色々忙しく、なかなかゆっくりと山へフィールドワークに行けない日々が続いています。買い物帰りに妻女山展望台へ寄ってみました。晴れていますが寒風が冷たく、気温は7度ぐらいですが、体感気温は1度ぐらいでしょうか。寒かったです。
北アルプスは、鹿島槍ヶ岳も白馬三山も稜線が雲の中で、中腹しか見えませんでした。相当荒れている感じです。戸隠や飯縄山方面は雲こそありませんが、やはり風は強そうです。写真手前の一番右にクレーンが見えますが、長野パルセイロのホームスタジアムの建設が急ピッチで進められています。完成の暁にには、ここ妻女山までサポーターの大声援や歓声が届くことでしょう。古いスタジアムでも、試合の時は太鼓の音やチャントの歌声が妻女山どころかその上の陣馬平まで聞こえていましたから。
招魂社の裏では、やっと梅が咲きました。遅いです。去年は4月8日に森の杏が満開でしたから。キブシの花も咲いていましたからね。やはり、あの大雪のせいでしょうね。この梅ですが、実は老梅で、ほとんどが昨冬と今年の大雪で折れて倒れてしまいました。昨年は倒れながらも咲いていたのですが、今年はさすがに枯れ木のままでした。ここは集落のある旧家の梅園なのですが、もう何十年も放置されたままです。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿と云いますが、梅は剪定をきちんとしてやらないといけないのです。
その梅園の斜面には、オオイヌノフグリが咲き乱れていました。オオイヌノフグリというのは、大きい犬の金玉という意味ですが、だれがこんなふざけた名前を付けたんだろうと思って調べたら、本来のイヌノフグリに対してつけられたようで、由来は、果実の形状が雄犬のフグリ、つまり睾丸・陰嚢に似ていることからかの牧野富太郎が命名したんだそうです。イヌノフグリは、オオイヌノフグリのせいで絶滅の危機にあるようです。オオイヌノフグリは、ヨーロッパ原産の帰化植物で、1887年に東京で定着したことがわかっています。別名、瑠璃唐草・天人唐草・星の瞳で、花言葉は「信頼」「神聖」「清らか」「忠実」と大犬の陰嚢とは似ても似つかぬ可憐な名前。牧野富太郎氏は、命名のセンスがあるのかないのか、よくわからない人です。右は、ミヤマウグイスカズラの蕾。この花のシーズンは長いです。ルビー色の実は小さいけれど甘く、昔は里山に遊びに来る子供たちのいいおやつになりました。今の子供たちは里山に来ないので知らないでしょうね・・。
時間もないのでそそくさと山を下りるついでに我が家の山へ。私が移植したヤブカンゾウと貝母(編笠百合)を見に行きました。ヤブカンゾウは、畑に移植したものより大きくなっていました。少し摘んで豚バラと白菜の塩麹蒸しに入れることにしました。おひたしやぬた、天ぷらでも美味です。また、蕾は天ぷらや中華炒めに。中華食材では金針菜といって結構高い食材です。ノカンゾウは花が一重、ヤブカンゾウは八重で少し大きめ。ニッコウキスゲも仲間です。貝母は、中旬過ぎからゴールデンウィークにかけて見頃になると思います。
久しぶりに展望台から東の松代の風景。根子岳と四阿山は、まだ真っ白ですね。写真では分かりませんが、手前のソメイヨシノの花目は結構膨らんできました。山桜はまだまだですが、松代の向こうの東条のあんずの花は、そろそろ開花するでしょう。4月中旬から5月上旬までの短い間、信州は桃源郷になります。
お終いに、前回の記事で触れた立川流の名作に触れます。写真は「惣金厨子」といい杏で有名な千曲市森の岡地集落の「岡地天満大自在神社」にあるものです。伯父(故人)がその天満宮の歴史を調べ本を自費出版しているので、そこから引用させてもらいます。この神社には、菅原道真の木像と、法華経妙荘蔵王品一基が所蔵されていますが、菅丞相書『法華経並びに親作木像記』によると、どちらも菅原道真自作のものと伝えられています。
岡地に安置されるようになった経緯は非常に複雑です。もともとの所有者は、江戸城を築城した太田道灌〔「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ哀しき」の逸話で有名〕が足利学校で学んだ折りにもらい受けたとされています。ただし、道真公からどういう経緯を辿って足利学校に所蔵されるようになったかは不明です。
第四次川中島合戦の折に、ここ岡地には観音堂の大伽藍があったそうですが、戦火のために焼失したと縁起には記されています。その後、湯島天満宮に納めようとしたのですが、不慮の変があり果たせず、徳川家康の手に渡り、三代将軍家光へ、さらに幕府の官医であった土岐長庵の手に渡ります。土岐長庵は松代藩の真田家と懇意だったようで、真田家の菩提寺の松代長国寺(曹洞宗)に遺贈されました。
その後しばらくは、松代の長国寺にあり、長国寺十七世千丈寛厳和尚が千曲市森の岡地に華厳寺を開いて隠住したとき(1785年)に森の岡地に天満宮を造って安置したのが始まりということです。つまり、この天満宮は数ある全国のお天神さんの中でも、かなり由緒あるものだということなのです。
現在では華厳寺は檀家も途絶えて廃寺となり、天満宮だけがあります。天満宮には、かの郷土史家で考古学者の米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像があります。さらには、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」があります。写真がその「惣金厨子」です。私も伯父の生前中に観させてもらったことがありますが、それは見事なものです。結局、善光寺五重塔は、江戸幕府の許可が降りずに建てられることはありませんでした。詳しくは、「まぼろしの善光寺五重塔」を。
またここ岡地には、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかり材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。
