何か信じるモノが無いと、人は死ぬかもしれない。
それは「家族」であったり「神」であったりする。私は何度も宗教に転んだ。その前は民主主義と言う亡霊に心を寄せて、機動隊と戦った。その当時「民主主義」は無かった・・・と言うのが最近になって納得のする経路を理解した・・・それは当時の政権は「民主主義」を目指さず、反共主義に偏って、当時の岸首相からして隣に「勝共連合」という統一教会に操られた政治が行われていたということが「改めて分かった」からである。
当時の私は共産主義でも反共産主義でもなかった。ただ「人が人足り得る」人生を獲得したいと思っていたからである。その「人」とは「唯我独尊」というお釈迦様の言葉で説明される「自分」のことである。
その自分が信じていられる「思想」「信頼できること」「感覚」などが普遍にある事で「安心」していられる。もし、それらの大事なことが一つ一つ失われて行くと、人は「孤独」を強く感じるようになる。この「孤独」が巨大化すると、人は独りで生きているのが辛くなる。支えが失われてしまうのである。
命の危険が迫ると、人は「神様助けて!!」とか「お母さん!!」と最後の頼みをしてしまう。しかしもうそれさえ感じ得る「気」が無くなったら、人は「死」を選択する。
私も一度、そうした「気」を失って下宿の二階の窓から飛び降りようとしたことがある。ただ「二階」であったから・・・「気」を取り戻して「気」が付いて・・・「なんて馬鹿なことを!!」と後で笑った。生きていて良かった。それが五階建ての窓からだったら、今は無かったかも知れない。死ぬ行為は後で取り返しがつかないから、もしその時「気」が付かなければ今日はない。
その時、自分に欠けたものを探し始めた。それは「信じれるもの」であった。
何も身近に無い人は「神」を選んでしまうかもしれない。今日、宗教で問題を抱えている人たちは、手短に「信じるモノ」が「神」であったのだろう。私も何度も色んな宗教に出かけて、結局家に引きこもった。自分の問題解決に繋がらなかったからである。
もし宗教に身をゆだねていたら、今の自分はない。「唯我独尊」と言う自分だ。「自分は貴い存在だから大事にしなさい」と言った釈迦は「個人主義」を教えたのだろう。同時に個人主義には「個人責任」を伴い、行為の結果は己が故であることを教えている。
これを私は「論理的合理主義」と呼んで、物事には「筋」があるから、「情緒」で判断せず「論理性」で自分のモノにできるようにしている。
もし、また死にかけることがあれば「自分」のために死ぬだろう。つまり・・・最期までのたうち回って自分でいるということ。そうすると未練たらしく生きているだろうってこと。