河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

ひらめきちょうだい2(加筆あり)

2020-12-10 02:45:00 | 絵画

丁度、一年前に「ひらめきちょうだい」と記事を書いた・・・らしい。その時の感想を書くようにGooBlogが催促したので、その元原稿を覗いてみた。書いて、その後の経緯は、そこに書いた「ひらめきをもらった」と「海賊金時丸」と題して、思い付きのイメージをA4のコピー紙にプロットを描き残して、そのまんま目の前の壁にピンでとめて一年間放置している・・・この体たらくは。

要するに、モチベーションとなるイメージから完成を目指して、構想画としての内容に、また絵画性にデスティネーションが見えないと「えい!!やぁー!!」と始まらない。何とも気まぐれで終わりそうだが・・・胡粉を塗った板地まで用意されているのに、イメージを固定する「ペン画」が進まず、うすい鉛筆でなぞった下描きがまでで終わっている。

それ以外に描きくさしの作品がいっぱい書斎に溜まり始めて、自分にとって絵を描くことが神聖であるはずだが、その行為の責任をとっていなくて自己嫌悪に陥って、結局のスランプを作っているのだろう。

こうして言葉で色々言うのは「観念アート」を信奉する者たちと何ら変わりはない。作品が出てきて目の前で完成のイメージの世界に寿分からして引き込まれない限り自己満足はない。

昨日から「ウン子たれ」の子猫の始末で玄関の踊り場、二階の踊り場のウン子を片付けるのに随分な労働をしたが、二時間後にまた新しくやってくれた。がっかりだ。客間の簡易ベッドにもウン子。ティッシュの箱にもオシッコ。多頭飼いの結果ではなく、たった一匹の子猫による反乱なのだ。彼は私のストーカーで、私をいつも観察し、庭に出ればもうすぐに横にいるし、食事時には真っ先に一口目を他の子から奪ってでも優先的に生きようとしている。そして私がテレビでも見ようものなら膝の上に乗り、自己主張する。私の頭の中に占有する記憶を残そうとしている。私の人生は彼によって支配され続けるだろう。

こういう時誰か女性が傍にいて気持ちを和ませてくれたらと思う。

私の人生の失敗は「自分の我欲の強さで、パートナーと気持ちをシェアできなかった」ことだろう。見合いをしても、目の前に素敵な女性が居ても、その人を幸せにする自信もなかった。昔、「天殺界」(四柱推命に近い)と言う占いで、何時結婚するか調べたら、何時するのか時期が出てこなかった。その占いによると、時期が出てこない人は「結婚しない人」のだそうだ。そして「結婚しない人」はその分、何かを達成するために人生を使うのだそうだ。

はたして私はそれに該当するのだろうか?

自ずと「死生観」が主題の人生になってしまったのは、何となく理解できるが。

もう残された時間はあまりない。