北アルプスは、鹿島槍ヶ岳も白馬三山も稜線が雲の中で、中腹しか見えませんでした。相当荒れている感じです。戸隠や飯縄山方面は雲こそありませんが、やはり風は強そうです。写真手前の一番右にクレーンが見えますが、長野パルセイロのホームスタジアムの建設が急ピッチで進められています。完成の暁にには、ここ妻女山までサポーターの大声援や歓声が届くことでしょう。古いスタジアムでも、試合の時は太鼓の音やチャントの歌声が妻女山どころかその上の陣馬平まで聞こえていましたから。
招魂社の裏では、やっと梅が咲きました。遅いです。去年は4月8日に森の杏が満開でしたから。キブシの花も咲いていましたからね。やはり、あの大雪のせいでしょうね。この梅ですが、実は老梅で、ほとんどが昨冬と今年の大雪で折れて倒れてしまいました。昨年は倒れながらも咲いていたのですが、今年はさすがに枯れ木のままでした。ここは集落のある旧家の梅園なのですが、もう何十年も放置されたままです。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿と云いますが、梅は剪定をきちんとしてやらないといけないのです。
その梅園の斜面には、オオイヌノフグリが咲き乱れていました。オオイヌノフグリというのは、大きい犬の金玉という意味ですが、だれがこんなふざけた名前を付けたんだろうと思って調べたら、本来のイヌノフグリに対してつけられたようで、由来は、果実の形状が雄犬のフグリ、つまり睾丸・陰嚢に似ていることからかの牧野富太郎が命名したんだそうです。イヌノフグリは、オオイヌノフグリのせいで絶滅の危機にあるようです。オオイヌノフグリは、ヨーロッパ原産の帰化植物で、1887年に東京で定着したことがわかっています。別名、瑠璃唐草・天人唐草・星の瞳で、花言葉は「信頼」「神聖」「清らか」「忠実」と大犬の陰嚢とは似ても似つかぬ可憐な名前。牧野富太郎氏は、命名のセンスがあるのかないのか、よくわからない人です。右は、ミヤマウグイスカズラの蕾。この花のシーズンは長いです。ルビー色の実は小さいけれど甘く、昔は里山に遊びに来る子供たちのいいおやつになりました。今の子供たちは里山に来ないので知らないでしょうね・・。
時間もないのでそそくさと山を下りるついでに我が家の山へ。私が移植したヤブカンゾウと貝母(編笠百合)を見に行きました。ヤブカンゾウは、畑に移植したものより大きくなっていました。少し摘んで豚バラと白菜の塩麹蒸しに入れることにしました。おひたしやぬた、天ぷらでも美味です。また、蕾は天ぷらや中華炒めに。中華食材では金針菜といって結構高い食材です。ノカンゾウは花が一重、ヤブカンゾウは八重で少し大きめ。ニッコウキスゲも仲間です。貝母は、中旬過ぎからゴールデンウィークにかけて見頃になると思います。
久しぶりに展望台から東の松代の風景。根子岳と四阿山は、まだ真っ白ですね。写真では分かりませんが、手前のソメイヨシノの花目は結構膨らんできました。山桜はまだまだですが、松代の向こうの東条のあんずの花は、そろそろ開花するでしょう。4月中旬から5月上旬までの短い間、信州は桃源郷になります。
お終いに、前回の記事で触れた立川流の名作に触れます。写真は「惣金厨子」といい杏で有名な千曲市森の岡地集落の「岡地天満大自在神社」にあるものです。伯父(故人)がその天満宮の歴史を調べ本を自費出版しているので、そこから引用させてもらいます。この神社には、菅原道真の木像と、法華経妙荘蔵王品一基が所蔵されていますが、菅丞相書『法華経並びに親作木像記』によると、どちらも菅原道真自作のものと伝えられています。
岡地に安置されるようになった経緯は非常に複雑です。もともとの所有者は、江戸城を築城した太田道灌〔「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ哀しき」の逸話で有名〕が足利学校で学んだ折りにもらい受けたとされています。ただし、道真公からどういう経緯を辿って足利学校に所蔵されるようになったかは不明です。
第四次川中島合戦の折に、ここ岡地には観音堂の大伽藍があったそうですが、戦火のために焼失したと縁起には記されています。その後、湯島天満宮に納めようとしたのですが、不慮の変があり果たせず、徳川家康の手に渡り、三代将軍家光へ、さらに幕府の官医であった土岐長庵の手に渡ります。土岐長庵は松代藩の真田家と懇意だったようで、真田家の菩提寺の松代長国寺(曹洞宗)に遺贈されました。
その後しばらくは、松代の長国寺にあり、長国寺十七世千丈寛厳和尚が千曲市森の岡地に華厳寺を開いて隠住したとき(1785年)に森の岡地に天満宮を造って安置したのが始まりということです。つまり、この天満宮は数ある全国のお天神さんの中でも、かなり由緒あるものだということなのです。
現在では華厳寺は檀家も途絶えて廃寺となり、天満宮だけがあります。天満宮には、かの郷土史家で考古学者の米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像があります。さらには、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」があります。写真がその「惣金厨子」です。私も伯父の生前中に観させてもらったことがありますが、それは見事なものです。結局、善光寺五重塔は、江戸幕府の許可が降りずに建てられることはありませんでした。詳しくは、「まぼろしの善光寺五重塔」を。
またここ岡地には、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかり材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。