帰りに神社に立ち寄る。
ゴヨウマツ 若い球果 だいぶ大きくなってきた。
赤いのは雄花
枝先の赤いのは雌花かな?
1本のイチョウの木の下に、雄花序がたくさん落ちていた。雄株だ。
もう1本のイチョウは、何も落ちていない。
まだ花がつかない若い株なのか? 高い所に雌花がついているのか?
ウメの実が大きくなってきた。
ロウバイの偽果も一人前の大きさになった。
トウモクレン 花序が1つ。
花はたくさんついていたが・・実が見えていなかったのか?
サンシュユ 果実はまだ小さい。
コナスビの花
西木津 初めて来た所で楽しみ。
地元ガイドさんの案内。
山田川 木津川の支流
相楽神社(さがらかじんじゃ)の杜
相楽(さがらか)神社
住所:京都府木津川市相楽(さがなか)清水1
旧地名は相楽(そうらく)郡木津町相楽(さがなか)
「相楽」の読み方に面食らう。
古代、奈良平安時代には「さがらか」延喜式や 和名抄も「さがらか」
地元では「さがなか」という。
相楽郡の読みは「そうらく」・・ややこしい。
地元では「さがなか神社」という人も多いらしい。
相楽神社の話に戻る。
創建は不詳だが、延喜式神名帳の相楽(さがらか)神社に比定されている。
祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
江戸時代までは八幡宮と呼ばれていたが、明治10年相楽神社と改められた。
相楽神社 本殿 室町時代初期の建造(重文) 扁額は八幡宮
御田祭他正月行事は京都府の無形文化財となっている。
*豆焼(まめやき)
大豆を焼いて、できたひび割れで12か月の降水量を占う。
*粥占(かゆうら)
アズキがゆを煮て、篠竹に詰まった粥の具合で早稲・中稲・晩稲の作柄を占う。
*餅花祭 竹串に刺した餅花を奉納して豊作を祈る。
*水試(みずだめ)
本殿前に設けた祭壇の上に棒を立て、棒にあたる月影の長短で年間の降水量を判断する神事
*御田祭 稲作の過程を模して豊作を祈る。
豆焼(1年間各月の降水量を占う) 粥占い(米の作柄を占う)
昔からの伝統行事を今も受け継いでいる。
大里会館のそばのフェンスの中に倒れている石碑は・・
「相楽の里」の道標。「三宅安兵衛の遺志碑」の1つ。
奉公時代から後成功して材をなした三宅安兵衛は、遺言で「公利交益に仕え」と、息子に1万円を託す。
息子は旅人のために道標の建立を決め南山城一帯に400基ほど建てたという。
「遺志碑」は、京都府南部に多いが、旧木津町にはこの1基のみ確認されている。
ガイドさんが見つけられたのだそう。
安楽寺
開基や由緒は不明。本尊は平安時代のものらしい。
安楽寺 石仏
十一面観音・如意輪観音・阿弥陀仏・地蔵石龕仏など。
安楽寺のボタン 樹齢100年だそう。
残念ながら花は終わっていたが、1株に80もの花がつくという。
法泉寺
法泉寺本堂 本尊十一面観音(重文)は秘仏。
南山城観音霊場10番 山城観音霊場11番の札所
本堂前の真正面に大きいタケノコの絵がどっかり。
「たけのこのほりかた」「たかのはらようちえんさま」
そうか。幼稚園の子供たちがタケノコ掘りに来るんだな。
高台にある法泉寺は眺めがよい。
曽根山地蔵堂
ずっ~と遠くに見えるのは、1本松1里塚 (望遠で撮ってます)
郡山街道沿いにある。松は三鈷の松(3葉の松)だそうだ。
松の根元に夜泣留地蔵尊 他。
この1里塚は「奈良から最初の1里塚」だそうだ。
相楽台6・7丁目集会所の壁に「相楽山銅鐸出土地」の説明板があった。
「出土地の表示があるから見つけてください」とガイドさん。
住宅地の中の広い道路。キョロキョロ・・
「ありました」男性の参加者が見つけた。道路端の表示。
上記を拡大。「六区画袈裟襷紋銅鐸」と呼ばれている。
音浄ヶ谷公園の休憩所に着いた。
都が藤原京から平城京に遷ったのに伴い、より膨大な数の瓦が必要となった。
一帯にあった瓦窯群の1つが音如ヶ谷瓦窯跡。
音如ヶ谷瓦窯跡(原寸大レプリカ)
レプリカの1つ。ロストル型平窯という様式の窯
焚口・燃焼室・焼成室と分かれ、分焔柱・隔壁・ロストル畝がある。
(構造はどこがどこだかよくわからない・・)
以前の「登り窯」に対して、「ロストル窯」は、燃料も少なくて済み、失敗作も少なかったらしい。
法華寺の創建瓦もここで焼かれたそうだ。
近くには、瓦窯跡・工房跡などが表示されていた。
歌姫瓦窯跡も通った。
帰り道で。
街路樹の下にシロバナマンテマ(写真上にある白い花)があった。
1・2本ちぎった。
しばらくしてピンクのマンテマ。
時間がないので、これも引きちぎって、次の木陰で写真だけ撮った。
シロバナマンテマもピンクの花があるが・・ちょっと違うな。
よく見たかったが、ついて行かねば・・
ここが団体行動のつらいところ。
1人なら、現地で思う存分観察して写真もしっかり取りたかった。
帰ってから見たら、花はしぼんでいた。
シロバナ・・は、毛や腺毛があるが、ピンクのは無毛だ。
帰化植物図鑑で見ると、「イタリーマンテマ」に近い。
初めて見る植物だった。
もう1回よく見たいが、遠いし、場所もよくわからない・・
高の原駅で解散となった。
弁当を持って来ていたので、少し戻って木陰で食べた。
横にはブタナの群生
セッカニワゼキショウ
途中で見たツキヌキニンドウ
雨天決行。後半は予報通りの雨で、早めの終了になった。
山科駅から疏水の方へ。
ニセカラクサケマン
初めてこの花を見たのは、2007年5月三川合流のあたり。
2009年3月には琵琶湖疏水沿いで見ている。
今はベランダで咲いている。
琵琶湖疏水 この辺りは通称山科疏水といわれる。
琵琶湖から引かれた水路
大津から伏見 大阪との船運で米・炭・木材・石材などの物資や人を乗せる遊覧船も行き来したという。
高低差のある蹴上と伏見にはインクラインが設けられた。
疏水沿いの遊歩道を歩く。山に沿って曲線を描く水路。
サクラの咲いている時は観光船も運行されるようだ。
また、ウォーキングの人も多いだろうが、今日は貸し切り。
水路の幅が広くなったところは船溜だそうだ。
トイレのある所から階段を下りる。
まもなく、天智天皇山科陵の参道。200mぐらいあるらしい。
第38代天智天皇山科陵(御廟山古墳)
古墳時代終末期に造られた、八角墳だそうだ。(墳丘下段は方形)
この御陵は天智天皇のものに間違いないそうだ。
飛鳥の天武持統天皇陵に比べて、なんと大きいこと。
下って地下鉄 御陵駅
御陵駅 入口に建つ「琵琶湖疏水煉瓦工場跡」の碑
琵琶湖疏水用の約1370万個の煉瓦は、このあたりにあった煉瓦工場で製造された。
御陵駅から1駅乗って蹴上駅で下車。
雨は本降り。
駅を出たところにある 蹴上浄水場 ツツジが満開
第2期の水力発電所建屋(発電機などの設備はない)
明治24年(1891年)琵琶湖疏水を利用した日本初の一般供給用の水力発電所(第1期)が運転開始。
京都の街灯や工業用電力や路面電車、インクラインの動力源として利用された。
道路を渡る。
ねじりまんぽ(ねじれのあるトンネル)
ここは何回か通ったことがある。
上にはインクライン。下を斜めにトンネル通路が通っている。
螺旋状に積んだ煉瓦。吸い込まれそうな感じだ。
通り抜けたところから写す。
ねじりまんぽ という工法は多くはないが、2018年に茨木市の「田中のまるまた」といわれる ねじりまんぽ を見たこともある。
煉瓦積みのトンネルは優雅で好きだ。
南禅寺を横に見て・・
水路閣 琵琶湖疏水の一部
今も通水しているそうです。アーチのデザインが美しい。
蹴上インクライン(傾斜鉄道)全長582m
疏水の勾配のきついところを(高低差約36m)船の荷物を積み下ろしせずに、船ごと台車に乗せて上げ下ろし。
ケーブルカーの原理で運んだそうだ。
今はレールが形態保存され自由に歩けくことができる。
水路閣もインクラインも日本人のみの手で設計・施工された。
琵琶湖疏水記念館
雨がひどく、ここで解散となり、自由見学となった。
幕末の動乱、東京遷都などで衰退した京都の復興を願って、
琵琶湖疏水を発案した京都府の北垣知事。
京都の有力者や実業家に疏水の計画をはかる起工趣意書。
3日間にわたる丁寧な話し合いの結果、全開一致で賛同を得た。
琵琶湖疏水の完成で、発電事業・上水道の敷設・市電・・
市民の暮らしはどれだけ便利に快適になったか。
展示を見ながら、先見の明、熱意に感動した。
二上神社口から石光寺へ。
山麓を覆っていた霧も歩き出した頃にはすっかり晴れた。
石光寺(染寺とも言われる)中将姫の伝説のある花の寺として有名。
右に繁っているのはサルスベリの古木
ボタンの花が見頃だった。
ボタンの花色の豊富さ。咲き方さまざま 大きい花は華麗だ。
こんなに立派な花を咲かすにはお手入れも大変だろう。
ボタンの後にはシャクヤクのつぼみがスタンバイ。
まだまだ花が楽しめそう。
八重のフジ ノダフジやシラフジも開花中。
(セイヨウ)シャクナゲも満開 大きい木。
キレンゲツツジ
高尾寺跡から傘堂へ。
傘堂
江戸時代に、この地の郡奉行 吉弘統家 が主君 郡山藩 本多政勝 の菩提を弔うために建立したという。
添え柱があるとはいえ、1本脚でよく長らく立っていること。
當麻山口神社 大山祇命や彦瓊瓊杵尊 木花咲耶姫命などを祀る。
一の鳥居は山口神社ご本殿ではなく、二上山「雄岳」を向いている。
ツツジに吸蜜に来たアゲハチョウ これは・・ジャコウアゲハだ。
幼虫の食草はウマノスズクサ
無心に蜜を吸っていてあっさりと私に捕まった。
すぐ開放してあげるよ。
公園の東屋でお弁当。 大伯皇女の歌碑が建つ。
ここは二上山のふもと。謀叛の疑いをかけられて処刑された大津皇子が二上山に眠っている。
黒門(北門)から中将姫ゆかりの當麻寺へ。
當麻寺本堂(国宝)
東塔(国宝) 西塔(国宝)もある。
金堂(重文)講堂(重文)・・文化財がずらり。
この石灯籠は白鳳時代 日本最古のものらしい。(重文)
梵鐘(国宝)も白鳳時代680年代に鋳造されたもので、日本最古。
仁王門のそばに、奉納された大わらじ
矢印の所に小さいわらじ(下)と、豆わらじ(上)
當麻寺 仁王門(東門)から出る。
東へ折れ、俳人松尾芭蕉が當麻寺に詣でた時に通ったといわれる「芭蕉の小径」を通り~車道を下る。
旧道を入り、浄土宗 白雲山 未来寺 西光院へ。ここは初めて来た。
『開創は寛文2年(1662)本堂・観音堂・薬師堂・庫裏・僧房・鐘楼・山門 小規模ながらも七堂伽藍を具える』(説明板)
西光院 本堂 本尊 阿弥陀如来坐像 延命地蔵菩薩立像(重文)
観音堂には 11面身扮(みそぎ)観世音菩薩像
『戦国時代、長谷寺の観音を彫るため、竹内峠を越えてクスノキの大木が運ばれたが、峠付近が急坂で狭いため梢の部分を切り落とし、長谷寺へと運ばれた。その梢の一部を扮いで作り上げたのがこの像だと言われている』
