梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

西瓜と砂丘

2012-07-25 11:36:34 | 雑記
国道150号線は御前崎を過ぎて西に進むと遠州灘の海岸線と平行して続く。
右手は牧の原台地の先端で20~50m位の丘陵地帯の端になっている、左手の防砂林は国道と突かず離れず続いていてその先は御前崎からずっと愛知県の蒲郡まで砂浜が続いている、
この辺りは砂丘が発達して浜松の手前には凧揚げで有名な「中田島の砂丘」があるが御前崎の先に「浜岡砂丘」と更に少し先に「千浜の砂丘」が有った、有ったと言うのは最近すっかり昔の面影をなくしてしまい、雑草だらけの普通の浜になりつつあるからだが昭和40年代には実に美しい所だった、この二つの砂丘は「中田島砂丘」に比べて規模はかなり小さいのだが天竜と大井の河川が南アルプスから運ぶ石英質の細かな砂のお陰で眩しい位真っ白なのだ、海流の方向のせいか天竜川の西にある「中田島砂丘」は此処より少し重い感じの茶色の砂で出来ている、
波打ち際に行って見ると透明な波が白い砂を繰り返し巻上げる中に金色の切片が光っている、
此れは黄銅鉱だそうだが水の中で見るとまるで差金のように見える、
遠州灘は海流の流れが複雑で彼方此方に離岸流が発生し、水深も波打ち際から数メートル膝程度だと思ったら突然瀬が立たなくなったり、その先は又膝丈だったりと危険なので殆どは遊泳禁止である、しかし自分はこの海岸で随分遊んだ、泳ぐ事はしなかったが波に揉まれているだけも楽しいので子供が中学に成る前までは毎年来ていた、
当時は水も綺麗で波高が阿児下に来るくらいの所に立っていても自分の足が充分に見えるし砂が石英質なので足でかき回しても水が濁る事は無い、汐が引いた時腰高程度の所で足をねじるようにして砂を掘り込んでゆくと大きな貝がある、幅が5~10cm位で厚さも1cm位ある貝で蛤ではなくこの辺りでは「朝鮮浅利」と言う言い方をしていたが本当の名前は知らないが此れを焼いて醤油をたらし味の素を少し振って食べる、
此れを目的に20代の頃友人と二人でこの先の大浜と言う所にキャンプに出かけた、150号線を西行して小さな川を越えると消防署の建物がある、この脇の車がやっと通れる程度の小道を入ってゆくと松を植えた防砂林が有って其処に沿って少し行くと小さな川が遠州灘に流れ込んでいる
其処に車を止めて砂浜に出るとブルーシートを敷いて日除けにもう一枚を斜めに張る、
当時は此処に食料から道具一式を放ったままで買出しに出かけても何の問題も無いくらい誰も居ない海岸だった。
その時は国道と砂丘の間に西瓜畑が有って8月の夏休みだったが既に収穫は終えてしまったらしく残っているのは不細工な物や末生りの小さな物、恐らく種取り用の色の変ったもの程度しか残っていなかったが少し離れた所に夫婦らしい二人の人がなにやら作業をしていたので試しに声を掛けた「すみません、この西瓜幾つか分けてくれませんか」と呼びかけたら「もう集荷できない奴だから勝手に持って行って良いよ」と言うのであまり大きくないが未だ熟れすぎて居なさそうな奴を4個ほど採って「此れだけ貰います、幾らですか?」と聞いたら「解らないな、俺んちの畑じゃないから」と言う返事が帰って来た、どうやらその人は隣の畑の持ち主らしい、「どうせ腐らせる奴だから構わない」と言うのだが友人と大笑いをしながら貰ってきた
しかし夏の日差しで西瓜はかなり暖かい、「取り合えず冷やすか」と言う事で砂浜に穴を開けてその中に西瓜を押し込む、そのままだと浮いてしまうので波が繰り返す所だがかなり深く埋めて目印に流木を立てて置いた、そのまま日除けの下でビールを飲んで昼寝をしたが目が覚めたらかなり水際が上がってきている、どうやら汐の引いた時に埋めたらしいが肝心の目印がひとつも無い、
水際の位置も変ってしまったので全く分らない、散々探して見つけたのは結局一個だけだったが恐らく流れてしまったのだろう、手に入れた事も無くした事も良い思い出である

西瓜

2012-07-24 10:41:36 | 雑記
西瓜の季節になった、子供の頃は好きだったがその頃は中々食べられなかった、
その頃田舎では西瓜を作る農家が無かったのだが農村なので「八百屋」と言う店が存在しない、従って手に入る事が無いのだ、まあ魚屋も肉屋も無いのだが。
一度父が種を買ってきて私に「蒔いてみるか」と言ったのでジバイ瓜の隣でやってみたがソフトボール代の物が4~5個出来ただけで中身も赤くならず駄目だった、
西瓜の代わりに子供のおやつになるのはトマト、胡瓜、そしてマクワ瓜だった、
胡瓜は普通に棚で作る胡瓜の他に「地バイ瓜」と言うのが有ってこれがイボも無く真っ直ぐに出来る、水分が多くおやつ代りには此方が良い、
「ジバイ」と言うのは恐らく「地這」と言う事で畑に萱や麦藁の床を作って平らに作るからそう言うのだが今東京の野菜売り場では「白瓜」と言う名前で売られているが買ってみると昔より少し硬い感じがした。
一夜漬けや糠漬けにしても美味しいが此れを縦半分に切って種をこそぎだし其処に塩を塗りつけてかぶりつく、毎日十本以上採っても次々出来るので親も子供が学校から戻る前に収穫して笊に入れて沢に冷やしておいてくれる、トマトも一緒に冷やして有った、しかし今のトマトの味はあの青臭さとすっぱさがなくなってしまったのが残念だ。
マクワ瓜と言うのも作る、黄色くて白瓜より更に太い、こっちは漬物にはしないでもっぱら果物の様な食べ方をする、農作業の途中で咽の渇きを癒すのに丁度いいので大抵の農家で作っていた、確か「プリンスメロン」の最初の物はこの瓜とメロンの交配種だったと思う、
昭和35年位からぼつぼつと西瓜を作る農家が出てきた、出荷用ではなく片手間に作る程度だった、此れを悪餓鬼は見逃すわけは無い、只盗むのは面白くないので明るい内から目を付けて置いたよく熟れた実を蔓から採らないでそっとひっくり返す、下になった部分は日当りが悪いのですこし模様が薄い、この部分をナイフで刳り貫き竹の先で中を突付きまわして果実を液状にする、其れを麦藁で作ったストローで吸い取るのである、
凡そを飲み干したら先ほど刳り貫いた部分を戻してそっと元の位置に戻しておく、こうして置くと数日で西瓜は腐り落ちてしまうのだが只其れが面白くて何度かやった
働き出してからは余り西瓜は食べなかったが子供が出来てから時々買って来るようになった、
当時西瓜は丸々一個で売っていた、有っても精々半分である、しかし此れは冷やすのが大変で冷蔵庫の中身を痛まない物は外に出して出せない物は一纏めにして隙間を作り入れる、しかしそれでも入らないで中仕切りの棚を外して冷やす事になる。
実は西瓜の皮は白い部分に外の硬い部分を薄く残して一夜漬けにすると結構いける、糠漬けが良いのだが糠床がない、一塩で一夜漬けを作って置いて抓みにすした、どっかで売ってないかと思うがまさか喰いかすで売り物も作れないだろうし、皮を剥いて赤い部分だけで供する様な方法も無いから仕方ない、糠床を作る根気も無いから諦めるしかないのが残念だ。
40代で会社を起こした頃勤めていた19か20歳の女性社員が西瓜の時期に「小学校の頃テストの成績が良かったご褒美に何が良い?と父に聞かれて一度やってみたかった西瓜を丸々皮を剥いて林檎みたいに食べたいと言ったら父が”よし解った”とかなり大きな西瓜の皮を剥いてくれたので大喜びで食べたけど顔中がびしゃびしゃになって食べ難いだけて味が解らなかった、やっぱり普通の舟が良いですよね」と言っていたのを思い出す、


