梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

9条はまるで無視、懲戒免職をしないと日本の政府はまずいんじゃないのか

2019-05-14 09:48:23 | 雑記
かみさんはクイズ番組と言うやつが好きで色んな番組を見ているのだが
「最近やたらに高学歴対抗と言うのが増えてきてなんか嫌になった」と言っていた、
時々付き合ってみていると東大京大をはじめとして高学歴のタレントがにぎわせているのだが最近「高学歴対決」と銘を打ったものまで出ているようだ、
役者で高学歴だと言うタレントもいるのだがそんなことは全く感じさせない人が多い
しかし番組ではその学歴を金科玉条の如く張り出して宣伝をする
コンプレックスと言われればその通りだが何とも不快な感じがする
肩書なしでクイズを楽しみ、優勝したらみんなで喜ぶだけでいいのではないか、
カズレーザーとか宮崎美子とかクイズが得意なタレントは素直に応援し「凄いね」で済んでいるのだがお二人とも最高学府を卒業しているのだがなんでか「東大」「京大」「早稲田」「慶応」とか有名大学だけを司会者が持ち上げる
最近は「現役東大生・京大生対決」などと言う物もありあれを見てどんな人が楽しんでいるんだろうかと思うがどうなんだろう、
東大卒と言えば官僚である、難関試験を突破してキャリアとして今はやりの「高級国民」になる連中だが学識は凄いだろうが一般常識はかなり世間とはかけ離れている気がする、
その証左となるような事件が維新の会の丸山議員の発言だ
「北方領土は戦争で取り返すしかない、この方法は賛成ですか?」と北方領土民の代表に発言したと言う、
憲法9条は安倍政権と日本会議が言っているだけで日本国憲法は「武力による外交解決は永久に放棄」している、それを国会議員が口にすること自体とんでもない話でこの事件は丸山議員の地位剥奪に該当するだろう、
これをしなければ日本政府は「戦争を容認する国、憲法を無視しても議員でいられる国」と言う事になる、
私は昭和23年生まれで敗戦後の生まれだが戦争の悲惨さをリアルに受けてきたわけではないが敗戦後の悲惨さはある程度感じてきた世代だ、
その後奇跡的な復活をしたがその一因に朝鮮戦争が寄与したことは間違いない、
日本の繁栄の陰で朝鮮半島に行き亡骸となって日本に戻ってきたアメリカ兵が多数いる
ベトナム戦争でも同じような事が続いていたが世界的にはアメリカの覇権主義は今度は中東戦争に向かう、
アメリカは兵器産業が大きな規模を締めているのでマッチポンプで兵器輸出は国が潤うのだが日本は敗戦国条項と9条の箍もあって二次的な輸出産業しか恩恵は無い
この中でなんで「ロシアと戦争をして北方領土を取り返す」ととられる発言をしたのか
これが東大経済学部をおりて国家公務員一級と言う「高級国民」の中身である
クイズ番組で不愉快な感じを嘆いているレベルではないな
免職のレベルだ

