モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

あんずの里、森の古刹をめぐる小春日よりの週末。観龍寺、禅透院、興正寺、岡地天満宮(妻女山里山通信)

2021-11-21 | 歴史・地理・雑学
 小春日よりの週末、あんずの里、千曲市森の古刹巡りをしました。来週は天気が崩れ初雪もあるかもしれません。この冬はラニーニャが発生しているので厳冬になるそうですが、晩秋は暖かい日が続きました。それも最後になりそうです。この地は、近くに森将軍塚古墳がある様に、古代科野国の頃から、縄文弥生の頃から人びとの暮らしが営まれてきたところです。

 まず、観龍寺へ。坂上田村麿が東征の際の草創で、川中島合戦の時には、山陰に隠れるようにあったため武田の戦火を免れたという古刹、信濃三十三番札所第六番「洗渕山観龍寺」。本尊は、藤原初期のものといわれる榧(かや)の一木造り十一面千手観音菩薩座像。今年の4月1日のあんずが満開の記事では茅葺きでしたが、銅葺きに改修されました。ここには母方の祖先の絵師の絵が奉納されています。ここから大峯山への登山ルートは拙書で紹介しています。

 本堂の天井には、地元の人達の書や絵が奉納されています。レベルの差はありますが、子供が描いた絵もあって微笑ましい。

 寺の駐車場からあんずの里の眺め。ここからの満開のあんずは毎年撮影します。拙書の大峯山のページにも掲載しています。やや右手に見える巨木はケヤキです。千曲市が舞台の映画『ペルセポネーの泪』にも登場します。主演は渡部秀、剛力彩芽。観に行くつもりです。
信州のあんずの里が満開です。桜も満開。こんなことは初めての杏源郷(妻女山里山通信)2021年4月1日の記事です。杏源郷

 山際の周遊道路を右回りで上平展望台へ。遠くに見えるのは茶臼山。くっきりと晴れていれば北アルプスも見えるのですが。

 神龍山禅透院へ。曹洞宗佐久郡前山村貞祥寺末派で、弘治元年(1555)創建。境内には在来種のあんずの木があり、満開のときはそれは見事です。森は松代藩の領地だったので、その庇護のもとにありました。

 本堂の裏手にある銀杏の大木。美しく黄葉しています。銀杏はたくさん食べると体に悪いので数粒を。

 鐘楼の横にあるサンシュユ(山茱萸)の真っ赤な実。やや固くて酸味があります。滋養、強壮薬として、寝汗、頻尿、インポテンツ、脚気などに用いるそうです。これで薬種を作るといいかもです。

 あんずの黄葉。暖かいので、まだ緑色の葉もあります。

 母方の祖母の菩提寺の大城山興正寺へ。興正寺は、浄土宗西京大谷知恩院の末派で、創立年は不詳。

 鐘楼手前の五葉松。母の実家にも見事な五葉松があり、その昔に1000万円で譲ってくれという人がいたとか。もちろん売りませんでしたが。その子供が我が家の庭にも植えてあるのですが、なにせ充分に手入れもしていないもので…。時間を作って剪定や姿造りをしようとは思うのですが。

 興正寺といえば山門の子持ち龍。天才・立川和四郎富昌の作。一見の価値があります。和四郎富昌は八幡の武水別神社の再建中でした。そこで、森出身の弟子・宮尾八百重を案内役に住職、世話人、名主らが建築現場に赴き建築を依頼。引き受けた富昌は三月頃から、父富棟が寛政二年(1789)に建築した善光寺大勧進の表御門形式を参考に絵図面を制作。四月には八百重の家に投宿し近くの薬師山に登って酒宴を催し、満開の杏花を愛でたといわれています。夜は篝火の下で鼓を鳴らし謡曲の「鞍馬天狗」を吟じ、見事な龍を描き上げ、村人や近郷近在の話題をさらい、村では日本一の宮大工が来たと喜んだそうです。左右にある波の彫刻は、葛飾北斎の影響を受けたものともいわれていますが見事です。

 彼の木彫は、京都御所の建春門の「蟇股(かえるまた)の龍」、遠州の「秋葉神社」、諏訪の「諏訪大社下社拝殿」、善光寺大勧進御用門「江梁の龍」、松代町西条の白鳥神社の「神馬」などがあります。また、千曲市市屋代の須々岐水神社にも富昌の作があります。生き生きとした龍の親子に見惚れます。

 山門の脇にある枝垂れ桜。満開のカットは毎年このアングルで必ず撮影します。しかし、毎回少しずつ違うのです。あんずや桜が満開の記事は、毎年4月のアーカーイブをご覧ください。

 次に薬師山の展望台へ。ここからのカットも拙書には載せています。右奥の煙が立つ辺りは、山の上の方まであんず畑があり、絶好の撮影ポイントです。70年頃は、多くが藁葺き屋根でした。あんずも在来種が多く、現在の満開の風景とは趣がまったく異なるものでした。

 左に目を向けると、先日登った鞍骨城跡のある鞍骨山。高圧鉄塔から右が城内となります。

 最後に訪れたのは、岡地天満宮。この神社には、菅原道真の木像と、法華経妙荘蔵王品一基が所蔵されていますが、菅丞相書『法華経並びに親作木像記』によると、どちらも菅原道真自作・真筆のものと伝えられています。岡地に安置されるようになった経緯は非常に複雑です。もともとの所有者は、江戸城を築城した太田道灌(「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ哀しき」の逸話で有名)が足利学校で学んだ折りにもらい受けたとされています。ただし、道真公からどういう経緯を辿って足利学校に所蔵されるようになったかは不明です。
 第四次川中島合戦の折に、ここ岡地には観音堂の大伽藍があったそうですが、戦火のために焼失したと縁起には記されています。その後、湯島天満宮に納めようとしたのですが、不慮の変があり果たせず、徳川家康の手に渡り、三代将軍家光へ、さらに幕府の官医であった土岐長庵の手に渡ります。土岐長庵は松代藩の真田家と懇意だったようで、真田家の菩提寺の松代長国寺(曹洞宗)に遺贈されました。更にその後しばらくは、松代の長国寺にあったとあり、長国寺十七世千丈寛厳和尚が千曲市森の岡地に華厳寺を開いて隠住したとき(1785年)に森の岡地に天満宮を造って安置したのが始まりということです。

 幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」。富棟(富昌の父)の名声を世に広めたのは、1781年(安永10年)建立の諏訪大社秋宮です。またここ岡地には、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかり材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。

 かの高名な歴史研究家、米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像「天部」(右)と「如意輪観音」(左)。【参考文献:「岡地探訪 乙路の県 天満大自在天神とその周辺」発行:岡地天満宮 H19.4.1】

 アオツヅラフジ(青葛藤)の青い実。鎮痛,利水作用があり,関節の水腫や疼痛などに用いる落葉つる性木本です。薬になるということは有毒でもあるということです。このつるは籠を編むのに最適な様で、妻女山にご婦人たちが探しに来たこともありました。
「駿河の海 おしへに生(お)ふる 浜つづら 汝(いまし)を頼み 母に違(たが)ひぬ」東歌
(駿河の海に生えている浜つづらのように、長くいつまでもそなたを頼りにしていて母と仲違いしてしまった)


 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする