梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

送る記憶

2010-07-15 11:20:45 | 日記
最初の葬儀は母親だった、私が11歳の時、10歳の時に乳癌が見つかり直ぐ手術を受けたが手遅れだった、退院して半年で再発した時は全身に廻っていて直接死因は肺癌だった、父親が隣家で借りたリヤカーに母を乗せて4km程の登り坂を引いて帰った、我家の真向かいの山には昔寺が有ったそうで、跡地はその頃畑になっていた、北側の道を畑に沿って進むと杉の植林された山中に続くのだが畑の切れた少し先の直ぐ脇に大きな椎の木が有ってこの下に大きな窪地がある、石の仏像(今考えると地蔵尊だったか、)が安置されていて此処が村の火葬場だった、私が小学校に上がった頃は未だ此処で火葬をしていた、火葬役は当番制で2人一組で野辺送りの後は一日掛けて火葬をする、夕方から火を入れて終夜火が消えない様に番をするのだ、私の父がその最後の(昔は火葬をする人をこう呼んでいた)になった、恐らく私が未だ小学校に上がっていないか上がっても直ぐの頃だったと思うが村の一番奥に掘立小屋を編んで一人で住んでいた人が亡くなった、村8分に近い暮らしをしていたが葬儀は残りの2分である、簡単に寺で形を付けると丁度当番だった父が焼く事になった、父の話を纏めると先にホダを敷いてその上に火力の強い松の角材を井桁に組み、その上に棺を乗せて火をつけるらしい、「とても素面で出来る物ではない」と村から酒とつまみが大量に渡されるそうだが「食い物に手は出ない、空酒をあおるしかない」らしい、棺に火がつくとやがて棺が燃え落ちて仏さんが現れる、此れを骨になるまで焼くのだが大抵焼き切れる前に井桁の中に落ちて火が上になってしまう、其れを2人で竹竿で火の上に持って行って薪をくべる様に火を煽るそうだ、その火が我が家の縁側から見える、大きな椎の木の隙間から炎がちらちらと見えるのだ、朝には明るくなったせいか火が落ち着いたせいか炎は見えず白い煙が立ち昇っているのだけが見える、その煙を見ながら母が「私が死んだらあそこで焼いて貰うんだ、あの煙をみて”ああ、春ちゃんが上がってゆくよ”と皆が言ってくれればそれが一番の葬式だもんね」と言ってたのだが、この父の当番が最後になってそれから数年後に他界した母は皮肉にも村で最初の市の火葬場での野辺送りになってしまった、あれから50年以上経つ、何度火葬場に行っただろうか、重い扉の閉まる音と重油バーナーの”ゴー”と言う音は何時聞いても嫌なものだ