[竹内峠のことを身扮(みそぎ)峠ともいったらしい]
下って竹内集落へ。
綿弓塚 休憩所
1992年(H4年) 築約100年の建物を改修整備してできた。
中の展示を見たり・・
これは綿繰りをする道具「綿弓」 綿の繊維をほぐすのに使われる。
想像していたよりはごつかった。竹製のもあるらしい。
ボランティアの方?が来られて綿弓のことなど説明してくださった。
庭に建つ「綿弓塚」
俳人 松尾芭蕉は門弟で竹内出身の千里の案内で竹内を訪れ、気に入ってその後幾度か来訪滞在したという。
「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」(野ざらし紀行)の句碑も立つ。
宿としていた家の竹藪の向こうから綿を打っているビンビン響く音が琵琶の音のように聞こえた。
司馬遼太郎は母の実家があった竹内で3歳まで暮らし「街道をゆく」の中でも思い出を記している。
竹内街道は推古天皇21年(613年)難波津と飛鳥・小墾田宮を結ぶ「大道」として整備されたわが国最古の国道。難波大道と横大路を結ぶ街道。
難波から大和へ、多くの人・物・文化が往来し、竹内は宿場町として栄えた。
ギャラリーに立ち寄り、子満免地蔵尊の前を通って長尾神社へ。
長尾神社
竹内街道・初瀬街道(横大路)・長尾街道 が交わる交通の要衝に鎮座する。
「真東1直線上に伊勢の下宮」
蛇の伝承では「三輪神社が蛇の頭で蛇の尾は長尾神社」の伝承もあるとのこと。
ここから近い磐城駅で解散となる。
雨天でも実施のイベント
参加者は大人子供合わせて20人ぐらい。
室内で、コケに詳しい講師会員によるコケの説明を聞いた後、傘をさして外へ出る。
前の広場もコケだらけ。
細かい草の間にコケがびっしり。ふわふわの感触。
透き通った葉状のコツボゴケ
短いコースを回り、コケの生えている様子などを観察。
雨の中で観察はしにくかったが、コケにとってはうれしい日。
生き生きしてほんとにきれいだった。
室内に戻って、いよいよコケテラリウムづくり。
コケテラリウムは底に穴の開いていないガラス容器などに、雑菌のない土を入れ、その上にコケや小さい植物などを配して容器の中の景色を楽しむもの。
事前に準備されている何種類かのコケ。
ガラス容器・赤玉土や飾り砂・ピンセットやハサミなどがテーブルにセット済み。
子供連れのお父さん 友達どおし 楽しみながら製作された。
いくつかのテラリウムを写させてもらいました。
お世話は毎日1~2回霧吹きで水を与えるだけでよい。
部屋の中でも飾って楽しめるが。光合成には光も必要なので、ときどき弱い日の当たる場所へ置いてやる。
傷んできたら、補修もできる。
出来上がったコケテラリウム。みなさん笑顔で持ち帰られた。
飛鳥川 クレソンの白い花が満開
八木駅ホームに降りてきたのは・・
ハクセキレイの若鳥??と思ったが、友人に訪ねると成鳥だそうだ。
気が付かなかったが、右の足先を失っている。
どんな事故にあったのか・・
大阪で、月1回のボランティア
小雨の中、簡単な下見の後、本番。
園内の春の草花や木など植物を観察する。
今日も20人ぐらいのお客様。
欠かさず来てくださる方も増えている。子供さんも。
スタッフの一人が準備してくれる資料は好評です
園内は広くはないが、田んぼあり、畑あり、池あり、林あり・・
最小限の手入れにとどめてあるので、近くの野山に出たぐらいの草花は見られるのがうれしい。
田んぼの畔にはキジムシロが花盛り。
ムラサキサギゴケ・カキドオシ・ヘビイチゴ・オヘビイチゴ・他いろいろ。
ノエンドウの仲間の果実を割って種はいくつ入っているかな?
前回花盛りだったウマゴヤシ トゲ渦巻き状の果実ができていた。
レンゲ畑では根粒を観察 根粒菌の働きなどの説明をされた。
ウワミズザクラは花が終わって、小さい果実が見えている。
つぼみは塩漬け(杏仁子)で食する地域も。
佃煮をよばれたことがあるという人も。
私は天香山神社のウワミズザクラ(古名 波波迦)が、古代より、今も大嘗祭の時には宮中に献上されて、斎田を決める占いに使われていることを説明。
大阪在住の人にとっては、ハハカの名もなじみの薄いもののようだ。
先月、膨らんだ冬芽を観察したタブノキ。
枝葉が展開していたが、ここのタブノキは花芽は入っていなかった。
スタッフのお1人による写真で花序も見せてもらった。
咲き残っていた八重ヤマブキでは太田道灌の故事をスタッフの一人が紹介された。
コウホネの花
自然な環境には昆虫や生き物も多い。
ナナホシテントウの幼虫がたくさんいた。蛹も。
ギシギシにはアブラムシがいっぱい。食糧には困らない。
カキノキについたイラガの繭 ちょっと困った子だけど。
田んぼの畔を悠々とお散歩中のマガモ夫婦
触れそうな近くにも来る。北の国に帰らないつもりかな。
トノサマガエルの卵のうが田んぼの中にいくつもあってびっくり。
(長らく見かけたことはない)
その後、大きいトノサマガエルが草むらから飛び出した。
この子が卵を産んだのかな。
伝統野菜の畑のタカヤマゴボウ 土を盛り上げてある。いいアイデア。
ウスイエンドウもたくさん実をつけていた。
今日のクラフトは「折り紙鯉のぼり」
他の人より出来上がりが早いと思ったら、もう1種類のむつかしい折り方のを作っていなかった。
裏に木の台を付けて、立てられるようにしたものも準備してくれてある。
私は穴を開けてもらって壁飾りに。
スタッフの一人が作ってきてくれた木の枝の鯉のぼりを付けたら、立派な五月飾りになった。
終了後スタッフ仲間と果樹園を少し歩く。
先月花を見たアンズは果実になっていた。
これは何だったか? 果実に毛がある。バラ科ではある。
カリンの果実は偽果
ナシの花が少し咲き残っていた。
花の匂いは臭いと聞いていたので、嗅いで見た。ほんとだ。
ユズリハ 雌花
いつもと違って・・今日は3部制。
(いつもながらあいまいなところがあります)
①平田城跡
中世にあったらしい平田城の跡?を案内していただいた。
高松塚古墳の近く。いつも活動しているところだ。
最近整備されて、木が伐採され階段や道がついたりして少し様子が変わっていた。
いくつかの曲輪跡・土塁跡・堀切跡など・・
明日香では小山城に次ぐ規模だという。
階段をあがった展望台といっている平らな場所。
ここは一番大きい曲輪跡らしい。
木を伐ってベンチが置かれ、見晴らしはよくなった。
ここからは、修復が完了した牽牛子塚(白い三角形)がはっきり見える。
この高みが土塁跡と言われればそうらしくも見える。
切り通し道は堀切を利用して作られた?
公園として地形も変わっているが、中世にはこんなところにも城があったのか・・というぐらいの認識しかできなかったが、ここが城跡なんてよくわかったなあと感心。
室内に戻って・・
②日本書記 天武天皇9年9月
天皇が「朝嬬」にお出かけになった。
「朝嬬」の地について。
「あさづま」は「朝嬬」「朝妻」「朝都間」「阿沙都麻」とも表記される。
応神天皇の頃、秦氏の祖、弓月王が朝鮮半島より127県の百済の人民を率い、金銀玉など宝石を携えて渡来。
支援した葛城襲津彦は大和「朝津間」・掖上の地に彼らを住まわせた。
