9年前、Iターンでこの島根県浜田市にやって来たが、住んでみて今更に嫌になる冬が来た。ここは日本海に面していて、冬場の天候は日本海沿岸の北陸や東北、北海道の西側の沿岸の町に当然のようにある冬の西風で気持ちも萎えてしまう。
家に閉じこもって絵を描けばよいと思われるだろうが、家の前は直接日本海の海。昼夜の区別なく西風が吹く冬には海鳴りと波が岩場に砕け散るたびに起きる震度一ぐらいの振動が絶え間なく、家も揺れる。家の後ろの徐目に当たる風は風きり音で気持ちを悪くさせる。
今日も波が6mはあり、家の地所が直接海に接しているという状況から、もし大波の浸入を防いでくれる波止がなければ、家の庭に立っていて波しぶきを直接被るだろう。庭に駐車していた以前乗っていたハイエースは塩害の錆で真っ赤になってしまって、別に新しく購入した二代目の為にイナバの駐車屋も5年にして真っ赤の状態。(72万円払った車庫)
今日の風は強く、帽子をかぶっても飛ばされる。庭の木もしばしば風で折れる。隣の水産高校に設置されたカーブミラーが風で曲がってよそを向く。この風の中帰って来ない猫が何匹かいる。家の中は24時間石油ストーブで暖房されているが、隙間風で16~17度がせいぜいだ。外はもっと寒いから、子猫がストーブの前を占拠して寝ている。外で寝るようになった我が家の家猫のために夕方にはカリカリをやりに出かけるが、冬場はきつい。カリカリも飛ばされるのだから・・・・その場でしばらく番をして見てやる。座るとコンクリとが冷たいから座布団も持参して、スマホを見ながら付き合う。また明日もみぞれか雪かふるらしい。
先ほど車のタイヤをスタッドレスに交換してもらった・・・このところ朝から晩までタイヤ交換らしい。
私の家には冷蔵庫が3台ある。今時、冷蔵庫が2台有る家は珍しくもあるまいが、我が家は独身だからなぜそんなに食料が必要かと言われると・・・一部は魚釣りの餌が入っていますって。まあいずれにせよ、もう入れるところがないほどパンパンに食料が入っていて・・・中にはここ何年も入れっぱなしのものがあって、腐ったものも入っているが・・・正月まで十分に食べ物はあるから、買い物に出かけることもなかろう。そうなると猫の世話と自分の世話、そしてお絵かきと・・・きりが良くなるのでは。
しかし寒いのは暑いより苦手だ。体を丸めて閉じこもるような姿勢は全てがネガティブに思える。寒さをテーマに絵が描けるかも・・・寒いは暑いより死に近いかも。
1970年代の後半をドイツで過ごして、当時の寒さは、近年の温暖化の時期と比べられないほど寒かった。ニュールンベルグでは下宿から研修先のゲルマン民族博物館までのほんの1kmに満たない距離でマイナス20℃で歩くのに死ぬかと思った・・・なんせ防寒具はベルギーで買った安物のアーミーコートだけだったから・・・その後の西ベルリンでの生活もマイナス25度を経験した。その日は朝からポーランドの連帯がデモを仕掛けたというのでワルシャワに戒厳令が敷かれて、ベルリンがかつてあったように封鎖(ベルリン封鎖=陸の孤島にされ、空輸のみで食料を連合軍が調達してくれた事件)があり得るというので、アメリカ軍の戦車が町の要所要所に配置された。私の下宿は東ドイツとの国境の壁からほんの200mくらいのところだったので、戦車を真直に見た。家ほどもある鉄の塊が動くさまを無言で目をおっぴろげて見送る・・・コンクリートの道路から体に伝わる振動は恐怖心に変わった。戦車は交差点の要所に国境側に大砲を向けて斜めに停車。中から戦車兵が体半分・・・暖房もない戦車から周囲をにらんでいた。あれを思い出すと「寒さなんて!!」と・・・いやいや寒いものは寒い。
その日の午後三時に国立図書館での研修を終わって帰宅するに、バス停の外気はマイナス15度であった。これ以上気温が上がることはなかった。ベルリン市民が着ている様な温かい服は持っていなかったから、今考えると画学生の延長は貧めしと貧服であった。
そうそう、ベルリンには下宿の暖房は17度以下にしてはいけないという法律があって、下宿人は守られていた。このドイツでも生活に慣れて帰国した時には日本の暖房が熱くて仕方なかった。
いずれにせよ今の住まいは寒すぎる。西風、北東風が嫌だ。南風は海波も穏やかにし、温かく感じる。瀬戸内側に住めばよかった。今思っても山陽新幹線の新山口駅の近くが良かった。近くにイオンがあってちょいと車で行けばビックにトライアルもあり宇部空港も20ばかりで行けて、駐車場もタダだ。
まあ、今はコロナでどこにも行けないけどね。
また、愚痴を書いてしまった。