ポストへ行くついでに、娘・息子と近辺散歩
塀の上から侘助椿が覗いていた。やさしい色。
曽我川の右岸に入る。桜の頃ならお花見できますが・・
クワの木が所々に生えている。
クワの冬芽 所々にクワの大木がある。
娘は蚕を飼いたいという。
「ここへ葉を採りに来たらいいね」というので「どうぞどうぞ」
大食いの蚕を育てるのにはどのぐらいの葉がいるのだろうか?
クワの葉しか食べない蚕の飼育用に今は「専用フード」があるらしい。
専用フードで育てている蚕に、たまに生葉を与えたら食べるかな?
ペットフードを与えている犬猫が、肉や魚を食べないとも聞くが。
斜面にはクコが生えている。実が出来ればいいんだけど。
娘がクコの実を果実酒にして持ってきてくれた。
ほんのりピンク色。
私は去年の正月に、鹿児島で採ってきたクコの実をおせち料理に乗せて飾った。
京奈和道の工事に関連して、今ある橋がなくなるらしい。
それに代わって新しい橋ができるらしく、橋脚が出来ている。
旧橋を渡って曽我川左岸に出る。
たまに車も通る曽我川左岸の堤防道
対岸の木に鳥の巣らしきもの。何の巣やろう?
寒風に身を縮めるように地面に張り付いて咲いていたセイヨウタンポポ。
正月休み中の曽我川緑地体育館から公園の周遊路を歩く。
曽我川緑地公園にある池。ハシビロガモがいた。
公園では凧あげをしている。 雲より高く揚がっている凧(左上)。
途中から住宅地に下って家に帰る。
ちょうどお昼。1時間半の散歩だった。
なんでもない、何にもないような堤防でも、折々にいろんなものを見つけることもできる。
墓参りに行く。
お墓からの景色 美しい岡の集落。
手前の山はミハ山。遠くに葛城山? 中間の山は??
ついでに途中見ながら御所方面へドライブすることになった。
川原寺の広場で凧あげに興じる親子。
凧あげは時々見るが、羽根付き・コマ回しは廃れてしまったのかな?
川原寺そばの道標・庚申塔にも松飾り。
飛鳥駅そばの「耳なおし地蔵」拝んでおこう。
わかりにくく、控えめな賽銭入れ。(格子戸の右側)
小屋根の並んだ建物。我が家では「ミカン小屋」ではないかと推測している。
以前、上平田あたりを歩いた時も、何カ所か見かけた。
ミカンの産地なので、収穫したミカンを出荷するまで保存しておく倉庫ではないかと考えたわけだ。
1月10日、この辺りを歩く会がある。
その時に知っている人があれば教えてもらえそうで楽しみ。
我が家説は合っているか? 違っているか?
JR掖上駅(御所市)なつかしい感じの小さい駅舎。
駅舎の中。言われて、見れば、戸は吊り戸で、金具も残っている。
フランス瓦の洋館 息子の情報。娘は建築好き。
おしゃれな感じ。
この並びに何件か似たような洋館が並んでいる。
八幡神社の扁額のかかる鳥居をくぐると、広場の向こうに拝殿がある。
大木もあり、左は鎮守の森。(御所市東寺田)
拝殿
拝殿の中に「達磨の絵馬」
「野菜の絵馬」もあった。 面白い。
ここから引き返す。
初詣は氏神さんへ。
すでに行列ができている境内で新年を迎えた。
日頃の感謝と、世界の平和・良い年になるようにお祈りした。
右)木瓜紋
正月飾り 主なもの
飾り棚の 正月飾り 右)ストレリチアと獅子頭・独楽・羽根
家のお節はお昼にいただく。
「ほうれん草の薄焼き卵巻き」が新メニュー
青野菜が不足しがちなので。
午後はサイクリングに行くことになった。
地黄町の「農神さん」
飛鳥川堤防に出て、サイクリング道を北へ。
近鉄保線基地
多坐弥志理都比古神社(多神社)(田原本町多)
参拝客が多いので、少し横からお参りした。
秦楽寺(じんらくじ)(田原本町秦庄)
大化3年(647年)秦河勝の建立と伝えられる。
変わった中国風の土蔵門
秦楽寺 本堂
本堂前の立砂
秦楽寺は、大和3楽寺(与楽寺・勝楽寺と共に)に数えられる。
秦楽寺には「あ字池」が。与楽寺には「うん字池」がある。
あ字池 美しい。 マガモが泳いでいた。
