梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

靖国問題と嫌日の二ヵ国

2013-08-16 18:17:37 | 雑記
終戦記念日が過ぎた、毎年この時期になると必ずニュースになるのが靖国参拝問題だ、
基本的にこの問題は韓国と中国、それに同調する一部の日本人からのみである。
靖国神社と言う形式を取っているが基本的には戦没者慰霊の場所である、キリスト教的に言えば戦没者の為の教会といっても良い、日本では先祖を祀るのは寺と言うのが一般的だがちゃんと「神教による慰霊」と言う方式も有る、浜松市の市営墓地は最初から仏式と神式とキリスト教式の墓地が有る位で少数派とは言え神社も立派な慰霊の建物である、
我が国の天皇制は「天皇が神事を司る」と言う名の元に国を統べているので寺でなく神社になっただけである。神教以外は他国の宗教なのだからおかしくは無い。
靖国神社に祀られているのは戦死した兵士の霊である、その中には職業軍人ではなく徴兵で戦地に借り出されその地に散った名も無い人々も多くある、戦中戦後の靖国神社はそういった人達の家族が手を合わせにくる所でも有った、
庶民が戦地で死んでも此処に来て(あの子は(或いはあの人)が死んだのは決して無駄ではなかった、国の為に戦って死んだのだ)と自らを納得させる拠所でもあっただろう、
確かに将校と言う職業軍人も祀られているし敗戦後「A級戦犯」達も合祀されているが人数的に言えば明らかにそう言う“時代の犠牲者”達が圧倒的に多い、前言と若干矛盾するかも知れないが仏教的には死んでしまえば其れも仏である、
今の日本は中韓が言う「罪」も含めてその上に存在する、明治以降第二次大戦まで多くの兵士達が戦場に散ったが自ら其処に向った人など殆ど居ない、其れを考え命令を出した連中の殆どは戦地には行っていない筈だ、
中韓が日本に対して戦争の責任が取られていないと言うのは自由だ、しかし戦没者慰霊の日に其れを悪し様に言うのは人道的に言っても大変無礼で非常識な行為だ、
「戦争を起こした誠意じかと軍人が合祀されているのはおかしい、彼らを日本の英雄だと言うのはヒトラーを神にする様な者だ」と言うなら納得する、しかし一家の働き手が赤紙一枚で銃を持たされて他国に行かされ其処で死んだ者達を慰霊する事が「歴史を認めていない、」と言うのは論旨が違う、大日本帝国と言う異常増殖した軍が起こした事は間違いだったと思う、しかし徴兵された一般人も充分に戦争の被害者だった、だから蹂躙した国に謝る必要が無いとは言うつもりは無いが今の中韓の世論は異常だ、教育時点で虚実織り混ぜた嫌日教育をしているというのもやや眉唾だが両国のマナーや商道徳を見る限り自らの責任を日本に転嫁して眼を逸らそうとしていると言うと言う意見には充分に納得が出来る、
今中国は領海紛争を日本以外に多数起こしている、第二次大戦は経済封鎖が東南アジアの覇権に繋がったが今の中国は大国の脅威を背景に近隣の境界を強引に押し広げようとしている、日本は北方問題でロシアとの紛争も抱えているがどちらも「無条件降伏」と言うタナボタを最大限利用し半世紀前の敗戦国条項を未だに利用しようとしている様に思える、尤も此れを最大限活用しているのはアメリカ合衆国だが今の自民党政権はおそらく其処から滲んで来る甘い汁にとっぷりと浸かっているのではないか、
中韓にもロシアにも弱腰を見透かされているが元と言えば恐らくアメリカに対する日本政府のお追従政策がその根源にあるのだろう、そう言う意味では前回の民主党政権は1つのエポックポイントだったが余りに人材が無さ過ぎた、野党結集では恐らく又二の舞だろう、国会運営は大変だろうが何の抵抗も無い運営など独裁政権に等しい、たとえ紛糾しても政治は対抗勢力が有ってこそ正常に働く