緑のコタン

2012-07-23 17:01:25 | 雑記
吼える狼、手負いの熊の声も届かぬ原始林、嵐に向いまっしぐら
緑のコタンを夢に見て、ああ若き勇者、勇者は進む
あーあー、ああああああああ~、ああ、緑のコタン(記憶違いもありそうだが)
未だテレビが普及していない頃、ラジオでラジオドラマと言うのがあった、夕方の4時頃からだったと思うが15分程度の番組で「朗読」ではなく複数の声優と効果音も有る、
母親が死んだ後学校から帰ると夕飯の支度をしながら風呂を沸かす、丁度この頃にラジオドラマが流れていた、一年替わりで平日の夕方に流れるのだがこの番組で一番覚えているのが「緑のコタン」だった、と言うよりそれ以外は覚えていない、ストーリーも定かで無いのだが少年が銃を持っていてこのテーマソングの最後に銃声がするのが印象的だった、
「一丁目一番地」もこの番組だったかも知れない、ホームドラマのラジオ版だったがストーリーは欲覚えていない、
この時間の直ぐ後に「今月の歌」と言う10分程度の番組があって毎月新しい曲を流していた、姉はこの番組が好きでそこで覚えた曲もかなり有った、中曽根美紀の「川は流れる」はこの番組だった気がする、
「山から街に来た娘、隠していても直ぐわかる、空を飽きずに見てる目がそら陽の匂い」と言う曲を覚えている、毎月だから当然もっと有ったのだがどう言うわけかこの二曲を覚えている(覚え違いかもしれないが)
その後の時間は大人の時間で親父の好きだったのは「ラジオ寄席」と「土曜の夜の贈り物」と言う番組だった、「とんち教室」と「私は誰でしょう」、「20の扉」も此処だった気がする、この番組はおもっと前からやっていて母親も聴いていた、
家の狭い入り口を入ると三畳間(と言っても畳は敷いていない)で蹴上がりの所に囲炉裏が切ってありその奥の畳2枚弱で食事をする、その奥に板の間が畳一枚分くらいあって其処に食器入れと米びつなどが置かれ食器入れの上に木製のラジオが置いてあった、
当時我が家の電気は「定額」という奴で基本的には一箇所しか利用が出来ないことになっているのだが多少の目溢しがあって「二股ソケット」でラジオを聞いていた、
しかし電球は1つしか点けられないので親父が家を横断するように番線を渡して其処に電球は吊下げてあり時間に応じて移動して使っていた。
家の入り口(玄関と呼んでいたが半畳の土間である)の向かって右手に細長い土間が有った、板戸がつけてあり入り口側から便所、風呂とあり有り、その奥の右手が流しである、
突き当たりに2連の竃があって煮炊きは此処でする、流しは最初の頃は板だけだったがその後とたん張りになった、
当然水道なぞ無い、裏の沢から掛け樋で水桶に引いた水をブリキのバケツで流し脇に用意して全て此れで調理から食後の始末までする、しかし、沢の水はきれいだが水量が少ない、風呂の水は天秤棒に雑巾バケツを前後にぶら提げて200m程度離れた川から担いできた、上の姉が働きに出るまでは自分と二人の仕事だったが中学を出ると直ぐ鷲津の紡績に働きに出たのでその後は自分の仕事だった
風呂を沸かすのも竃の火も山に行って立ち枯れの木をとってきて使う、しかし竃の方はお袋が癌で倒れた時に石油コンロに変った、炒め物は石油コンロの前は火が弱くてべちゃべちゃになったが炒め物らしく出来るようになった、因みにこの頃は「中華鍋」と言う物が無かったので竃ではやりにくいのである。
風呂桶は木製で「へそ釜」という奴なので湧くまでの時間がかなり掛かる、夕飯の支度を先に終えて窯の前に座って薪を一時間以上くべるのだが結構その時間が好きだった、
裸電球は3畳間の食卓前にあるだけなので竈の前は真っ暗である、
へそ竈の中から薪の燃える光が手元と足元を赤く照らすのをぼんやりと眺めながら座っている時間は何を考えていたのだろう、今ではとても考えられない生活だが自分には結構楽しい思い出である、