悲惨な事故と安易な運転免許

2019-05-13 14:59:31 | 雑記
南牧村でマイクロバスが運転手が離れた後走り出して谷に転落したと言う、
最近の車に関するニュースは私が免許を取った時代からすると「なんで?」と言う事が非常に多い、
一番はやはり「ブレーキとアクセルの踏み違い」だがこれはもう本当に理解できない事象だがおそらく「オートマチック」車しか乗らないせいだと思う、
マニュアル運転は常に左右の足を使う、発停止はクラッチペタルとアクセル、停止はブレーキとクラッチペタルを使う、
無論急停止の時はブレーキを全力で踏んづけるがクラッチも踏まなければエンストをする、
これは考えて行うのではなく運転と言う行為で反射的に行っている事で(危ない!ブレーキを踏まなければ)と踏んでいるのではなく危険を感じたら反射的にアクセルに乗せている右足はブレーキに行く、
岐阜の園児巻き添え事故も突っ込んだ女性はブレーキを踏まずに「ハンドルを左に切った」と証言しているようだし実際にブレーキをかけた形跡はないそうだ、
免許証をとったときに教習で言われたのは「ハンドルで逃げるな、ブレーキを踏め」だった、
自分が行った教習所は江戸川区にあったが当時は確か20教程程度だった筈で仮免許が取れると道路教習になるのだが最後の協定に中川放水路の堰堤道路を使って「パニックブレーキ訓練」をやらされた、無論教習所での教科にはない運転で実質道交法違反なので教官が単独でやっていたのだろう、
道幅はおそらく6m程度で海に向かって緩やかにカーブをしている、どこにも通じていないので車は入って来ない
此処を時速40㎞程度で走らせてまっすぐのところで急ブレーキを踏ませるのだ、
今考えればスピンすれば川に落ちる大変危険な運転だが一回だけだが大変役に立ったと思う、未だ東名高速道路は出来ていない頃で教官は「これから100kmくらいで走る事が始まるがそこで急ブレーキをかけると言う事をしなければならない」と言ってこの訓練を入れたそうだ、
当時の教科は「学科」「実技運転」の他に「構造」という試験があった、
クラッチの役割、エンジンの構造と動き、サスペンションとショックアブソーバの関係等々でこれも大変役に立った、
と言うのも当時の車はしょっちゅう故障するのだ、パンクは当然、エンジンが突然止まるとか、止めたら掛からないとか日常茶飯事に近い、
構造が解らないと途方に暮れる事になる、何しろ携帯電話なんぞは無く公衆電話もそんなに立っていない、
あるころから「構造」が消えてある時入社してきた20代の青年が「車が止まった」と電話してきたことが有る、
いろいろ聞きだしてどうやらオーバーヒートの様だ、水温計も見ていないのかと思いながら「ラジエターの水を見ろ」と言ったら「ラジエターって何ですか?」と来たものだ、
大抵始業点検で水の量は見ておかなければならないがまあ面倒なのでやらない事もある、
しかし「ラジエターが解らない」のでは車の乗る資格は無いと思うのだが「教えてくれなかった」と言うので聞いたら「構造は無い」と言う事だった、
キャブレターのオーバーフロー、燃料ポンプのエアだのヒューズが跳ぶなどもしょっちゅうだった、
最初の「サイドが甘かった」件だが当時のトラックのサイドブレーキはワイヤーでドラムを締めているだけなので積載が多いと滑り出す事もある、
従って大抵車止めを乗せていて傾斜地では噛ませておくのだがそれ以外にギヤはローに入れてハンドルは山側に切っておくと言うのは常識だった、
その前の軽井沢碓井峠バス事故も急坂を下るときにギヤをトップや高ギヤに入れない事はやはり常識だった、
今よりシンクロメッシュと言うクラッチが普及していないので速度が出たらギヤをダウンするのは殆ど不可能になる、
ある程度まではダブルクラッチで落とせるがそうだとしても一気に飛ばして落とせない
速度はどんどん上がってしまいブレーキは利かなくなる、
あれも構造が分かっていれば「エンジンブレーキで下る」と言う事が身につくはずである
「上るギヤで下る」と言うのが基本であるが今はオートマチックでシフトのLか2を使うのだがその意味が解らない、
タレントの竹山が「高齢者にはマニュアル免許しか渡すな」と言っていたが「自動運転限定免許」そのものが如何なものかと本当に思う、
1トン以上の物体が時速50km位で歩行者と同じ平面を走ると言う事はどういう事か理解することが免許証発行の条件になる、
当然だが同一平面にいる自転車や歩行者も理解しなければ事故は防げないだろう