『平安時代、弘法大師が「三教指帰」を執筆中、蛙がやかましかったので叱ったら、以後この地では蛙の声は聞かれないという』(説明板)
境内は静かでいい雰囲気。
境内にあった「歯龍王神」 聞きなれない神様
秦楽寺を出て、しばらく走ると、
近鉄笠縫駅
ちょうど近鉄の新しい電車が到着した。
ここで引き返すことにする。
屋就神明神社(やつぎしんめいじんじゃ)(橿原市大垣町)
木立の中に小さい社
多神社の摂社だそうだ。
家の家族はここが好きで、以前はよく来た。
「矢継川」沿いに家からここまで歩いてきたこともある。
帰り道は、玉垣に「非常柱」の玉垣のある八坂神社(豊田町)・春日神社(土橋町)をまわって帰った。
初春親子サイクリング 終了。
夕食は家の和風お節と、娘宅の洋風のお節を持ち寄ってお祝いしました。
にわかクリスチャン
食べ物(鶏モモ・サラダ・スープ)と飾り物(下の写真)だけクリスマス。
娘が手作りケーキを持って来てくれたけど・・お腹いっぱいで・・
明日いただきます。
クリスマス飾り
クリスマス飾り
クリスマス飾り
クリスマス飾り
ランチしてから、午後のコンサートに行く予定。
家の前に 柵付きのプランター 鹿除けか? 奈良らしい風景だ。
カフェ 工場跡事務室に到着
以前にも来たことがあり、外観は見ているが、今日はここでランチの予約をしている。
「工場跡事務室」
大正時代、ここは「フトルミン」という乳酸菌飲料の製造販売をしておられ、事務室をリノベーションして、2009年「カフェ」としてオープンされたことによる。
「工場跡建物群」は「長壽会細菌研究所工場及び製品庫」として「国の登録文化財(建築)」として認定されている。
懐かしい木造建築 予約時間ぎりぎりだったので、店主さんが表まで出ていてくださった。
ここを右へ入るとカフェ。
カフェの建物
工場跡の雰囲気 建物の見学はできない。
ランチ パストミラサンドイッチのセットとカフェオレ
ボリュームもあるし、おいしかった。
すぐそばは、東大寺中御門跡(焼門跡) 礎石が残っていた。
慶長11年に焼失して以来再建されないままで「焼門」といわれている。
近くのマンションの前にクスノキ?の大木。
ここも元東大寺境内だったのかも?
駅に向かって歩いていると・・
丸い屋根の可愛い「地蔵堂常夜灯」道標になっている。
そばに地蔵堂がある。
なぜか「右」の字が塗りこめられて消されている。
よくあることだが、元の場所から移されたため、方角が違っていることがある。
律儀にも方角を消してあるのが面白い。
宇治・京 安政・・など読める。
地元の人が通りかかり「熱心に見てますなあ」と。
「昔はこの通りは川で、この地蔵は土手の下にあった」と言われた。
左に「地蔵堂常夜灯 道標」「川中地蔵尊」
お堂の中には、周辺から集められたらしい石仏がたくさん祀られている。
この道が元川だったらしい。へ~~。
しばらく歩いていくと・・
角に「永代橋」の碑 ここに橋があったとわかる。
左に曲がると・・
奈良女子大 東門
門から正面に見えるのは「記念館」という建物。
見学したこともある。
奈良女子大学
明治に設立された「女子高等師範学校」が前身。
その時の「本館」として使用されていた建物が、この「記念館」
昭和24年、新しい学制のもとで、現在の「奈良女子大学」となった。
後に本部管理棟と講堂が新築され、本館は、平成2年「記念館」と名称を改め、保存されることとなった。
東門の内側にある「守衛室」 この建物も良い雰囲気。
紅葉が映える。
改修工事を行い「守衛室 と正門」「記念館」は平成6年、国の重文に指定された。
枯れた実がいっぱい付いているサイカチが見える。
古木で幹には大きい穴があいている。
洋風の外観の奉安殿(以前正面から見た)も見える。
近くの「北町案内所」
建物がレトロな感じだなと思ったら、昭和初期には巡査派出所で「旧 鍋屋交番」
屋根の妻の部分に警察署のマークがついている。
