事務所で流しているラジオで投稿テーマに「家電の思い出」と言うものが出た、
生活家電と言う事になるみたいだが私の年齢では「家電」と言うものが現れたのはかなり後になる
無論我家が結構赤貧だったこともあるが世の中にはそんなものは無かった気がする
貧しかった我が家は電気は「定額」と言う奴で使える電力は決められていた、
思い出してみると恐らく「1A]だったのではないか?
一応ヒューズボックスは有るが入っていたヒューズはコンマ以下だった気がするので60W位だったかもしれない、
白い瀬戸物のヒューズボックスで鉤ヒューズが2本入っていたが危険防止と言うより低額制限の為の様で電線が熱を持つ前にヒューズが飛ぶ、
名目はあくまでソケットは一つだが松下電器を押し上げた二股ソケットをつけて更にねじ込み式のソケットを装着しそこにラジオをつけていた、
大きさは子供の感覚だから意外と小さかったかもしれないが木製のニス塗でスピーカー部分は溝が半円形にくりぬかれ布が貼ってある、
ダイアルは電源と兼ねたボリュームと選局用のバリコンダイアル、もう一つあったが多分チューニングの微調整だったのではないか、
何時の頃からあったか覚えていないが記憶にある年齢にはあったので多分昭和27年か28年頃か、
夕方家事手伝いの姉が聴いていたのは今月の歌と言う番組で此処で中曽根美紀の「川は流れる」とか
「山から街に来た娘」なんかを覚えていた、
両親が聴いていたのはニュースと寄席、NHKの「土曜の夜の贈り物」と言う番組がお気に入りだった、
石黒敬一の「とんち教室」(石黒さんは違うかな?)「二十の扉」「私は誰でしょう?」とラジオ寄席が繋がって放送されていた、
個人的には「模型とラジオ」で知った「ゲルマニウムラジオ」と言うい奴を組み立てて聞いていたが電源の無い検波だけのラジオなので音は微弱だが
深夜に布団の中で聞いていた、
村にTVが来たのはやはり皇太子御成婚がきっかけだが1軒だけで子供達は毎晩そこに集まって見せて貰った、
「てなもんや三度笠」「隠密剣士」「月光仮面」「ジャガーの眼」「怪傑ハリマオ」と実写ものでアニメは無かった気がする
プロレス放送は親父たちも集まって力道山や遠藤がアメリカから来たレスラーをやっつけるのが敗戦の留飲を下げるのか本当に興奮していた、
今考えるとあのうち(家は覚えているが確か山内さんだったと思う)は大変だっただろうな、
結局村を出るまで我が家にはTVは来なかったしお袋が入院してから親父が洗濯をしていたが盥と洗濯板だった、
自分も時々やるのだが水を汲むのが面倒なので数百メートル離れた川の河原に盥を持って行ってやっていた、
「白物三種の神器」は結局揃ったことは無かった、
中学を卒業し東京に就職した時はアパートの借り上げ寮で共同の洗濯機があった、
一槽の渦巻き洗濯機でゴムの搾りローラーが付いていてこれである程度水を絞ってから乾すのだが気を付けないとボタンを引き千切る事が有ったので気を遣う、
勤め先が日立なので暫くすると二槽式になったがその後所帯を持つまではコインランドリーになったのでこれも持ったことは無い、当時のアパートには風呂と洗濯機置き場はあまりついていなかった、
朝飯はパンだったり喫茶店のモーニングサービスだったり、昼は当然食堂、夕飯は酒で済ませるので
炊飯器は持っていなかったが唯一掃除機だけあった、しいて言えばトースターが有ったか、
その代わりオーディオ類は結構そろえた、コンポと言う言い方でアンプ、チュナー、イコライザー、ターンテーブル、スピーカーとバラバラに揃えるのが当時はマニアでなくとも当たり前だった、
殆どはSONYだったがSPはビクターのクラシック用の30kg近くあるものとSONYのG-5を使っていたが安アパートでは本格的に音を出す事は出来なかったので宝の持ち腐れだったな、
ターンテーブルもSONYのダイレクトドライブだったが所帯を持った時に場所を塞ぐのと女房の好きな音楽が違うので処分してしまった、
お皿も全て処分したがあのまま持っていたら結構価値が出ていたよな
と言う訳で私には「家電」と言うのは孫も成人した今時分になって一人事務所に大抵の家電が揃って来た、今はお一人様用と言うものが安く手に入る、下手をすると自宅より揃っている位になっている、
生活家電と言う事になるみたいだが私の年齢では「家電」と言うものが現れたのはかなり後になる
無論我家が結構赤貧だったこともあるが世の中にはそんなものは無かった気がする
貧しかった我が家は電気は「定額」と言う奴で使える電力は決められていた、
思い出してみると恐らく「1A]だったのではないか?