天皇制は権威ではあるまい、まあなりたいと言う人はいないんじゃないか

2019-05-11 10:36:54 | 雑記
新聞の発言欄に「天皇制の本質は差別」というコラムが出たらしい
私は読んではいないが発言者は「この記事に曇天の空に日が差した気がした」と書かれ
更に「民主主義と天皇制はダブルスタンダード」だと感じた。
書かれている、
流石に「権威」と書き「権力」とは書いていないので現行の天皇制には権力がない事は理解しているとは思うのだが「権力」が存在しない状態で「ダブルスタンダード」だと言うのは少々理が通っていないと思う、
ポツダム宣言で「天皇は日本の象徴」になったと言われることが多いが歴史的には「象徴」意外であったことは殆どない、
何度か実権をとろうとしたが結局果たせていない、
軍隊も持たず税の徴収権もその使途権も持たない存在だったし、政権の任命権も実質的には強要されての任命だった、
戦国時代から江戸期まで明治政府が神輿の権威を大仰にするまで、そして敗戦後の現憲法まで天皇は全く実権を持っていない、
総理大臣の任命権と言うが指名どころか拒否権もない、悪い言い方をすれば「飾り」である
卒業証書に校長先生の印が押してあるのとさほど変わらない、
「生徒を教えているのは各担任先生だから校長先生が卒業証書に判を押すのは権威主義だ」とは言うまい、
天皇制は権威ではなく歴史的文化であろう、延々と続いてきた文化を途切れさせればそれで世界的に稀有な日本文化は幕を閉じる
寺や神社と同列に置くのもはばかられるが「新しいものは幾らでもできるが古いものは作り直す事は出来ない」のだ
実害が有るわけでもないだろう、紡いできた日本の歴史文化は大事に後世に残したいと思う

風の景色

2019-05-09 09:21:50 | 昭和の頃
京浜急行で金沢八景付近、なんとなく目を上げたら削り残った様な小高い処の木が風でなぎいていた、
(風があるな)と思いながら遠い昔のことを思い出した、
生まれた処は山の中で南に下る狭い川沿いにある県道から西側に上がった処にあった、
親父が敗戦後疎開先だった生まれ故郷に自分で建てた掘立小屋で東向きに建っていた、
部屋の中から毎日見ていた川向こうの山は背の低い雑木の山で風が吹くと漣のように葉が裏返ってゆく、
冬の木枯らしの時期は枯れ木の山の風は音である、
春先にその枯れ木の中に白い花が咲く、山桜はやはり花が咲きに開くのだ
そしてぶわっと言う感じで若い緑の葉が一斉に伸びてくる、
この頃も素晴らしいのだが木の葉が夏色になって濃い緑色になったころ初夏に吹く風が音ではなく葉裏が流れて行く風景が目に見える風だった、
山の村に住んでいたのは15年、物心ついた頃から数えると11年程度か、
しかしこの年代は生き方が濃密だった気がする、
歳をとってもし余裕が出たら山を眺めながら暮らしたい気もするが実際には無理だろうな、
都会の暮らしは便利すぎる、自分では大丈夫だと言う気持ちと無理かなと言う気持ちが錯綜する
まあ、かみさんは「絶対いや!」と言っているので現実的ではないとは思うが半分くらいをそんなところで暮らせたらいいかとも思っているのだが
現実はそれどころでは無いか

子供の権利と親権

2019-05-08 09:02:06 | 雑記
今朝の新聞に「子供の拒絶で父親との同居が最高裁で決定」と言う見出しを見た、
2017年に離婚が成立した9歳の男の子は「親権が母親」(若しかしたら同居権だけかもしれない)と家裁で決定したのだが子供は母親との同居を拒否し引き取れずに横浜高裁に提訴、母親が引き取ると言う決定がなされて強制執行をかけたのだが当時9歳の子供は強硬に拒否、ひきつけるほど抵抗して執行を中止、再度最高裁に提訴して今回の決定になったと言う、
但し「子供の利益を考えると家裁の決定を順守するのが望ましいが」と言う文言がついていたらしいがこの子供が倒れるほどの拒絶をする事を執行することが彼にとって「利益」になると言うのがわからない、
どういう理由で離婚をしたかは書かれていないのだがいずれにしてもこの子は父親と暮らす事を望んだわけだからそれを強制的に引き離す事がなぜ「利益になる」のか
経済的な理由と言うのは一般的に男性有利社会だからこれは考えにくい
とすれば「子供には母親が必要だ」と言う様なステレオタイプの認識に立った判決ではなかったのかと思われるが無論詳細が解らないので何とも言えない、
父親が反社会的な立場にあるとか言う事もあるだろうがそれを「子供の将来のため」と第三者が決めつけるのは正しい判断と言えるだろうか、
今回の最高裁判決は一個人としての子供の権利を認定したと言う事だろうが何よりも子供の思いと最高裁までゆくほど親権あるいは同居を望みそれでも拒絶された母親の苦悩にも思いをめぐらすと親子関係の深さが今の希薄になったと言われる家族の絆をあらためて考えさせられる記事だった