ住んでいた2人の皇子が、皇位継承者と分かり、後に弟の弘計(おけ)皇子が先に23代顯宗天皇に。兄の億計(おけ)皇子がその後24代仁賢天皇になっている。
皇位争いが盛んな頃のお話だ。
また、ここは「近ツ飛鳥八釣の宮」の伝承地だそうだ。
難波の宮に近いのが近ツ飛鳥、遠いのが遠ツ飛鳥といわれるが、逆の説もあるらしい。
私も身びいきで、ここ(飛鳥)が近ツ飛鳥とは思いたい。
飛鳥資料館に向かう途中 大きな羽を広げたような羽易の山(はがいのやま)が見渡せた。
左から竜王山・三輪山・纏向山
途中で春の七草を探した。全部見つかった。ここにはナズナもたくさんあり、セリも1か所だったが茂っていた。
飛鳥資料館の庭でお弁当。
おぜんざいのサプライズ。暖かく甘いおぜんざいはおいしい。3杯もいただいてしまった。
須弥山石の模造 飛鳥時代の技術に感嘆する。 高取の猿石 模造
他にも2面石や猿石など石造物がたくさん並んでいる。
飛鳥寺研修センターの裏に建つ「5重宝塔」を見に行く。
これは、飛鳥寺創建1400年と、飛鳥寺・韓国修徳寺姉妹寺院締結10周年を記念して作られた宝塔で、平成8年完成したもの。
万葉文化館で解散後、キトラ古墳へ移動して、四神の館で「天文図と中国の星座」のプラネタリウムを見、キトラ古墳「玄武」壁画を見る。
息子と午後から聖林寺から旧道をたどって倉橋のため池へ。
得意の旧道歩き、寄り道歩き、気まま歩き・・
元小学校の校舎をそのまま利用している工場
前に教えてもらって感動したが、何回見ても感動ものだ。
元倉橋小学校 明治の頃~昭和32年に初代多武峰小学校と統合し廃校になる。
校舎はそのまま工場として使われ、運動場の跡に工場の建物が建つ。
建物は繋ぎを入れてコの字型になっている。「棟の端」や「下がり棟」の端などにある瓦がすごい!
右)棟の端の瓦には「小學校」 下がり棟の端(手前)の瓦には「學校」の文字。
見えにくいが、右の隅の樋の飾りには鳳凰が浮き出している。
他にも「倉橋學校」 「學」の字の瓦
4種類見た瓦、1枚1枚デザインが違い、その装飾性がすごい!
それが昔から変わらずそのまま使われているのもすごい!
元粟原小学校の屋根にも似たような瓦を見たが(1枚だったと思う)、文化財などに指定されているんだろうか?
ぜひ、残してほしいと思う。
寺川 まるで渓谷のような岩盤 息子は川の向こう岸の石碑が気になると、藪をくぐって見に行く。
砂防関係の石碑らしかった。
崇峻天皇 倉梯岡陵 トガサワラ マツグミが寄生している。
福祉センターのあるあたりは先ほどの崇峻天皇の都があったという「倉梯 柴垣の宮」の伝承地
二上山が見えた。
右)周辺から集められたと思われる地蔵石仏などが並ぶ。この内3つが地蔵道標といわれるもの。
倉橋溜池へは旧道を通っていく。旧道入口には道標が2つ立っていた。こんなところから行けるの?
右)山すそ道を通って倉橋溜池の畔に降りる。
息子が言うには「明治の頃の地図にはまだ溜池はない」そうなので、もう少し後にできたのだろう。
ここへは来たことがあるが、右手の方を通ったので、通ったことのない左回りで1周することにした。地図では右から下側周り。
湖面は周りの山影を映して静か。時々ウォーキングの人が通るぐらい。
水鳥の姿もなく、花時でもないのでウォーキングに徹する。
溜池は山の地形から入江状に入り組んでいる所もある。
だいぶ歩いた頃、水鳥の姿が見えた。
最初コガモの群れかと思ったが・・私の大好きなヨシガモの群れだった。
雌雄のつがい 日が当たるときれい~男前!