(後に「朝妻造」の一族は近江の国「朝妻郷」に移住)
「朝妻」の名は、元興寺に伝わる「塔の露盤 銘」にも「阿沙都麻首」が見える。工人であったらしい。
養老3年には「朝妻の手人」、養老4年には「朝妻金作大歳」や同族の「河麿」の名もあり、金属工人集団だったとか。(続日本紀)
飛鳥時代より以前に葛城には朝鮮半島から文化が入り、技術集団がいたということだ。
飛鳥寺建立の際も葛城の技術が大いに利用されたことだろう。
御所には、所在は不明だが「朝妻寺」の記録も残っているとか。
塔の心礎は5尺5寸というから大寺院だったようだ。
③最近作成された紙芝居「乙巳の変」の披露があった。
紙芝居も木の箱も手づくりのすばらしい出来栄え。さすが巧ぞろいだ。
久しぶりのうちの庭。
しっかり見ないうちに花の時期がすんでしまったりして・・
ニシキギ 満開
ヒメフウロ
タツナミソウの仲間
タツナミソウ白花
ヒメツルソバ
チョウジソウ 昔、三重県の自生地(湿地)に行ったことがある。
これは大分前に人からいただいたものだが、生育条件がよくないのかほとんど増えない。
それでも何十年も咲いている。
ムサシアブミ
ウラシマソウ
今年は咲かないのかと思っていたが、ちゃんと咲いた。
斑入りアマドコロ
シラユキゲシ もう花は終わり近い。
スパラキシス
今でこそ、この辺でも植えているのを見るが・・
何十年も前、伊勢で通りかかったお家のブロック塀の外に、帯状に植えられ満開だった鮮やかさ。
まったく知らないお家だったが、根茎を送ってもらって、それからずっと年賀状のやり取り。
1回お尋ねしてお庭など見せてもらったこともある。
ご主人もだいぶお年を召されたようでちょっとさみしい。
そんな思い出の花は、狭い我が家で毎年律儀に咲いてくれる。
アジュガ(ツルジュウニヒトエ)ランナーを伸ばして増える。
安堵町の重要文化財 中家住宅を見学。
中氏は元は武士であったが、後に帰農して大地主となった家柄。
中家は、外濠・竹藪・内濠と、2重の濠に囲まれた3500坪の敷地を持つ環濠屋敷。
平城形式を取り入れた武家造りと農家造りを兼ねた民家。
濠・竹藪・主屋・表門・新座敷・米蔵・乾蔵・牛小屋・持仏堂・庫裏・宅地・竹藪・濠 など「中世の平城様式の館の姿を伝える屋敷構え」として、丸ごと重要文化財に指定されているそうだ。すごい!
外濠 今は水はない。南側の外濠は消滅して内濠だけになっている。
内濠が取り囲む屋敷。
内濠に架かる「跳ね上げ橋」は、ただ一つの入口。
この跳ね上げ橋を毎夜、中央の板を外して外敵の侵入を防いだ。
門の左にある下男部屋には監視用の「物見窓」がついている。
中家の御当主さん(21代目)が案内してくださった。(要予約)
「主屋」急こう配の茅葺屋根に煙り出しのついた小屋根が付いた「大和棟」
美しい大和棟民家として切手にもなったとか。
主屋に入ると左側、落ち棟の下は土間で「かまど」がある。
重要文化財指定の際に、解体修理されたとか。
大きいものから小さいものまで11の焚口のあるかまど。
黒漆喰も艶やかなかまどは勾玉型の配置。
こうすれば1人でたくさんのかまどの世話ができる。
手前の上には煙返しの太い梁がある。
このかまどは、年に3・4回は使用されるとか。
地域の子供たちが竹薮でタケノコを採って、このかまどで茹でたりすることもあるらしい。
いいなあ。使うことでかまども生きる。
「入船の庭」役人など来客のあった時、濠に舟を浮かべて観月会などのもてなしをした。
この古めかしい2つの箱は?
