2月8日は、関東甲信越は大雪になりましたね。北信は南岸低気圧で所謂上雪(かみゆき)なのにパウダースノーで、しかも吹雪でした。ほぼ一日中降り続いたので、何度も雪かきをするはめになりました。しかもご近所は、老人の一人暮らしだったり、男手がなかったり、あっても仕事で出ていたりと雪かきができない家もたくさんあります。そんな時はお互い様なのでできる私がフル回転。ほぼ一日中雪かきをしていました(笑)。斜め裏の丸いUお婆さんも頑張っていました。向こう隣の野草好きのTおばさまも、頑張っていたようです。でも言ってくだされば、お手伝いしますのに。彼女の娘さん(美人で笑顔の可愛い女性)は、暮れに鬼籍に入った父に取材して卒論をしたためたのですが、彼女の論文は日本民族学会に概論が掲載されるほど素晴らしいもので、この集落の宝です。その情報を提供した亡き父も凄いと思うのです。いずれ詳しい話を聞かせてもらおうと思っています。最もローカルなものが、実は最もインターナショナルであるという言葉があります。上っ面な国際化は、世界を支配したいグローバリストの陰謀でしかないという言質は厳に心に留めておくべきです。
翌日は晴れましたが、夜半にまた降ったようで、しっかり10センチほど積もっていました。しかも吹雪いたので均一ではないのです。特にうちの裏は酷いものでした。裏の家は男手がないので私が朝食後に雪かきをしました。隣はお婆さんの一人暮らしで裏まで手が回らないので、そこも。昨日と違って湿雪なので往生しました。写真の様に、車が通れる幅を確保しないといけないので大変です。昔は真ん中に人が歩けるだけ50センチ幅に雪かきをすればよかったのですが・・。うちの前のNさんは、近所でも有名な雪かき名人で、それは奇麗に雪かきをするのです。彼を師匠に私も完璧な雪かきを目指しています。ハイ。
雪かきを終えて、畑へハウスの屋根が大丈夫か見に行きました。吹雪のためほとんどが飛んでいて一安心。内輪のおばさんがガレージの雪かきをしていました。年寄りや女ばかりだから、そういう風に助けてもらえるといいねと。まあ困った時はお互い様ですし、遠くの親戚より近くの他人ていいますからねと。これがご近所付き合い。隣家というものです。小さい頃は、本当に皆に可愛がってもらいましたから。ご近所のお爺ちゃんお婆ちゃん達には、感謝しています。もう亡くなられた方が多いですけど・・。最近、私は縁というものを考えます。この出会いは誰が導いてくれたのだろうと。そう考えると、この広い地球での人との出会いを大切にせずにはいられないと思わずにはいられないのです。但し、ここには運命論やオカルティックな意味合いは微塵もありません。水の流れにどう身を委ねるか、はたまた泳いで小石を投じるほどのゆらぎを見せるか程度のことなのですが。そこに思いやりと感謝の気持ちがあれば、間違うことはないと思う様な些細なことです。
写真左の枯れたのは、春掘りの長芋です。越冬長芋は、甘みが増して濃厚で美味しいのです。遠くの山は、金井山ですが、その向こうは志賀高原の山々。雪雲が覆っています。道路の轍を見ると、腹をこすっていますね。積雪が40センチぐらいになると、バンパーがブルドーザーになって雪を押し集めるので、やがてスタックして動けなくなります。4WDでも同じです。今回は、シャーベット・スノーには、MTBでも無力ということは分かりました。ファットバイクが欲しい。
愛車チェレステ・アズールのビアンキで妻女山へ。高速トンネンルのフェンスに施錠して徒歩で登ります。大きな四駆の轍がありました。イノシシ狩りでしょう。でも年を越したイノシシは味が落ちるんです。途中アニマルトラッキングをしながら妻女山松代招魂社へ。夏はオオムラサキが昼寝に集まる瓦屋根も雪帽子。雪に山桜の枝のシルエットが落ちていました。ダイナミックでも珍しくもないけれど、この季節にしか見られない何気ない美しい景色です。私は近眼でも老眼でもないのですが、酷い乱視で複数の眼鏡がないとまともに物を認識できないのです。今回もポリカーボネートの保護眼鏡をして、乱視用眼鏡を忘れたために、撮影には往生しました。どんな美人とすれ違っても分からないのです。やれやれ。