商店街で オガタマノキを植えた店。
十福地蔵 これはご利益がありそう。拝んどこ。
奈良カトリック教会の前には、イエス誕生の場面。
もうすぐクリスマス。
道端の延命地蔵 本尊は延命地蔵立像。
船形光背に年号が彫ってあるらしいが見えない。
地蔵堂の前の石の花入れには「文久3年」と彫られている。
本尊の後ろには、赤い前垂れのたくさんの石仏
四角く彫り込まれたのは「箱仏」というそうだ。
町中に地蔵堂がたくさんあるのに驚く。
ペーパークラフトの店など何軒か見て、細かい手仕事に感心。
近鉄奈良駅から新大宮駅で下車。
目的地はコンベンションセンター。
最近はこの辺りに来ることもなく・・探しなが等歩く。
コンベンションセンター前のツツジの植え込みに混じって・・ツルドクダミらしいものが絡まっていた。こんなところに・・
目的の天平ホールに到着。
「学園前アンサンブル」のクリスマスコンサートを聞きに来た。
知り合いの先生がビオラで出演された。
バッハなどむつかしそうな曲。どれだけ練習されたのかと思う。
ひと時、演奏に耳を傾ける。
天平広場では「蚤の市」が開催され、たくさんの客が来ておられた。
なかなか買う所まではいかないが、見るのは楽しい。
これで今日のスケジュールはおしまい。
今年の予定も終わり。
明日からはボチボチ「年用意」をしなければ・・
正月も近い。
山へ花活けの材料のマツを採りに行った。
山裾で小枝を2本切った。 花瓶が小さいので小枝で十分なのだ。
マツが入れば正月らしくなる。
ついでに、その辺にあったイヌツゲや地衣類の付いた枝も1本採った。
後、何か実ものがあれば事足りる。
「ついでに行きたいところがあったら行ったるで」とアッシー君がいうので・・
キジョランを見に行く。
左)高い所に果実があった。まだ弾けてない。
右)そして、見たかった「鬼女の髪振り乱してる(果実が弾けたところ)姿」が見れた。
毎年実は見るが、来る季節が違うのか、弾けた実を見るのは初めてだ。
手が届いたまだ綿毛(種髪)が開いてない果実を1つ持ち帰った。
果実の中に行儀よく、びっしりと並んだ種子が収まっている。
ついでにシンジュキノカワガの蛹を探した。
幹に2個ついている。
触ると少し柔らかかったが、音はしない。生死不明だ。
寒さで冬越しできないか? 運よく春まで生き残れるか?
「奈良県最古の道標見たことあるか?」「知らない」
ついでなので見に行くことになった。
そばにはしっかり看板が立っていた(大分古びているが)
風化して道標の文字は読めない。
説明板によると『S58年に発見された。拓本をとったので文字を読むことができた』『右 いせみち 寛文四年 奉供養巡礼同十二人 左やまみち 十月十五日』と読めるらしい。
ここは伊勢本街道だが『伊勢参りは巡礼とは言わないので、観音巡礼講の人たちが供養と旅人の便をはかって建てたものと考えられる』
『寛文4年(1664)といえば、徳川4代将軍家綱の頃で、現在のところ、県内はもちろん全国的にも最古の紀年道標ではないかといわれている』・・
『元は手前の分岐点にあったものを現在地に移して保存している』
初めて見た。
近くの深~い溝の中に、ナンテンの赤い実が見えた。実もたくさん付いている。
「ほしいけど無理やなあ」というと「どこかに下りれるところがあるはずや。採ってきたるわ」
「いやいや。危ないからいいわ」というが・・
ちょっと離れた所からどうにか入れたようで、ひっつき虫にひっつかれながら切ってくれた。
こんな深い溝です。水はなかったけど、イノコヅチや雑草が生えていた。
お陰で、お正月の花も何とか揃った。
今年最後の昆虫部会
冬越し昆虫を探す。
家の近くで。スズメかと思ったらムクドリだ。
現地に到着
先ずはミカドテントウ探し。
イチイガシの葉裏で冬越ししている ミカドテントウ
下から見たら「黒い点」5㎜ぐらい。
なかなか低いところにはいない。