一応ヒューズボックスは有るが入っていたヒューズはコンマ以下だった気がするので60W位だったかもしれない、
白い瀬戸物のヒューズボックスで鉤ヒューズが2本入っていたが危険防止と言うより低額制限の為の様で電線が熱を持つ前にヒューズが飛ぶ、
名目はあくまでソケットは一つだが松下電器を押し上げた二股ソケットをつけて更にねじ込み式のソケットを装着しそこにラジオをつけていた、
大きさは子供の感覚だから意外と小さかったかもしれないが木製のニス塗でスピーカー部分は溝が半円形にくりぬかれ布が貼ってある、
ダイアルは電源と兼ねたボリュームと選局用のバリコンダイアル、もう一つあったが多分チューニングの微調整だったのではないか、
何時の頃からあったか覚えていないが記憶にある年齢にはあったので多分昭和27年か28年頃か、
夕方家事手伝いの姉が聴いていたのは今月の歌と言う番組で此処で中曽根美紀の「川は流れる」とか
「山から街に来た娘」なんかを覚えていた、
両親が聴いていたのはニュースと寄席、NHKの「土曜の夜の贈り物」と言う番組がお気に入りだった、
石黒敬一の「とんち教室」(石黒さんは違うかな?)「二十の扉」「私は誰でしょう?」とラジオ寄席が繋がって放送されていた、
個人的には「模型とラジオ」で知った「ゲルマニウムラジオ」と言うい奴を組み立てて聞いていたが電源の無い検波だけのラジオなので音は微弱だが
深夜に布団の中で聞いていた、
村にTVが来たのはやはり皇太子御成婚がきっかけだが1軒だけで子供達は毎晩そこに集まって見せて貰った、
「てなもんや三度笠」「隠密剣士」「月光仮面」「ジャガーの眼」「怪傑ハリマオ」と実写ものでアニメは無かった気がする
プロレス放送は親父たちも集まって力道山や遠藤がアメリカから来たレスラーをやっつけるのが敗戦の留飲を下げるのか本当に興奮していた、
今考えるとあのうち(家は覚えているが確か山内さんだったと思う)は大変だっただろうな、
結局村を出るまで我が家にはTVは来なかったしお袋が入院してから親父が洗濯をしていたが盥と洗濯板だった、
自分も時々やるのだが水を汲むのが面倒なので数百メートル離れた川の河原に盥を持って行ってやっていた、
「白物三種の神器」は結局揃ったことは無かった、
中学を卒業し東京に就職した時はアパートの借り上げ寮で共同の洗濯機があった、
一槽の渦巻き洗濯機でゴムの搾りローラーが付いていてこれである程度水を絞ってから乾すのだが気を付けないとボタンを引き千切る事が有ったので気を遣う、
勤め先が日立なので暫くすると二槽式になったがその後所帯を持つまではコインランドリーになったのでこれも持ったことは無い、当時のアパートには風呂と洗濯機置き場はあまりついていなかった、
朝飯はパンだったり喫茶店のモーニングサービスだったり、昼は当然食堂、夕飯は酒で済ませるので
炊飯器は持っていなかったが唯一掃除機だけあった、しいて言えばトースターが有ったか、
その代わりオーディオ類は結構そろえた、コンポと言う言い方でアンプ、チュナー、イコライザー、ターンテーブル、スピーカーとバラバラに揃えるのが当時はマニアでなくとも当たり前だった、
殆どはSONYだったがSPはビクターのクラシック用の30kg近くあるものとSONYのG-5を使っていたが安アパートでは本格的に音を出す事は出来なかったので宝の持ち腐れだったな、
ターンテーブルもSONYのダイレクトドライブだったが所帯を持った時に場所を塞ぐのと女房の好きな音楽が違うので処分してしまった、
お皿も全て処分したがあのまま持っていたら結構価値が出ていたよな
と言う訳で私には「家電」と言うのは孫も成人した今時分になって一人事務所に大抵の家電が揃って来た、今はお一人様用と言うものが安く手に入る、下手をすると自宅より揃っている位になっている、