その後長坂峠まで登ろうかと思ったのですが、冷えで膝が痛みだしたので諦めて展望台へ。展望台の階段は足跡がないので長靴で雪かきしながら登りました。手前の桜の枝に雪がないのは、パウダースノーでしかも吹雪だったから。無風で湿雪なら、夜に結氷して樹氷になります。手前に見える集落も、その向こうも、昭和30年代は藁葺き屋根ばかりでした。屋敷の中にもたくさん梅や杏の木があって、春になるとそれは奇麗でした。梅雨明けの季節には杏が鈴成りになり、採りこぼれた杏が道に落ちて、集落の中は熟れた杏の匂いで満たされました。道には落ちてつぶれた杏があちこちにあって、濃厚な匂いを発散していました。そう、巨大な鍋の中のアプリコット・ジャムに頭からダイブした様な感じと思ってもらえればいいかと思います。その在来種の杏の木も、多くが切られてしまいました・・。一枚目の写真の中央にある小屋の向こうには、集落で一番真っ先に咲く白梅があります。冬の長い信州では、この花が蕾をつけるのがなによりの心待ちでした。幼い頃、祖母に手を引かれてこの白梅を見に行ったものです。今は亡きこの家のお婆さんとお爺さん(もちろん当時は若かった)には、本当に可愛がってもらいました。
アニマル・トラッキングを試みたのですが、ニホンカモシカもタヌキもキツネもホンドテンの足跡もありませんでした。そればかりか、さえずっているのはシジュウカラばかり。アトリなど渡りの鳥が全く見られないのです。なんということでしょう。放射能じゃないよねと思いながら山を下って行くと、ソメイヨシノの枝にカマキリの卵を発見。地面から1.5mぐらい。カマキリが高い所に卵を産む冬は雪が多いといいます。当たってるじゃん、と思いました。コナラや、それにからみつく山藤の向こうに集落が見えます。今日は外出しない人も多いでしょう。でも、こんな降雪後の晴天の日は、里山観察の吉日なんです。残念ながら今日はたいした収穫はありませんでしたが。膝通がなければ奥山まで行ったのですけどね。膝のサポーターをしてくるべきでした。それと長靴の中のホッカイロ。
写真は、妻女山入り口の風景です。国道403号線から上信越自動車道のトンネルをくぐって妻女山へ登ります。スタッドレスかチェーン装備で、最低地上高が高ければ登れますが、一度溶けてアイスバーンになったらもうスケートリンクですから、スタッドレスでも無理です。毎年JAFなどの世話になる車が10台以上いるので気をつけてください。トンネルの手前に駐車して、歩いて登るのが賢明です。15分で展望台、妻女山松代招魂社に着きます。尚、現在はここが国土地理院の地形図でも妻女山と明記されていますが、本来は赤坂山といい、本当の妻女山はこの上の513mであり、本名を斎場山といいます。聞いてないよ、初めて知ったという方は、「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。をご覧ください。第四次川中島合戦については、ほとんどの歴史研究家、歴史小説家、マスコミが、根本から間違っています。
帰ろうと403号線に出ると、長電のバスが泥雪を盛大に跳ね飛ばしながらやってきました。ガードレールの左の空き地は、長野電鉄が通っていた跡です。これに乗って中学校に通いました。一時間に一本しかなくて、サッカー部の練習の後に乗り遅れると悲惨でした。空腹に堪え兼ねて、教師の目を盗んで駅前の母の同級生がやっていたラーメン屋に転げ込んだものです。この線路跡地は、サイクリングロードとなることが決定しています。楽しみです。
70年代の作家、村上春樹さんのジャズ喫茶・国分寺ピーター・キャットを中心とした「国分寺・国立70sグラフィティ」の記事を11日に久々に」アップする予定です。当時の東京は、原発がなかったせいでしょうか、よく雪が降りました。そんな日の昼は、村上春樹さんはよくペーパーバックを読んでいました。他。本当に本当に春が待ち遠しい信州です。原発が一基も動いていないとこんなに寒いのですね。70年代がそうでした。
食べて応援企業の食品や太平洋や東京湾の魚介類、汚染地のキノコやベリー類をなんの疑問も持たずに食べていると、必ずある日地獄を見ることになるでしょう。
原発に賛成していたら、愛する人は守れませんよ。核=原発は人類にとって最も反動的なもの、最大の敵です。
★妻女山(斎場山)の歴史については、「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。をご覧ください。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」などリンク記事も豊富です。
このブログでもページの右上で「妻女山」や「斎場山」、「川中島合戦」、「科野」などでブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。主に古代科野国と戦国時代、幕末から明治維新にかけての記事がご覧頂けます。
川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。関連記事のリンク集も。
翌日は晴れましたが、夜半にまた降ったようで、しっかり10センチほど積もっていました。しかも吹雪いたので均一ではないのです。特にうちの裏は酷いものでした。裏の家は男手がないので私が朝食後に雪かきをしました。隣はお婆さんの一人暮らしで裏まで手が回らないので、そこも。昨日と違って湿雪なので往生しました。写真の様に、車が通れる幅を確保しないといけないので大変です。昔は真ん中に人が歩けるだけ50センチ幅に雪かきをすればよかったのですが・・。うちの前のNさんは、近所でも有名な雪かき名人で、それは奇麗に雪かきをするのです。彼を師匠に私も完璧な雪かきを目指しています。ハイ。
雪かきを終えて、畑へハウスの屋根が大丈夫か見に行きました。吹雪のためほとんどが飛んでいて一安心。内輪のおばさんがガレージの雪かきをしていました。年寄りや女ばかりだから、そういう風に助けてもらえるといいねと。まあ困った時はお互い様ですし、遠くの親戚より近くの他人ていいますからねと。これがご近所付き合い。隣家というものです。小さい頃は、本当に皆に可愛がってもらいましたから。ご近所のお爺ちゃんお婆ちゃん達には、感謝しています。もう亡くなられた方が多いですけど・・。最近、私は縁というものを考えます。この出会いは誰が導いてくれたのだろうと。そう考えると、この広い地球での人との出会いを大切にせずにはいられないと思わずにはいられないのです。但し、ここには運命論やオカルティックな意味合いは微塵もありません。水の流れにどう身を委ねるか、はたまた泳いで小石を投じるほどのゆらぎを見せるか程度のことなのですが。そこに思いやりと感謝の気持ちがあれば、間違うことはないと思う様な些細なことです。
写真左の枯れたのは、春掘りの長芋です。越冬長芋は、甘みが増して濃厚で美味しいのです。遠くの山は、金井山ですが、その向こうは志賀高原の山々。雪雲が覆っています。道路の轍を見ると、腹をこすっていますね。積雪が40センチぐらいになると、バンパーがブルドーザーになって雪を押し集めるので、やがてスタックして動けなくなります。4WDでも同じです。今回は、シャーベット・スノーには、MTBでも無力ということは分かりました。ファットバイクが欲しい。
愛車チェレステ・アズールのビアンキで妻女山へ。高速トンネンルのフェンスに施錠して徒歩で登ります。大きな四駆の轍がありました。イノシシ狩りでしょう。でも年を越したイノシシは味が落ちるんです。途中アニマルトラッキングをしながら妻女山松代招魂社へ。夏はオオムラサキが昼寝に集まる瓦屋根も雪帽子。雪に山桜の枝のシルエットが落ちていました。ダイナミックでも珍しくもないけれど、この季節にしか見られない何気ない美しい景色です。私は近眼でも老眼でもないのですが、酷い乱視で複数の眼鏡がないとまともに物を認識できないのです。今回もポリカーボネートの保護眼鏡をして、乱視用眼鏡を忘れたために、撮影には往生しました。どんな美人とすれ違っても分からないのです。やれやれ。
その後長坂峠まで登ろうかと思ったのですが、冷えで膝が痛みだしたので諦めて展望台へ。展望台の階段は足跡がないので長靴で雪かきしながら登りました。手前の桜の枝に雪がないのは、パウダースノーでしかも吹雪だったから。無風で湿雪なら、夜に結氷して樹氷になります。手前に見える集落も、その向こうも、昭和30年代は藁葺き屋根ばかりでした。屋敷の中にもたくさん梅や杏の木があって、春になるとそれは奇麗でした。梅雨明けの季節には杏が鈴成りになり、採りこぼれた杏が道に落ちて、集落の中は熟れた杏の匂いで満たされました。道には落ちてつぶれた杏があちこちにあって、濃厚な匂いを発散していました。そう、巨大な鍋の中のアプリコット・ジャムに頭からダイブした様な感じと思ってもらえればいいかと思います。その在来種の杏の木も、多くが切られてしまいました・・。一枚目の写真の中央にある小屋の向こうには、集落で一番真っ先に咲く白梅があります。冬の長い信州では、この花が蕾をつけるのがなによりの心待ちでした。幼い頃、祖母に手を引かれてこの白梅を見に行ったものです。今は亡きこの家のお婆さんとお爺さん(もちろん当時は若かった)には、本当に可愛がってもらいました。
アニマル・トラッキングを試みたのですが、ニホンカモシカもタヌキもキツネもホンドテンの足跡もありませんでした。そればかりか、さえずっているのはシジュウカラばかり。アトリなど渡りの鳥が全く見られないのです。なんということでしょう。放射能じゃないよねと思いながら山を下って行くと、ソメイヨシノの枝にカマキリの卵を発見。地面から1.5mぐらい。カマキリが高い所に卵を産む冬は雪が多いといいます。当たってるじゃん、と思いました。コナラや、それにからみつく山藤の向こうに集落が見えます。今日は外出しない人も多いでしょう。でも、こんな降雪後の晴天の日は、里山観察の吉日なんです。残念ながら今日はたいした収穫はありませんでしたが。膝通がなければ奥山まで行ったのですけどね。膝のサポーターをしてくるべきでした。それと長靴の中のホッカイロ。
写真は、妻女山入り口の風景です。国道403号線から上信越自動車道のトンネルをくぐって妻女山へ登ります。スタッドレスかチェーン装備で、最低地上高が高ければ登れますが、一度溶けてアイスバーンになったらもうスケートリンクですから、スタッドレスでも無理です。毎年JAFなどの世話になる車が10台以上いるので気をつけてください。トンネルの手前に駐車して、歩いて登るのが賢明です。15分で展望台、妻女山松代招魂社に着きます。尚、現在はここが国土地理院の地形図でも妻女山と明記されていますが、本来は赤坂山といい、本当の妻女山はこの上の513mであり、本名を斎場山といいます。聞いてないよ、初めて知ったという方は、「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。をご覧ください。第四次川中島合戦については、ほとんどの歴史研究家、歴史小説家、マスコミが、根本から間違っています。
帰ろうと403号線に出ると、長電のバスが泥雪を盛大に跳ね飛ばしながらやってきました。ガードレールの左の空き地は、長野電鉄が通っていた跡です。これに乗って中学校に通いました。一時間に一本しかなくて、サッカー部の練習の後に乗り遅れると悲惨でした。空腹に堪え兼ねて、教師の目を盗んで駅前の母の同級生がやっていたラーメン屋に転げ込んだものです。この線路跡地は、サイクリングロードとなることが決定しています。楽しみです。
70年代の作家、村上春樹さんのジャズ喫茶・国分寺ピーター・キャットを中心とした「国分寺・国立70sグラフィティ」の記事を11日に久々に」アップする予定です。当時の東京は、原発がなかったせいでしょうか、よく雪が降りました。そんな日の昼は、村上春樹さんはよくペーパーバックを読んでいました。他。本当に本当に春が待ち遠しい信州です。原発が一基も動いていないとこんなに寒いのですね。70年代がそうでした。
食べて応援企業の食品や太平洋や東京湾の魚介類、汚染地のキノコやベリー類をなんの疑問も持たずに食べていると、必ずある日地獄を見ることになるでしょう。
原発に賛成していたら、愛する人は守れませんよ。核=原発は人類にとって最も反動的なもの、最大の敵です。
★妻女山(斎場山)の歴史については、「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。をご覧ください。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」などリンク記事も豊富です。
このブログでもページの右上で「妻女山」や「斎場山」、「川中島合戦」、「科野」などでブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。主に古代科野国と戦国時代、幕末から明治維新にかけての記事がご覧頂けます。
川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。関連記事のリンク集も。