飛鳥里山クラブ歴史サークルで飛鳥域外探訪シリーズ
「オオヤマト古墳群を訪ねて」
参加者30人余
大和(おおやまと)神社に集合して
「馬口山古墳」「ノムギ古墳」「ヒエ古墳」「マバカ古墳」
「波多子塚古墳」「西山塚古墳」「西殿塚古墳」「東殿塚古墳」
「燈籠山古墳」「下池山古墳」「中山大塚古墳」「黒塚古墳」
~天理市立黒塚展示館 という盛りだくさんなコース
大和(おおやまと)古墳群
奈良県東南部、天理市~桜井市にある古墳の密集地帯で
「纏向(まきむく)古墳群・柳本古墳群・萱生(かよう)古墳群」
などの総称らしい。
被葬者はほとんど不明だが、大和政権にかかわる主要人物が葬ら
れているようだ。
全長200メートル以上ある大きいものから、50メートル以下の小さい
古墳まであわせると2千基?ぐらいあるらしい。
小高いところはすべて古墳だ。
柿やミカンの果樹園・畑になっている古墳も多い。
今回は「萱生(かよう)千塚」といわれる地区を中心に廻ったこと
になるのかな?
特徴
中国思想の入っていない古墳時代前期の古墳が多く、地形に合わせ
て築造されているため、古墳の向きはバラバラ。
道路に分断されたり、道路工事の計画地にかかるものなど、存続の
危ぶまれている古墳もあるようだ。
大和(おおやまと)神社
元はもっと東にあったが今は上つ道沿いにある。
このあたりは春日大社の荘園であった。
春日大社の支配する地域で、その年一番の祭りが4月1日に行われる
「ちゃんちゃん祭り」。(一番最後は12月に行われる御祭り)
行列は6つの村をめぐり、後に行く中山大塚古墳の前方部はお旅所に
なっている。
戦艦大和の関係の戦死者3600人が祀られている社もある。
大和神社を出たすぐそばに
馬口山(ばくちやま)古墳はあった。
1月に来たときも気づかずに通り過ぎていた。
天理街道を横切り、のどかな果樹園や田園風景の中を歩く。
イチゴハウスのそばを通ると甘い香りがした。
マバカ古墳
前方部と後円部の間を斜めに農道が横切っている。
バイパス工事も近くで行われていて、
ヒエ塚古墳とともに保存運動
の中心地となっている。
バイパス工事
刀根早生柿発祥の地
顕彰碑があった。
刀根早生柿は渋柿で、萱生(かよう)の刀根さんという人の平核無
(ひらたねなし)柿畑から発見され、昭和55年に品種登録され、全
国に普及した。
波多子塚古墳
昭和10年に発掘調査され、埴輪の原形「特殊器台埴輪」が出土。
前方部が開かない古い形の前方後円墳で古墳時代前期の古墳という。
古墳は段々畑
西山塚古墳
山の辺の道沿いにあり、いつも通っていたが、よく見たことがなかった。
前方部は竹薮になっていて気づかなかったが前方後円墳らしい。
周囲に3つに分かれた周濠がある。
古墳の軸が南北になっているのは珍しいそうだ。
前方部は竹薮 ここが衾田陵か?
そして、ここが
衾田陵の手白香皇后(たしらかひめみこ)の有力候補と
なっているらしい。(次の西殿塚古墳に関連)
理由は
発掘調査で「葺石」や「特殊器台埴輪」「特殊円筒埴輪」が出土、
古墳時代前期、3世紀後半の築造と思われ、6世紀の手白香皇后(た
しらかひめみこ)の衾田陵とは時代が逢わないこと。
古事記に「衾田の丘に葬られた」と記述のあること。
埴輪が高槻市の新地埴輪窯で焼かれたものと同じ。などから。
西殿塚古墳
キチンと刈り込まれた垣根をぐるりと回りこむと、御陵正面。
手白香皇后(たしらかひめみこ)の衾田陵として宮内庁が管理して
いる。
(手白香皇后は第6代継体天皇の皇后 第29代欽明天皇の母)
萱生(かよう)の古墳群では最大の全長220(234?)メートルの前
方後円墳。
日本でもベスト19に入る大きさ。
出土品などから、手白香皇后(たしらかひめみこ)の衾田陵ではなく、
邪馬台国の卑弥呼に続く「台与(とよ)」の墓ではないかということだ。
西殿塚古墳は「台与(とよ)」の墓?
燈籠山古墳
前方部と周辺が地元の墓地、後円部は果樹園になっている。
利用度抜群!の燈籠山古墳
下池山古墳
全長120メートルの前方後円墳
竪穴式石室から木棺や石釧路(石のブレスレット)・ヒスイの勾玉
・国内でも最大級の径37.6センチの鏡など出土。
初期大和政権の情勢を推測できる。
中山大塚古墳
ふもとの前方部は、大和神社のちゃんちゃん祭りのお旅所になると
いう。
南北に築かれた墳丘の山道を上ると後円部の上に出る。
竪穴式石室の位置を植木で示してあった。
ここも特殊器台が出土。墳丘裾には葺石がされていたらしい。
山すそで弁当を食べる。
黒塚古墳
国の史跡となっている。
全長132メートルの規模を持つ。
3世紀後半~4世紀の築造の前方後円墳
平成10年の発掘調査で、三角縁神獣鏡・鉄製武器など副葬品が多数
出土。
墳丘に登ってみると、竪穴式の石室が様子を復元してある。
主軸に直角に石室が掘られている。
ここにも地震の爪痕があった。石材が崩れていた。
天理市立黒塚展示館では
黒塚古墳の竪穴式石室と、出土品を復元して展示されている。
川原石と板石を使ったもち送り式の合掌式の石室の復元
その頃にこんな技術があることに感心する。
石にはベンガラが塗布されているという。
桑の木をくりぬいたという石棺は腐ってないが、粘土の棺台には水
銀朱の赤が鮮やかに残っている。桑のこんな大木があるの?
三角縁神獣鏡のレプリカもあった。重さ1キログラム
持ってみたらずっしりと重かった。
今日は古墳時代初期のたくさんの古墳を見て、頭の中が、ぐちゃぐ
ちゃ。
帰ってから、資料を見たり、メモを見たり、写真を見たり、自分な
りに整理するのにすごく時間がかかった。勘違いもあるかも。
いつもながら、これだけでも頭に残ればいいんだけど、すぐ抜ける
のが情けない。
熱心に教えてくださる里山の講師陣にいつも申し訳なく思う。
解散が2時前。
「まだこんな早いね。桜井まで歩いて帰ろうか」ということになって
桜井までハイキング。
値打ちのあったハイキングだった。オプションの記事は次に。