祭囃子が聴こえる

2013-08-14 17:19:49 | 雑記
夏祭りもそろそろ終わり、私の田舎は秋祭りで10月に集中する、しかし大きな祭りは京都の祇園祭りも東京の三大祭も東北も阿波踊りも夏祭りの様だ、
実を言うと私は余り祭りが好きではない、特別嫌いと言う訳ではないが強いて参加したいと思う事は無い、
人混みが苦手と言う事も有るのだがもっと根本的に祭りの雰囲気が苦手だ、思い返してみると多分それはやはり貧しかったせいではないかと思う、又親が偏屈で村の人との間に壁が有ったせいかも知れない。
しかし記憶に有るのは祭りが楽しそうなんだが其処には自分の居場所が無かったのは貧しかったからだと思う、
村に何時もとは違う音が溢れ、神社には出店が並ぶ、友人達は店の品物を嬉々として選んで歩く、しかし自分の手の中に有るのは一番安い物でも三つと買えない金額しかない、
恐らくその時(もっと家に金があれば)などとは考えていない、只、羨ましいだけだけだ、
結局皆が遊んでいる声を振り切る様に家に帰る、金が無い事も有るが仕事もある、段々遠ざかるざわめきと祭囃子は甘い思い出より切ない思いでしか無かった、
その気持ちが今でも祭囃子で蘇る、祭りのざわめきも夜店の明かりも妙に遠くに有って自分の前に有るのに画面に映る景色のように見える、
昔好きな漫画家に真崎守と言う人が居た、ガロやCOMの時代だったが独特の暗い画風で陰を多用する作品だった、その作品の中に「祭囃子が聴こえる」と言う読みきりがあった、そう言えばこの作家は連載はあまり書いていなかった気がする
確か天保水滸伝を独自の視点で書いたものだったと思うがその後映画で「天保水滸伝」(名前は違ったかも知れない)を見た時に同じ様な場面を見た記憶がある、
其れは利根川べりの芦原で労咳で動かない体でやくざの出入りに駆けつけて竹やりや刀で切り刻まれ恐らく眼も見えない状態で刀を振り回し既にやくざたちは其処には居ずに1人で刀を振り回しやがて崩れ落ちる平手の向うで祭囃子が響いている、
この祭囃子が自分にとっての音だった、遠くから響く祭囃子をぼんやり聞いていてもけっして其処に向う気は起きない、こんな詰まらない話を女房子供に話しても仕方ないと言うより雰囲気を壊すだけだから話す事は無かった、
笑って子供の手を引いて祭りに行ったが子供が大きくなったらもう行くことは無い、偶々女房も「人込みは疲れるから」と行こうと言わないがもしかしたら何となく気が付いているのかも知れない、
「本場の阿波踊りや風の盆が見たいね」と言う、そろそろ自分の中でも単純に楽しむ事が出来るかも知れない