イチガシにつくアブラムシなどを食べているらしいが、いつも冬にしか見ないせいか、動いている所は見たことがない。
この小さいお口に合うアブラムシ、いるのかなあ。
卵や幼虫もみたことがない。
ミカドテントウと一緒にいるというオオツカヒメテントウはもっと数が少ないらしく見たことがない。
朽木の中や下の虫探し。
何者? と思うでしょうね。
朽木の皮をめくってみたら、よくいるのはカタツムリ・ヤスデ。
これはコグワガタの幼虫らしい。
カブトムシの幼虫。
写真を撮ったらそっと元の場所へ。
死んで黒くなっているカブトムシの幼虫。
みんながみんな冬を越せないのね。
ヒゲジロハサミムシだそうだ。
コメツキムシ科 の幼虫。
ピンボケですが、マダラマルハヒロズコガの幼虫
ヒョウタンから頭をだして、歩いているのを見たことがある。
成虫は地味な「蛾」らしい。
ケバエ科 ハグロケバエ? らしい。
朽ち木を除けた地面の下にウジャウジャいたのには私もゾッとした。
その他、オオゴキブリの幼虫・クロゴキブリの幼虫・ゴミムシダマシの仲間・ヤマトデオキノコムシ など。
冬の昆虫探しは地味です。
「きのこ」名前はわからない。
食べられそうなきのこ。 危ない危ない。
池にヒドリガモ キンクロハジロが少し。
ハシビロガモが1羽混じっていた。
娘や息子と 屯鶴峯へ行くことになった。
屯鶴峯 登り口 右に階段
こんな遊歩道あったっけ?
歩きやすい道。行ける所まで行って戻ってきた。
それから岩山へ。
向こうへ降りるのは無理なので、展望できる岩まで歩くことになった。
屯鶴峯
『二上山の北西に低く南北に裏なる標高70メートルの峰 白色の凝灰岩が露出』県の天然記念物
白い岩に紅葉が映える。 今が一番美しい季節かも。
白いのは雪ではない。露出した白色の凝灰岩
何回見てもすごい景色。
かつては何回も来た。向こうからこちら側へ。
こちら側から向こうへ・・。岩を上り下りして歩いたものだ。
一番最近は2021年の観察会、その時も恐いところは助けてもらった。
そして今日。
見晴らしの良いちょっと高い岩へ上ることになったが・・
恐い恐い・・見かけによらずの恐がり。
そばで息子が見守ってくれてます。
娘と息子に手を引っ張ってもらったり、サポートを受けながら・・
やった~! お陰でまた屯鶴峯に登れました。
その後、久しぶりの太子温泉へ。途中から雨が降ってきた。
先ずお食事
娘と息子は「食べくらべ卵かけご飯定食」 鳥唐揚げをみんなで。
棚に並んだ卵から3種類選ぶようになっている。
種類によって卵の黄身の色が違う。味の違い・・わかったかな?
私は、卵3個も食べられないので「松茸釜めし」にした。
おいしかったです。
その後、ゆっくり温泉に入って帰りました。
帰り道、雨が上がって久しぶりの虹。
「菅笠日記」は、江戸時代の国学者、本居宣長が43歳の時、 同行者5名と荷物持ちと共に、 吉野~大和. 方面へ旅に出かけた時の紀行文。
明和9年(1772)3月5日(旧暦)に松阪を出発し、目的の吉野で桜の花見をした後、飛鳥方面~・・・14日に松阪に戻る。9泊10日の旅。
飛鳥を巡る前半コースは、前回に歩いたそうだが、私は参加していない。
今日は後半のコース。
3月10日(新歴4月12日)
吉野如意輪寺・・六田・・・壷坂寺・・土佐・・檜隈・・から、今日のコースに入る。
飛鳥歴史公園館をスタートして菅笠日記の足跡をたどる。
主な行き先のみ。
飛鳥歴史公園館 裏の紅葉
天武天皇・持統天皇陵
野口王墓 檜隈大内陵とよばれていたが、鎌倉時代の盗掘の取り調べの記録(古文書の写本)が明治13年に発見され、古墳内の様子(切り石積みの石室は2室からなり、夾紵棺と金銅製の骨臓器があった・・)が日本書記の記述などとも一致することから、ここが天武天皇・持統天皇の合葬墳と確定した。
被葬者がはっきりしない古墳が多い中、珍しく、被葬者が判明している古墳だ。
3月10日にここを訪れた宣長。『里の人に尋ねると「武烈天皇の御陵」だというが、ありえない』・・と書く。
