藤原京薬師寺(本薬師寺)のこと。
天武天皇9年(680年)、病気になった皇后 鵜野讃良皇女(後の持統天皇)の病平癒を祈って、遷都のための造営が始まっていた藤原京の予定地(橿原市城殿町)に、薬師寺の建立を発願された。(藤原京薬師寺)
藤原京薬師寺の発願の由来については、奈良薬師寺の東塔の擦管(九輪の下の細い部分)に銘文が刻まれているそうだ。
造営は始まったがあまり進まず、結局、完成を見ないまま、686年天武天皇は崩御され、しばらくはそのままになっていたが、薬師寺の造営は690年に即位された持統天皇に引き継がれる。
694年 藤原京に遷都
697年 本尊薬師如来の開眼供養が行われた。
698年(文武天皇2年10月)(藤原京)薬師寺はほぼ完成して僧を寺に住まわせ
た。(続日本紀)
701年(大宝元年)造薬師寺司が任命され、整備工事が続く。
703年(大宝元年・持統10年)持統天皇 藤原京で崩御
710年(和銅3年)藤原京から平城京に遷都(元明天皇)
今、西ノ京に建つ奈良薬師寺は「平城京遷都の後、(藤原京)薬師寺が平城京右京6条2坊に移された(日本書紀補注)」との「移築説」と、新たに平城京(西ノ京)に新築されたとの「新築説」の論争があるそうだが、新築説に落ち着きつつあるとのこと。
そして、奈良時代になって、本薬師寺(藤原京薬師寺)の西塔が完成した可能性があるとのこと。
なぜこんなに遅れて? この時にはまだ奈良薬師寺の建立ははじまっていなかったのか?
本薬師寺は11世紀ごろまで存続したらしい(ネット)
「次米」のこと。
1997年に飛鳥池遺跡から「三野国(みののくに)恵那の米が次米として朝廷に献上された」と書かれた荷札木簡が見つかった。
次米(すきまい)とは奉納米のこと。
木簡発見をきっかけに、天武天皇の時代に行われていた「次米献納」の行事が復活したという。
恵那の里(岐阜県恵那市)では恵那のお米文化の歴史の伝承をはかるため「次米みのり祭」が始まった。
斎田でのお田植祭・抜き穂祭(収穫を再現)・収穫した米を郡の長官に献納するお祭り・献納行列の再現。『・・古代装束を身にまとい、白馬に騎乗した恵奈の里長・阿利麻とその従兵、次米献納の大幡を先頭に、里人60人が引く5斗俵(30㎏入り)6表を積んだ山車に続いて 「次米みのり音頭」に合わせて踊り子・・』(恵那の里次米みのり祭ホームページ)賑やかなお祭りのようだ。
天武天皇が皇后の病気平癒を願って発願されて始まった薬師寺の歴史がある。
奈良薬師寺では、天武天皇が崩御された10月8日、9日に、盛大な法要「天武忌」が執り行われるという。
『恵奈の次米は、まず10月8日に薬師寺に献納される。
そして、翌日、薬師寺の全僧侶が参加し、天武・持統合葬陵で行う法要にも恵奈の次米が納められる。』恵那の里ホームページなどから抜粋
荷札木簡の発見からわかった古代の行事や祭。
天武天皇と恵那と薬師寺とつながって・・すごいな。