千九百三十三年(昭和八年)一二月二十三日大騒ぎだったろう、内親王の後の跡取り親王だったのだから、ああ出来ちゃったかと云うような我々下々とは話が違う、現(今上)平成天皇の生まれた日であっる。あれから七八年目の誕生日である、早いものだ。
我々が小学校に入学した頃はアッチコッチに、皇太子誕生記念と書かれた木札が樹木と云わず建物と云わず、いろいろな所で目にしたものだった。三学年上の俺が特に今でもよく覚えているのは、毎夏よく泳いでお世話になった学校プールのポンプ小屋に掲げてあった木札であった。
昭和一二年入学の我々は本当に満州事変に生まれ支那事変で小学校、五年生で太平洋戦争へと、まさに当時戦争の世紀に生まれた様のものだった。折角入った工業学校もろくに勉強できず戦後新制高校になり卒業したが、校舎も機材も戦災で燃えてしまいろくな勉強も出来ずに卒業したものだった。
あの頃、戦前の群馬県佐波郡境町は日本一面積の小さい町(大日本雄弁会講談社の少年倶楽部に紹介されて居た)であったが、教育熱心な街であったようで、同じ郡内の伊勢崎町よりずっと小さいのに、皇太子誕生記念の学校プールを作ってしまったのだった。
もちろん当時の事だから町民をはじめ多くの人達や高学年児童までが、勤労奉仕をやり利根川から玉石運びなど協力して足掛け三年がかりで完成したのだった、お蔭さまで水に強い子供たちが育ったのだが、例幣使街道の宿場町境宿は今は見る影もないが、あの教育熱心な境町は如何したろう、こんな小さな町でよく東大へ毎年のように入学生を送る様な町だったのに、俺たちの同級生は旧制の一高、二高、浦高、慈恵医大などへ行った人たちが居たが、今は。
今朝のテレビのニュースで見る今上天皇と美智子妃の齢をとったこと、今年は特に心臓の手術をしたり、震災や原発の後の心配など心労の多い年だった、美智子妃もあまり丈夫な方でも無いようなのに、よく天皇をお助けしているように見えるが、お体を大事にして貰いたいものである。
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