河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

絵を教えることⅡ

2023-07-12 22:53:14 | 絵画

絵を描くときにビギナーは大方同じ傾向で、一つの方向に行ってしまう。それは「形」が不正確で「見えたまま」と言えないこともないが、それは感覚的に当人にとっての結果である。見方によっては、すごく「魅力的な形」を生み出していることもある。だから最初に描いたデッサン(紙一枚、鉛筆一本)は大事に保存して置かねばならない。

絵を教えると、この最初の「感性」は失われて、もったいない時もあるが、後日、いろいろな表現ができるようになってみると、それは有り難い参考資料だ。そしてそこにある形は当人の意匠特許権のあるものかも知れない。

私が絵画教室の先生に成ったら、まず「紙一枚、鉛筆一本」の意味を教えて、想像の中から出てくるものが何かを感じて大事にすることをしえる。それから「絵を描くとは」何なのか・・・結果を求めると「昔の巨匠たちは能力を競った」ことを教えよう。そして「物」を描いてみようと。それは当人にとって、「今一番描きたい物」でないといけない。それは選ぶという「選択の決定」であり、描きたいという「欲」を紙の上に可視化できるようにすることだから。

これを描きなさいというのに従っていたら、何時まで経っても絵にならないだろう。

知識は年の衰えとともに失われるが「感性」はいつまでも磨ける・・・・それは楽しい。

これはそうした楽しみを混乱させる話だが、オーギュスト・ルノアールと言う画家をご存知だと思うが、晩年彼は手がリュウマチになって、普通に絵が描けなくなったと言われている。が、彼が晩年描いたとされる絵はあまりにひどくて・・・・下手くそで・・・困るのだ。何で困るかって??!!いやー!!彼の作品には贋作が多いのだ。晩年の作品は偽物を描き易くできているので、さらに手が自由に動かなかったと・・・言い訳されて・・・偽物が大量に出回っているのである。それが有名な画家だと・・・作品も高価に売買されていて・・・。実は西洋美術館の収蔵庫にはレベルに達しない贋作がある。さる自民党の衆議院議長をやられたかたからの寄贈で・・・・「いやーーありがとうございます」と言うのが一応善意の行為を否定しないマナーであったもので・・・。

他にも名古屋市美で開催したルノアール展でひどいのを見た。絵具の付け方が子供のレベルで、形もはっきりしないし、正直なところリウマチになるとそうなのか、認知症になるとそうなのか・・・其処に付け込まれた贋作なのか・・・あんまり言わんとこ!!

自分に跳ね返ってくるかも。


絵を教えることⅠ

2023-07-12 15:56:34 | 絵画

他人に何かを教えることは大変である事は、美術館時代に経験した。茨城大教育学部に東京芸大絵画科大学院にせよややこしさが一杯。私が受けた教育は、いまだに小中高の学校教育では教壇に立った教師が教科書を解説しておしまいだ。半世紀以上だ。同じく韓国では小学校から反日教育を行っているそうだ。こっちは戦後以降だからもっと長い。いくら「継続は力なり」と言っても、これはちょっと違うだろう。

やはり相手は一人一人違う人間で、その人の個性で考えないと教育効果は薄いだろう。つまり一人一人生きている時間の感覚が違い、見えている物の理解も違うから・・・・相手に、この国特有の「同調性」「集団の価値観」を押し付けることになるだろう。しかしそれは場合によっては考え過ぎで、甘やかしていることもあるだろう。余計に言いたいことが伝わらずに、相手が立場をワキマエナイこともある。自分が確立していない状況では人は自分の立場も能力も良く分からないまま、教える者と接していることもある。この国では「お金を払っているのだから客だ」「お客様は神様だ」と考える者いるから・・・。しかし別に学費も払わず教えてもらっても、同じように思う若い者もいるから・・・・・人は選びたくなる。

一応、人は選ばないのが私の主義だ。誰でも同じに扱う。しかし絵を描くことを教えるとなると「言葉の理解能力」「感性」の違いに対応の違いが生じるだろう。

面白いことに、素人つまりビギナーは皆同じような絵の描き方をする。「立体感無し」「大雑把」などは日頃からの物の捉え方だと言えるだろう。

「紙一枚、鉛筆一本」から始まり、いきなり天才はいないから心配いらない。しかし「目の中にウロコが付いている」から、これを剝がさないといけない。ほっておくと時間の無駄だ。とくに若い受験生やプロになろうとする者は、このウロコ取りを大切にしよう。将来は「唯我独尊」だから。