軍靴の音が聞こえると言うのは少々大袈裟だが

2012-07-22 11:23:22 | 雑記
私は昭和23年生まれだから戦後生まれになる、戦争は知らない世代ではある。
昭和40年代だったと思うが「戦争を知らない子供達」と言うフォークソングが流行った事が有る、
ベトナム反戦運動がアメリカで巻き起こって居た頃の物だが此の歌詞が私は嫌いである、此の歌詞では戦争を経験した世代が悪くて戦争を知らない自分達は平和の歌を歌うと言う趣旨だった、
私は確かに戦争は知らないが戦争に行った親達の世代を良く知っている、彼らも私とさほど違わない世代だから同じ様に両親や兄弟が戦争に行った経験者が居る筈だ、
実際に喜んで戦争に行ったと言う先輩達が居たのだろうか?その世代のお陰で復興を遂げ始めた私達以下の世代がまるで「あの世代は間違った世代だ」と言わんばかりの歌詞が嫌いである。
戦争に行って前線で戦った人達の殆どは召集令状一枚でかりだされた一般人である、戦死したのもほとんどは家も仕事も家族も有り「戦争に行きたくて行った」人は居ないだろう、前線で命がけで銃を撃ち兵站をになった人は戦争などしたくは無かった、そして戦争をしたかった連中は誰一人として前線に出て銃を構える事は無かった、戦争は国民の総意とは無関係な所で走り出す。
原始的な食料を奪い合って偶発的に起きる争い以外は戦闘をする人間と戦争を始める人間は別な事が殆どだ、しかし日露戦争や日清戦争の後太平洋戦争(第二次大戦)に走り出す頃は国民の中に戦争やむなしと言う空気が有った事は間違いない様だが此れは政府、或いは軍部が流す情報がコントロールされていた事による事は間違いない事実である
正確に全ての情報が国民に提示されていて軍の強制力が排除されて居たらあの戦争は起きなかっただろう、此れは「日本」だけでなくアメリカでも同じだった事が最近明らかになって来た、
国民の願う事が無視され情報は操作され隠ぺいされる、今の日本は軍部が政府を掌握して戦争に向って暴走し始めた状況に酷似して来た感が有る、軍部の変わりは肥大した資産家と企業である
あの頃と違うのは「日本軍」と言う物が無く政治に影響を持っていない事だが「コングロマリット化」した産業は財閥と言う物に酷似して来た、シビリアンコントロールは政治そのものである事を官民ともに深く理解しなければならない、

原発と原爆、産業界と国の意図

2012-07-21 17:46:50 | 雑記
原発をどうしても存続させたい政府と経済界の意図が良く解らない、国民の大多数が反対し安保闘争以降最大と言われるデモ、其れが自発的に起きている、
電力不足を言い立てる電力会社と経済界だがその数字は全て電力会社の出す数字である、しかも今回の猛暑でも結局大飯原発の発電量を差し引いても間に合っていた、その事実を言われても無視して経済界は「0%・15%は非現実的な数字だ」と言う、国民の総意を無視しどんな数字も無視し、使用済み廃棄物の処理方法も無いままで進める事がどうしてなのか、
ふと前に何処かのブログで見た話を思い出した、荒唐無稽では無いが若干穿ち過ぎだと思っていたが強ちそう穿った話では無いかもしれない
「原発をどうしても存続させたい理由はアメリカの意向だ、原発が無ければ日本に核物質の保有は出来ないが原発の為であれば非核三原則には抵触しないで多くの核物質を持てるからだ」と言う趣旨でもう少し内容が有ったと思うが今私が”そうかもしれない”と思うのはこの部分だ、
確かに原発と言うのは「核の平和利用」と言う言い方通り「核分裂エネルギーをゆっくり取りだす」装置で内容とパフォーマンスは核爆弾そのものである、核燃料はウラン235のペレットを金属管に収めた物を臨界状態まで集めて間に減速材を入れた物である、減速材を完全に取り払えば暴走しいわゆるメルトダウンを起こす事は知られている、此れを意図的にペレットだけを集めて臨界量を幾つかに分けておきTNT等で爆発的に衝突させれば一番簡単な「広島型原爆」になる
今日本には54基、震災で4基は廃炉になるがそれでも50基ある、簡単に言えば我が国は50発の核爆弾を保有している事になる、国に意図が有ればそれは簡単に変換できる筈である
我が国は自前で人工衛星を打ち上げる技術力もある、それもトン級の打ち上げ能力であり他の国とは違い固形燃料のロケットである、打ち上げ(発射)の準備は液体燃料ロケットに比べて保管しやすい物だ、此れが米国のコントロール下にあるとしたら確かに「脱原発」は絶対に阻止するべき物になるだろう、最近集団的自衛権も武器輸出の規制もなし崩し的に法改正がされている、
軍需産業はいかなる時代でも産業の米櫃だ、これらを合わせ考えると産業界と政府の原発推進はベクトルが解る気がする、東芝、日立、三菱となれば自衛隊装備の基幹企業だ強ち「穿ち過ぎ」な考えでも無い様な気がする、そうでないなら何故あれだけ強硬な意見を繰り返すのか解らない