ボランティアさんと歩いた初めての「四天王寺」
建物・お堂が何と多い!帰ってメモと写真とパンフの境内図を合わせるだけでも一苦労。
どこから入ってどこを見てどこから出たのか・・整理にむちゃくちゃ時間がかかった。
四天王寺
廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子の対立が戦いになった際、馬子側の聖徳太子が四天王像を彫り戦勝祈願し、戦勝の後、請願通り四天王寺を建立した。
推古天皇元年(593年)
「日本仏法最初の勅願の官寺」だという。
(飛鳥寺のことが頭をよぎるがむつかしいのでパス)
聖徳太子は敬田院・施薬院・療病院・悲田院なども作った(四箇院制)
境内の北西にある「乾門」から入る。
知恵の輪をくぐって「元三(がんざん)大師堂」
寛和元年「元」旦「三」日に入寂した比叡山中興の祖 良源(慈恵大師)を祀る。
おみくじの創始者だそうです。
徳川秀忠により再建された建物は816年創建当時のままで、国の重要文化財
次の六時礼拝堂と共に、R5年4月1日からR8年3月まで補修工事が行われるそうで、来るタイミングが良かった。
六時礼賛堂 本尊は薬師如来 1日6回お経を唱えるところ。
夏の陣後に徳川秀忠が再建。 国の重要文化財
六時礼拝堂の前にある亀の池 (片方だけ写してます)
ミシシッピアカミミガメが日向ぼっこをしていた。
中央に「石舞台」が架かって左右に池の水面が見える。
石舞台や六時堂が戦火の延焼を免れたのは亀の池のお陰?
六時礼拝堂の前に「石舞台」この亀の池の上に架かる。
石舞台の施主は木材商。木材は湿気に弱いことから再建時に石造りになったという。
石舞台と言うものの、中央部(少し色が違って見える)は木材を使用しているらしい。
橋の欄干部分には石舞台再建時寄進した木材商の講の名が刻まれていた。
淀殿寄進の日本三舞台(四天王寺の石舞台・住吉神社の石舞台・厳島神社の板舞台)の1つで国の重要文化財
毎年4月22日の聖霊会には四天王寺楽所による舞楽が奉納され賑わうらしい。
楽人達が住んでいたという令人町という町名が残っているそうだ。
「中心伽藍」に入る。
創建後、争乱や天災などの被害で幾度となく再建されてきたが、S20年(1945)8月の大阪大空襲で中心伽藍は全焼。
今ある建物は、昭和38年(1963)創建当時の姿に再建されたものだそうだ。
南から北へ、中門・五重塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」
「西重門」に拝観料の受付がある。
「五重塔」 コンクリート造り (右側は中門(仁王門))
聖徳太子が仏舎利6粒と太子の髻髪(きっぱつ)6毛を納められた。
五重塔1層目北西角に「三面大黒天」の鬼瓦(矢印)
大黒天を中央に、左右に弁財天と毘沙門天があるらしい。
ガイドさんが撮ってくださった。
「アベノハルカス」「五重塔」「金堂」が並ぶフォトスポット
「金堂」を見学。
救世観音や四天王はあまりよく見えなかった。ゆっくり見なかったせいもある。
釈迦の一生を描いた壁画はすぐそばで見られる。
誕生・悟り・入滅と、それに因む無憂樹・菩提樹・沙羅双樹も描かれていた。
金堂の前には説法する場所を示す「転法輪石」があった。
白鳳時代の金堂の雨落ち水の「排水溝」や「龍の井戸」も見学。
「阿弥陀堂」の額の上に覗く白いもの。(矢印)(ごく一分しか見えない)
これは白択という病魔退散の霊獣なのだとか。まあ拝んどこ。
「仁王門(中門)」から、中心伽藍を出る。
阿・吽は、はじめと終わり、生と死の意味だと教えてもらった。へえ~~。
聖徳太子を祀る太子殿
「猫の門」
これはレプリカ。空襲で焼失した本物は左甚五郎の作だったそうだ。
虎の彫刻のある虎の門もあった。
一番気に入ったのは・・
「番匠堂」 番匠とは宮大工のことだそうだ。初めて知った。
四天王寺を建てるにあたり、聖徳太子は百済国より、高度な建築技術を持った3人の番匠を招聘したという。
その一人が金剛組初代の金剛重光。
番匠堂には「曲尺を持つ聖徳太子像」が祀られているらしい。
見てみたいなあ。
現在も、1月11日に、建築技術の向上や工事の無事安全を願う「手斧(ちょんな)始め」という法要が金剛組を中心として行われているという。
お堂の横に並ぶ幟。
南無阿弥陀仏の字が変な書体だなと思ったら・・
大工道具でかたどられた字だった。
そして、字の中に、鋸・鏨・釘抜・小刀・錐・鎌・鉈・・他、読めないむつかしい大工道具の漢字が細かく書いてある。
願主は金剛組・高松建設(株)・竹中工務店・・・奈良(たぶん)の村本建設(株)の名も見えた。
面白い。
「極楽門」 松下幸之助の寄贈
幸之助さんは若い時、この境内参道で2又ソケットを売っていたそうだ。
「石ノ鳥居」
扁額は珍しい「箕」の形 なんで箕なのか?
中には釈迦如来・転法輪処・当極楽土・東門中心と書いてある。
石ノ鳥居で解散。帰りは上六までバスに乗る。
初めての四天王寺、知らないことだらけ。
ガイドさんについて行くのに必死だった。
他の地域の城や寺・・どこも戦乱や雷など災害での焼失は聞くが、四天王寺はそれに加えて第2次大戦の空襲の被害が甚大だったことがわかり驚いた。
中心伽藍だけでなく、消失したお堂は多い。巨大な釣鐘も供出に出された。
毎月弘法大使命日の21日、聖徳太子命日の22日は境内に屋台が並び賑やかで、中心伽藍も無料開放だとか。
縁日の日にも一度行ってみたいな。コロナが収まれば・・