経済的には

2013-08-11 17:24:45 | 雑記
少し前の事、ニュースで児童手当と保育所の話が流れている時夫婦で「児童手当なんか無かったよね」と言う話になった、我々が子供を育てている頃「児童手当」は確かに貰えない時代だった、教科書は無料配布だったと思うが制服も体育着も当然の様に購入しなければならなかったし、修学旅行の積立てもPTA会費という奴も結構馬鹿にならず、子供に惨めな思いをさせない為に晩酌は夫婦2人で一番小さなビールを1本づつ(当時は180mlの奴があった)で我慢して「子供が卒業するまで頑張ろう」と言っていた、
しかし自分達を育てた親の世代はもっと厳しかった、教科書も全て購入で時代も貧しい家庭が多く教科書の内容に大きな変更が無ければ進級や卒業に合わせて教科書を譲る事も珍しくなくその為に教科書はなるべく綺麗に使うのが当然だった、学校も其れが特別の事でなく新教科が増えるときには「補追版」と言う小冊子を配る位だった、
時代が変ったのだしそれに越した事は無いのだが随分今の親は恵まれていると思う、
しかし少し前に「団塊の世代は恵まれている、若者世代をもっと豊かにする為に年金も減らすべきだし選挙権の重さを変えるべきだ」と言う様な事を言う若者が出て来た事がある、
昭和20年代産まれのいわゆる団塊の世代はある意味損なめぐり合わせの世代だ、
未だ戦後の影響が色濃く残り一部の金持ちを除いて殆どの家庭は食べるのに精一杯の生活で学費が払えないから上の学校に行けないと言う層より「口減らし」に就職する層が多く居た、「ああ上野駅」がヒットしたのにはそう言う下敷きがある、
年金は「あなた方がリタイアしたら現役時代の6割は年金で出ます」と言われて積み上げた年金は「破綻した」と言う一言で減額され、支給延期される、50代後半になったら63からに成り、60を超えたら65歳になり、今は「70歳から」と支給額も減らすという、我々より少し先輩は共稼ぎの夫婦で両方が貰っていたら先に無くなった者の半分を遺族年金として受け取っていた、しかし我々は「どちらか一方」しか貰えない、
失業保険の退職手当も20年ほど前に全く無関係の筈の「年金と退職手当を合わせてもらう事は出来ない」様になった、社会保険の個人負担も高齢になったら1割だったがそれも無くなる、介護保険費用も年金から天引きされる、何時もあと少しと言う所で条件は崩れてゆく、
確かに世の中は高度成長時代であり右肩上がりの社会は努力すればその分上に行ける時代でもあったがその上の生活と言うのは今の若者が「底辺だ」と言う生活が目標だった、
ニートと言う言葉がある、引こもりと言う連中が居る、団塊の世代には殆ど居ない、其れは決して世の中が良かったからではなく子供が何もせず家に引篭もっていても生活が出来るような社会基盤も経済基盤も無かった時代だった、口減らしに就職をする時代なのである、それでも子供た義務教育の期間は必死で頑張っても何もしないで家に居たら食費も被服代もとても出せる状態ではなかった、それでも駄目なら一家心中も考えるか親子の縁を切ってたたき出すしか生活を保てる訳も無い、そんな状態は子供達も育った環境から充分に理解している、家に引篭もるなどと言う事は衣食を欠く事は火を見るより明らかだ、だから悪くなる奴は積極的に悪くなる、仕事も転々として結果的に犯罪者になるにしても家に引篭もってしまうなどと言う事は考えもしなかった、
確かに日本経済は飽和状態になり閉塞感もある、しかし努力しても結果が出るかどうかわからないのは何時だって同じだ、世の中の仕組みと自分の力を信じるしかない、この局面を変えるのもやはり彼ら若者の筈だ、自分の境遇を自分以外の責任にしていても何も解決はしない、まあこんな事を言っても仕方ないだろうが「我々は損をしている」と真面目な顔で公言している者を見ると一言くらい言ってやりたくなる


酷暑だ、風も無い

2013-08-10 18:22:44 | 雑記
気象庁の予報通りの酷い暑さだ、休みの日は近くのファミレスで朝食をとる、9時過ぎに店を出たら既に猛烈な暑さだ、昔仕事で鋳造工場に出入りした事が有ったがまるで鋳物の湯を鋳型に流し込んでいる時の様な空気である、気のせいだろうが空気の焦げる匂いまでする様な感じがする。
決算がまるで進んでいないので休みの土日に入力をするつもりで会社に向う、昼を取りに出掛けるのも辛いので昼食に食パンを買っておく、此処の所殆どトーストで済ませている、
中途半端に残ると冷凍しておくのだが翌日昼にするには少々足らないと買い足すと又半端に残ると言う悪循環で他の物を買う事が無い為でもある。
世間は盆休みで何処からも電話は有るまいと思ったらつい先週依頼を受けた会社が外資と言うよりスペインの会社其のものだったので「お盆」は関係なく来週も月・木とミーティングがある、資料を整理しなくてはならないが協力会社が夏休みになるので昨日無理をお願いして今日中に資料を作って貰う事になっている、その為やはり又決算資料は手が付けられない、税理士が夏休みに10日間休むからと資料整理は昨日までだったが全く間に合わない、昨日からひっきりなしに電話が入っているが携帯に掛かってくるので表示を見て出ない事にした、休み明けが恐ろしいが其れまでには整理が付くだろう、今出ても謝るしかないから腹を括る事にする。
仕事は3時頃けりが付いたのだがとてもこの気温では外に出る気がしない、やっと日が落ちたのでもう少ししたら帰宅しようかと考えている、
今の住まいは台所が西向きである、この暑さでは老妻には堪えると言うので今日は出来合いにする、夫婦揃って「夏だから食欲が無い」と言う事があまり無いと言うより全く無いので結構こってりとした物を食べる、特に自分は若い時から夏痩せと言う奴はした事がない、
「夏は体力をつけなければ行けない」と勝手に決め付けて結構油っこい物を食べていたので「夏ぶとり」になる、それは65歳になっても未だ変らないが医者から「体力が無いなんて体ではないから肉は極力減らす様に」言われているので涼しいうちは鳥の笹身くらいしか肉は食べないのだがやはり今日位暑いとトンカツなんかが喰いたくなってくる、
まあ外に食事に行ってしまえば良いのだがこれも昔から夫婦で「よっぱらて帰るるのが面倒くさい」と言う事で家で晩酌が定番である、特に此れだけ暑いと幾ら涼しい格好とはいっても家に居るより暑苦しい、出来合いを並べてクーラーのある部屋でテレビでも見ながら飲んで眠くなったら布団にも繰り込むのが一番だ、
明日こそは残りの経費を入力してしまわなければならないが未だ当分この暑さが続きそうだがそう言えば「原発が無ければ夏は乗り切れない」と言い続けていた電力だがこの猛暑でも配給制限は無かったな、電気料金が上がったが其れを甘受すれば原発は要らないと言う事ではないのか?CO2問題ももんじゅに掛ける研究費を廻せば早晩解決するんじゃないのか、そうなれば又石炭の需要が上がり倒産した夕張も活気がでる、
その技術は輸出資源として原発技術よりずっと可能性と有利性があるはずだろうと思う、