宣長は古事記や万葉集などに精通している。
この頃は石室が露出していて宣長も中を覗けたようだ。
天武忌(天武天皇崩御の旧暦9月9日(新歴10月8日)には薬師寺で法要が営まれ、翌10月9日、薬師寺の全僧侶による法要が、天武持統陵の前で執り行われるとのお話を聞く。
(薬師寺は天武天皇が後の持統天皇の病気平癒を願って建立された勅願時)
藤原京の中軸線上に並ぶ「藤原京の聖なるライン」の中心になるとのお話もあった。
天武持統陵を下ったあたりの山裾に、武烈天皇を祀る「小泊瀬稚雀神社」がある。
亀石~橘寺へ。手前に柿本人麻呂の「妻が死にし後に泣血哀慟して作る歌」の万葉歌碑がある。
そこから見える「竜王山・三輪山・巻向山」は大鳥が翅を広げたように見え、「大鳥の羽易(はがい)の山」と詠まれている。
橘寺・川原寺も訪れている。川原寺では伽藍の礎石・めのうの礎石を見て寺勢盛んだった頃を偲んでいる。
飛鳥川のそばを通り岡寺参道入口に出る。(変わっているが懐かしい風景)
岡寺参道の前にある「嶋田邸」江戸時代は屋号「クスリや」という旅籠屋だったそうだ。(写真左の家 人がいて写真が撮れなかった)
宣長が泊まった「岡寺前の旅籠 角屋」はここだったのか?
石舞台でお昼。ここでも紅葉
午後、周遊路から岡寺へ。
3月11日(新歴4月13日)
岡寺(龍蓋寺) 仁王門は重文。
宣長は11日、「角屋」をたって岡寺に詣でている。
『観音参りの老若男女の混雑ぶり、大声で歌う御詠歌がやかましい』
(今では考えられない賑わいぶり)
すぐそばにある今は治田神社。
菅笠日記には「八幡社」と記す。燈籠には「八幡社」の名が残る。
義淵僧正によって建立された岡寺。創建当時の伽藍は「八幡社」の境内にあったらしい。
(子供の頃のあそび場だった)
治田神社を下りた駐車場から、旧道を歩く。
農免道路ができるまではこの道を通っていたのだろう。
歩いたことはあるが、今はきれいに整備されて短いけれどいい道だ。
農免道路に出て、酒船石へ。酒船石は飛鳥の謎の石造物の1つ。
宣長は『あやしき大石あり・・硯を置いたような平らな石。丸くえぐった穴、溝・・』
『里人は 長者の酒ぶね と言い伝える』
『高取城を作る時に(石を)大きく欠き取っている』と記述。
左、甘樫丘(上に木が見える) その奥 畝傍山 その後ろ 二上山が重なって見える。
飛鳥坐神社 『麗しい鳥居、飛鳥井の跡』
階段を登ったところに4社。『元は神奈備山という所にあったが、淳和天皇の御代、神のおさとしにより鳥形山に遷されたという・・だから今あるところは「鳥形山」』『なので、昔はもっと寺域が広く、鳥形山の麓に近かったであろう飛鳥寺も鳥形山と名付けたのだろう』
飛鳥寺の山号は鳥形山というのは知らなかった。
鳥形山 飛鳥寺
『飛鳥寺は里のかたはしにわづかに残りて門などもなく、仮のお堂に大仏という丈六の釈迦像が本尊のようだ。まことに古めかしく尊く見える。聖徳太子像というのは近き世の物と見えた。昔の堂の瓦というのも厚さもあり大変古いものだ』
(当時の飛鳥寺の様子に驚く)
『寺のあたりの田の畔に「入鹿の塚」という五輪の石が半ば埋もれている。
けれど、さして古いものには見えない』
今日の菅笠日記をたどる飛鳥のウォークもここで解散となる。
・・が、次のバスまで50分もある。
この辺で時間をつぶすのもしんどいので、橿原神宮駅まで歩くことにした。
・・おかげで?歩数計は2万歩越え。ちょっと疲れた。
壺阪山駅前「高取 観光くすり町」のゲート。
高取は、飛鳥時代に天皇が「薬狩り」を行ったと伝えるところ。
動植物も豊かで自然に恵まれたところだったようだ。
江戸時代中期ぐらいからは奉行の許可を得て「大和売薬」として置き薬の行商をして歩くようになった。
子供の頃、家でも「置き薬」があった。
日頃使いそうな薬を先に預かっておき、使った分を次に来られた売薬さんに支払う。そして、また補充。という方式