左)天正4年 中家9代目の頃に漬けた梅干し。
右)安永2年 中家14代目の時代に漬けた梅干し の甕が入っている。
これが「天正4年(1576)の梅干し」
黒くなった梅干し、塩の粒々がしっかり残っていた。
見るだけでツバが湧いてくる。
保存食梅干し。とはいえ、ここまで長持ちするとは驚き。
戦いなどに必須の貴重なもので、大事に保存されていたのでしょう。
最近の減塩梅干しでは到底無理ですね。
来客用の「蒸し風呂」を見せてもらった。
主屋から続くトイレや蒸し風呂のある建物。
奥の入口の中に蒸し風呂。(写真が・・)
手前は簀の子敷きの洗い場。
ここでお付きの人に?洗ってもらったり湯をかけてもらったりしたのかな・・
蒸し風呂(小部屋)の中。今でいうサウナ。
簀の子の下に熱く沸かした湯を入れた釜を置き、床に敷物を敷いて、浴衣を着てしゃがんで湯気で体を温める。
釜の湯が冷めないように、おき(炭火)で温めたそうだ。
床に敷いた敷物、これが風呂敷の由来となった。・・なるほど。
庭から見た主屋。
2016年茅葺き屋根を葺き替え。茅の色も鮮やか。(写真)
茅は以前は曽爾高原のもの、その後は岩手県金ヶ崎で栽培されているものを使っておられるとのこと。
日当たりの悪い北側の屋根は痛みが早いらしい。
茅葺屋根の棟の部分の仕様も凝っている。
茅を束ねて杉皮?で巻いたものを並べて、木で押さえてある。
「鳥が中の茅をくわえていくんですよ」とおっしゃっていた。
庭の北側の建物は米蔵。
大和川があふれた時に、地域の人の荷物を預かったりされたこともあるらしい。
「持仏堂を案内します」
米蔵の中央を通り抜け、内濠に出る。
橋を渡る。
東北の鬼門にあたる濠の石垣には切り込みが入っている。
濠に沿った竹藪の横を歩いているとハイキングの気分。
濠の向こうの繁みにはフジの花が咲きかけていた。
「持仏堂(中家のお寺)」 右側の茅葺の建物は「庫裏」
庫裏には持仏堂を守るお坊さんが住まいしておられたとか。
庫裏の板間に置いてあるのは「持ち出しくど」(移動式のかまど)
重いが手前の土間に下ろして使うこともできる。
移動式のかまどって初めて見た。
母屋に戻る。
「以前にあった主客玄関の屋根に取り付けられていた」という瓦が並べてあった。
1枚1枚に物語があるようだ。
並んだ中の1枚 ふっくらして温かみを感じる手彫り瓦。
瓦職人の名が書いてあるものもあった。
中家の家紋(左三つ巴)が入った瓦(並びとは別の場所に)
ゆっくり案内していただいて感激。
よく維持管理されたすばらしい重要文化財のお屋敷だった。
帰りに「奈良県浄化センター」の外周を歩いて駅に戻る。
これは何だ? ユニークな形の4つのタンクがつながっている。
帰って調べると「汚泥消化タンク」というらしい。
”消化”? ”浄化”の間違いでは?と思ったりしたが・・
「汚泥内に含まれる有機物を、嫌気性細菌(酸素がない条件下で増殖する細菌)によって分解」することを”消化”というらしい。
へええ~。
ひと歩きの後、会場に到着。
今日は、遣新羅使人の歌 先月の続き。
天平8年(736年)第35次遣新羅使として、6月に難波津を出発してからの船旅は困難を極め、帰国予定の秋、9月10日、まだ目的地には到着せず、まだ対馬にいるという状態。
紅葉にも募るは望郷の念ばかり。
風を待つ間に貝拾い。切ない。
対馬には2016年、娘と2泊3日の旅をした。
寺の宿坊に泊り、石屋根・小船越・対馬藩のお堀江跡・ヤクマ塔・巨木や神社・シーカヤックで無人島に渡ったり・対馬ヤマネコを見・対州馬に乗り・・日本書紀に出た金田城へは途中まで・・他、ややマイナーな自然や文化を楽しんだ充実した旅だった。
ただ、その時は万葉集にまで思いが及ばなかったのだった。
でも、大陸との近さは感じたし、対馬が大陸との懸け橋であったこともよくわかった。
さて、苦労の末たどり着いた新羅。
その頃には状況も移り変わり、使節の役も果たせなかったのだという。
帰路はもはや故郷しか見えていない。
たくさんの歌が残る往路に比べ、帰路で残る歌は5首のみだという。
新羅での歌も1首もないという。
そして、翌年天平9年1月、やっと帰国。(往復7か月!)
大使、安倍継麻呂は帰路の対馬で病死、一行の人数は往路の半分になっていたという。
役割は果たせなかったが、たくさんの万葉歌は過酷な旅のよくわかる記録となった。
フウゥ~。旅に疲れた・・・。