恥と言う文化は既に形骸化、老若男女に

2013-08-08 16:31:40 | 雑記
電車や駅、喫茶店など何処でも構わずだが何でこんなに今の女性ははしたなくなったのか、外国人のアンケートでも見苦しい日本のマナーのトップになって来た、
中国のマナーの悪さが取り沙汰されているがこの様な話は聞かない、我々の世代までは女性の化粧する姿は亭主にも見せないと言うのが常識だったのだが剃れど頃の話ではない、
電車に乗ってからずっと化粧(今はメークと言うのか)をしていて降りた時には全く別の顔で降りて行ったなどと言う話は珍しくも無い、
公の場と言う言葉は既に死語になったのだろうか、通勤通学の電車で飲み物とパンを持って普通に食事をする、最近は年配の女性にも見られるようになって来た、
高校生位の男子は時折居るが其れも大抵運動クラブの帰り位で社会人になったと思われる男性には余り見られない、特に勤めをしている様な人々では先ず見ないだろう、
しかし前述の若い女性は見るからに何処かに勤めていると思われる身なりで出勤時間に化粧をする、高校生位と見られる女性に電車で何かを食べている事が多い、
嗜みとか躾とか言う概念は今の女性から無くなったのだろうか、礼節と言う言葉は別に気取った言葉ではなく文化そのものである、周りの人々が不快に感じる事は慎むべきだと言うのは多くの人間が互いに交錯しながら生きてゆかなければならない人間社会の知恵でありルールだろう、特に狭い場所に多くの人間が生活している都会においては法律以前のルールとして礼節と言う物がある、
「嫌なら見なきゃいいだろう」と言うのは傲慢と言う物で五感を使って生活している人間社会ではどうしても見たくなくとも眼に入る、この程度は法律で縛らなくとも普通に皆が見につけているべき事だろう、迷惑条例と言う法律の言葉を見れば充分に解りだろう、
「何処まで許されるか」と言う事は「何処まで耐えられるか」と言う事とイコールではない、耐え切れなく為ったら争いになる、法律は堪えられなくなった時の為に平均的なそれこそ最大公約数的なルールを敷いているが此処までくれば罰則をかけると言うのが法律である、争いは何のプラスももたらさない、自分がされたら嫌なことはしないと言うのは最低のルールで自分は平気でも他人は平気ではない事が多々ある、
酒の飲めない人に飲める人が親切で酒を勧めてもそれは下戸には迷惑なだけだし、辛党の人に甘党の人が親切で甘い菓子を進めてもこれも拷問に近い、
こんな事は普通に身に着けていた筈なのだが今の日本人は何処に落として来たのだろうか、
本当に少数なのかも知れないが堂々とやっているのを見ていると子供達にどう言う影響を与えるか、世界から「低級な民族」として認識されるんじゃないかと不安で仕方がない