機会があって、修復中の金堂について棟梁からお話を聞き、見学さ
せていただいた。
金堂 静かな境内コケに紅葉が映える
奈良時代、聖武天皇の要請に応え、苦難の末奈良の都に着いた鑑真
和上は、5年間東大寺で天皇や高僧たちに戒律を授けた後、修行道場
として唐招提寺を建立し5年間を過ごされた。
最初は私寺であったらしい。その後栄枯盛衰があり今に至る。
まず、工事事務所でお話を聞く。
工事事務所?どんなところかと思ったら、奈良県文化財保存事務所
の看板があった。
24、5人分しか椅子のない狭い事務所。座れない人が10人あまりいた
ようだ。
棟梁というから勝手に西岡常一氏を想像していたら、私より若い方
だった。
そして奈良県は、文化財保護の技術者は県の教育委員会に所属する
県の職員になっているという。これは全国的にも珍しいことだとか。
今日の講師の棟梁松井氏は観心寺・大峰山・世尊寺・久米寺・岡寺
・法隆寺など多くの建造物保存修理を手がけられたそうだ。
スライドで修理の工程を見る。
今までにも鎌倉2回・元禄・明治に大修理がおこなわれている。
今回はご本尊ほか6体の仏像も金堂内から搬出するという今までに
例のない大修理だとか。
見た目にはわからなかったが、軒の下垂により柱がだいぶ内に傾い
ていたらしい。
今回の大修理で、軒の下がりを防ぐため見えないところで補強した
り、軒先を”から葺き”にして軽量化したりし、今後300年は災害
にも耐えるという。
平成10年の事前調査から始まって素屋根建設・解体調査・発掘調査
・組み立て工事・素屋根解体工事・雑工事を経て平成21年6月に竣
工予定
発掘調査や解体工事の中でわかったこともいろいろあったそうだが、
興味を引いたのは、正面扉の金物を外したところ奈良時代の彩色模
様が出てということ。すでに前の修理の時にはまわりには彩色はな
く、そこだけ意図的に残したものだろうという。
補強材は継ぎ手や少しの金具の他は全部「吉野の木材」を使用してい
るという。
木材の生育には年月がかかる。林業の大切さを思う。
ハネ木・三手先・ホオヅエ・地垂木・三手先だの・・耳慣れない建築の部材名
もでてくる説明を聞きながらスライドを見た後、作業場へ。
10分の1の模型 色をつけてあるのが補強した部分
再利用されなかった古い瓦が棚積み 平成の鴟尾 2つは大屋根の上に
瓦には判子のようなものが押されていたり、三角の小さい穴があったり、
昔の瓦職人の息吹・手のぬくもりを感じる。
瓦はや木材は検査の上、可能なものは再利用されている。
金堂東面の屋根は全面古い瓦で葺いてあるとのこと。
(中央部は明治の瓦、両側はもっと古い瓦)
「天平の鴟尾」は現在新宝蔵で公開中 別途入館料が必要
床には古い部材が積んであった。
すでに組立の穴や相欠きのある建築部材にも「ご苦労さん」と声をか
けたくなった。
その材の中にも虫にも食われずまだまだ元気そうな部材もあり、木材
の耐久力ってすごいなあと思う。
奥にあるビニールの覆いをしてあるところは彩色模様の復元をされて
いるところだった。天井にも昔は彩色が施されていたらしい。
工事事務所を出て、工事ネットを少し開けてもらって金堂へ。
修復中の唐招提寺「金堂」
8世紀後半の創建時の姿を残す代表的な建築物で国宝指定されている。
正面の柱は丸みを帯びた「エンタシスの柱」そう習ったが・・・
柱の下の方は雨風にさらされ縮みむので、その上がやや膨らんで見え
ると聞いてちょっとがっかり。
柱の根接ぎ 細かい修理跡
柱の根元と上部の印は柱の傾きなどを調べるときの目印だそうだ。
開けてくれてある連子窓から千手観音さまがちらりと見えた。
まだ手の取りつけの途中だそうだ。
内部の木材には当時の世相などを書いた墨書があったという。
松井棟梁さんも「見えないところにいろいろ書き残しました」とい
われた。
どんなことを書かれたのかな?後の世の人が見てどう思うかな?
そのころは平和な世の中だろうか。