信用の上に成り立っていた商売だったと思う。
高取は富山と共に薬売りが盛んだった。
マンホールには、町の木 カエデ 町の花 ツツジ のデザイン。
「土佐街道」に入る。
ここは高取城の城下町として栄えた所。
「土佐町」の名の由来は、飛鳥時代初期、大和朝廷の都造りに召し出された土佐(高知)の人が、任務を終えて帰郷する時には朝廷の援助がなく帰郷できず、ここに住み着つき、郷里の「土佐」名をつけた。
当時の雰囲気を感じられる町並。
道路の両脇の石畳は阪神淡路大震災の後の復旧工事で出た石が活用されているそうだ。
石畳には、薬草になる植物のタイルが埋め込まれている。
歩きながら数えたら・・
タンポポ 2枚・ナンテン 3枚・センブリ 2枚・ゲンノショウコ 2枚・
ドクダミ 3枚・キキョウ 3枚・クズ 2枚・アオキ 3枚・ナズナ 2枚
9種類、合わせて22枚のタイルがあった。みなおなじみの植物だ。
左)札の辻には「右 つぼさか よしの みち」の道標がある。
右)「高取町道路元標」
道標を3基見た。
十五丁 埋もれそうな十丁?十一丁? 七丁
「これは高取城の丁石?」家に帰って、道標に詳しい息子に尋ねたら「観音院道の丁石」とのこと。
「前に行ったやろ 観音寺跡」と言われ・・うすうす思い出す。
あ~。あの荒れていたところ・・残りの丁石が少し残っていたね。
去年の3月16日に行ったのだった。すぐ忘れる・・
その時のブログが出てきた。参照 ココ
土佐街道には高取城にあった建造物が移築されていたり、城下町時代の建物や跡が残っている。
「松の門」高取児童公園の入り口に移築。
県文化財 植村家長屋門
他にも、重文 臼井家(伊勢屋)屋敷跡・伊勢屋屋敷跡・田塩家住宅長屋門
石川医院 表門は、高取藩主の下屋敷表門を移築したもの。
現在も開業中。など・・
コンピューターグラフィックで高取城を再現したもの。
明治に取り壊されたが、明治の頃の写真も残ってる(高取城址の近くにあった)
近代城郭では日本一の高低差。
日本3大山城の1つに数えられた。
高取城址には今も立派な石垣が残る。
破却せず残っていればどんなに良かっただろうか・・いつも思うが、
583mの山の上。管理も大変だろう。
途中に「馬冷やし」という所があった。
山の上まで荷物をつんだか、人を乗せたか・・馬もそれは疲れたことだろう。
観察した植物。
イヌカタヒバ ヒイラギ
ミントが道端に繁っていた。
メンバーのお1人から
「アメリカ ケンタッキーダービーを観戦する時、ミントで作った「ミントジュレップ」が欠かせない」というお話。
「シロップに若いミントの葉をつぶして入れ、炭酸水と氷とバーボンウイスキー」を混ぜる」と、作り方まで教えてくださった。
知らない話を聞くのが大好き。それに「ミントジュレップ」おいしそう。
別のメンバーがコハナミゴケを見つけた。
地衣類で、赤い部分は胞子をつくる子器という部分。
水路のセキショウの香りを嗅いだり。
ある人はスギの枝に作ったトックリバチの(空の)巣を見つけ・・
ニューサイランやチョウセンマキも栽培されているようだった。
条件が良ければ花もさくという。見たいものだ。
テイカカズラの実からふわふわと飛んできた種子。
長い種毛が付いて、風で遠くに運ばれる。
シホウチクは稈の断面が四角(角は丸い)竹。
ちょうど倒れていたのがあって、節の部分の気根のようなものや、稈の表面には細かい刺状の突起があるのもよくわかった。
タケノコは秋に出る。この竹もまだ枝が伸びていない若竹だ。
砂防公園近くでは紅葉がきれいだった。
道路端に紅葉の吹き寄せ。
紅葉を見ながら弁当を食べ、ゆっくり下る。
道横の水路のダイサギ。
すぐ近くを歩いているのに全く気にせずに悠々と歩いていた。
帰り道で妹が見つけた鬼瓦。この紋は何かな?
これは「丸に一文字 割桔梗」という植村家の家紋、ということがわかった。
高取の町・土佐街道、色々楽しめた。