ダムの堰堤の近くへ来た。
倉橋ダム堰堤から下を見る。 「古墳慰霊碑」「慰霊碑」などが建つ。
古墳慰霊碑って何だろう。近くには溜池に貢献した人の顕彰碑もたっていた。
倉橋溜池
『昭和10年ごろ、関係市町村の有志により干ばつ対策として溜池の造成が始まり、戦争あって。昭和32年に完成した。その後、防災ダムとして整備され、平成17年、倉橋ふれあい公園として整備された』
集落を通り、溜池を1周して元の場所へ。約1時間の周遊路歩きだった。
帰りも違う道を通って聖林寺の近くに戻る。
行きたいところを歩き、見たいところではゆっくりと・・気まま歩きは大好き。
午後からのスタートだったが、7キロ余り歩いた。
広瀬神社へ。
広瀬神社 一の鳥居 長い参道
2の鳥居 広瀬神社 拝殿
崇神天皇の頃の創建と伝わる広瀬神社 水の神を祀る。
今日は、境内で砂かけ祭りとして有名なお田植祭りが行われる。砂かけ祭りは初めてだ。
「砂がかかるで~」と来たことのある夫がいうので、フード付きのレインコートを着てきた。
今は舞台で河合町のマスコットキャラクター「すな丸君」も加わって余興をやっているようだ。
境内は四方に青竹を立てた四角い砂場が準備されている。
ここはたんぼに見立てられ、お田植祭りが行われる場所だ。
開始は午後2時から。まだだいぶ時間があるので、周辺を歩くことにした。
参道の途中から出ると不毛田川(ふけたがわ)にかかる太鼓橋(広瀬橋)がある。
あ、ここ来たことがある。「川の合流点」を見に来た時にこの辺も通っているのを思い出した。
(去年2月16日に来たのに、雰囲気が違うからか境内へ入ってもわからなかった・・)
橋を渡って集落の方へ。
水分社 社は小さいが持統天皇5年の創建らしい。
右)左に折れてすぐにあったこじんまりしたお寺 定林寺
聖徳太子創建の大伽藍であったとか。今日は仏像を公開していたらしい。残念ながら後で知った。
川合町道路元票 集落の中心部に作られたものだと前に教えてもらった。
右)少し遠くに大きな木がある小山は前来た時行った「大塚山古墳」だ。
向こうから登って、降り口のないこちら側へ降りたことも思い出した。
一回りして広瀬神社に戻ってきた。
いよいよ「庭上の儀」といわれる「砂かけ祭り」開始。。
すでに「田んぼ」の周りは人で埋め尽くされ、入り込む余地なし。
遠巻きにいるので中で何をやっているのかも見えない。
鋤などを持った田男と牛役が「苗代づくり」1たん退場して「籾播き」
その後「苗代づくり」などをするらしい。
その都度、太鼓の合図の後に鋤で砂をすくって参拝者に撒き散らす。
様子がわからないうちに、雨上がりで湿った砂を思いっきりかぶってしまった。
逃げる参拝者。負けじとこちらからも砂をかける人・・大混乱。後方で見ていても砂が飛んでくる。
この砂かけが盛んなほど、雨に恵まれ豊作になると言われている。
近くの子供たちは慣れたもので、雨カッパに水中眼鏡など装備もばっちり。
合間に後ろで砂団子を準備したりして楽しんでいる様子。
騒然として前の客がばらけ、やっと田男(左)や牛(右)を見ることができた。
そのうちに、それぞれの所作を田んぼの縁にそって行い、一巡した時に太鼓がなって、砂をかけるという段取りになっていることがわかり、逃げるタイミングもわかってきた。
「砂が頭上を飛び交い人が逃げまわる」そんな迫力ある写真を撮りたいものだが、砂が怖くてカメラは出せない。
テレビカメラのある高い場所にも遠慮なく砂が飛んできていた。
その後、砂が均された田んぼに2人の早乙女が登場して、稲の苗に見立てた松葉の束を砂の田んぼに置いて(植えて)いく。
これで田植えは終わり。と思ったら、見物客が我先にと田んぼに植えた松葉を取りに行く。
きょろきょろしている間に稲苗は売り切れ。
最後に櫓の上から御供播きが行われ、松葉の束(稲)と田餅(餅を小さい板状に切ったもの)が撒かれた。
何とか餅2枚拾った。松葉は拾った友達がおすそ分けにくれた。
田餅は無病息災 松葉は水田の水口に刺すと田の守りとなるそうだ。
西飛鳥を歩いた。
風は冷たかったが、スズメノエンドウ・カラスノエンドウも花も咲き初め、カラスノエンドウの枝先には早くもびっしりとアブラムシが付いていた。
岩屋山古墳 丹波佐吉作といわれる道標
道端にある4体の地蔵 後ろは畑だった?家でも建つのか工事中。
許世津比古命神社 ムクロジの枝にはまだ果実が残っていた。
牽牛子塚周辺は整備工事中 「3月22日まで整備工事」の看板がでていた。そんなに早く出来上がるものなのか?
居合わせた男性によると石貼りの古墳に復元されるようだ。周辺はどうなるのか知らないとのこと。
日曜日で工事も休みなので、土の斜面を登ろうとしたが・・男性に手を引っ張ってもらって通過。
登ってから気がついたが、工事車両が登る道がぐるっとついていたのでそこを通ればよかったのだ。
上に登って先へ続く道には「立ち入り禁止」の看板がでていた。
今日は無理無理通ったが、工事が終わるまでしばらく通り抜けは無理そうだ。
マルコ山古墳 古墳へ入る道路の反対側も大々的に造成工事をやっている。変わりゆく西飛鳥・・・
右)ケヤキのはがれかかった皮をめくったら・・ガのサナギが冬ごもり中。
帰りに久しぶりに櫛玉命神社の大好きな狛犬に会ってきた。
櫛玉命神社
子獅子がじゃれつく吽像 親獅子の乗る台座から子獅子の台座と子獅子も彫り出してあり、親子両方の台座(州浜)に浮彫の彫刻が施されているという凝った作り。子供付きの狛犬は他にもたくさんあるが、こんなに凝ったのは知らない。
右)それに、吽像の基部の台石には「桜井驛 石工 平野屋庄蔵 繁信 印」の銘がはっきり読めるのも気持ちがいい。
ホトケノザ斜面で満開 オオイヌノフグリ 大きく色の濃い花
マメカミツレ 花があった。 トキンソウ
真っ赤に紅葉したスイバを摘んでかえってジャムにした。
七草がゆの準備で探し回ったナズナはこの辺まで来れば普通にあることがわかった。