正月もまだ二日目なので小難しい話題を離れて私の子供時代の思い出を書いて見ました。
もしなにかの参考迄に少しでもなれせば幸いです。
[当時の環境]
私は子供時代、北九州市のうち旧八幡市のある路地を挟んだちいさなブロックに住んでいた。
路地の南側には普通程度の住宅と長屋があり小学生以下で言えば、男の子が5人女の子が4人、北側は少し大きな屋敷風の住宅で私どもの兄弟が3人の他2人の男の子で子供社会を形成していた。
(断って置くが私の家族は父が職夫の名の通り、当時でいう正規社員と人夫の間の地位で、姉と兄を入れて5人の子供を抱えている貧乏所帯で、その屋敷を間借りしていただけだ。)
その子供社会に時々、旧制の中学や高等小学校の子が入って来て遊びの指導をしてくれていた。
私たちの活動範囲は北は旧線路と呼ばれる鹿児島本線の前身の九州鉄道の跡の通りで、当時はまだ馬車や牛車が主流で自由に走り回われた。ただ注意しなければならなかったのは彼らの出す糞だった、それも馬のそれならまだ良いが、反芻動物の牛の糞を踏んだら大変だった。
その北側の道が今の国道3号線で、電車やバス、それて少数立ったがトラックも走っていた。
私どものブロックから北側は道路数本を離れて所は謂開発途上の丘だった。
つまり全体的にいうと時代が大きく動き出そうとする環境にあった。
[子供の四季]
12月は大掃除と餅搗き
12月になると間もなく、どの家でも大掃除だ。
畳みを全て除いて天日に干す間、床から天井まで掃除される。
この頃の子供の楽しみは畳の間に挟まったいたり、床に落ちている1銭硬貨を見つけることだそれが10銭だと天にも昇る気持ちになったものだ。
そしてあちこちから餅をつく音が聞こえてくると子供心に正月が近いとそわそわしてくる。
正月
正月の朝起きると、枕元には新しい下駄と足袋が置いてある。時には新調の服やや丹前などの時もある。
外は全戸日の丸の旗。
子供は一張羅の服や着物を着て、駄菓子屋で買った名刺を持って各戸に備えてある名刺受けに置いて大人の気分を味わう。
家では近所の子や大人達と一緒にカルタ。
学校に行く前の子も、いろはカルタや百人一首で、大人に負けまいと取札字を覚えようとする。
大人達から学校に行く前に良く字を知っているとおだてられると益々調子に乗って、学校に行く前には殆どが仮名を覚えているのが普通だ。
当時はラジオがやっと普及し始めたころで、情報は本しかなかったが幸いに当時の本は全て振りがな付きなので子供でも大抵の本は読めた。
私の場合で言えば子供から成人するまでの読書の量から考えて、その国語の知識の殆どは子供時代の乱読で得たものだ。
2月:旧正月
当時はもう旧正月を祝う習慣は消えていたが、餅を搗く風習だけは残ったいた、それもかき餅などを含めて新正月の倍の量だ。
子供達も当然に駆り出され、顎をだしながら餅をついたり、丸めたりする。
然し当時は食べるしか楽しみのない時代なのでがんばるしかなかった。
3月:雛祭り
然し我が家は姉が大きくなっているので特別のことをせずに自家製の甘酒をつくるだけだった。
4月:入学式と桜
最初の家庭訪問の時の母親の口癖は「子供言うことを聞かなかったら殴って下さい」だった。
私は幸い教師から殴られた経験はなかっが図画や手工など抜群だったが、国語や算数などが苦手の兄が殴られて頭にこぶを作ってきても、親は子供を叱ることはあっても、学校には何も言わなかった。
だから子供は先生を尊敬する。
子供達は朝近くの公園に行って花見で散乱している一升瓶や、ビール瓶を回収して少ない小遣い銭の足しにする。
5月:男の節句
貧乏な私達は鯉のぼりなどは余所の家のものを見るだけだが、屋根には菖蒲を上げ、柏餅や「ちまき」など作ってくれる。
7月:七夕
貧乏な私の家でも大きな笹を買って子供達が飾りつける。
それもよそから負けないようになるべく長く派手に飾る。
それが終わると枝を全て落として、年長の子供たちから教えて貰いながら竹馬をを作る。
そしてしばらく子供の遊びは竹馬中心となる。
それに飽くと残った竹から竹トンボを作り、互いの飛行距離を競いあう。
8月:水泳
北側の丘を越したところが小学校もある農村地帯、そこを流れる潅水ようの堰が良い子供達の遊び場だった。
それに飽きると海水浴。
道を迷わない様に3号線ぞいの川をひたすらに下って約1時間半歩いて海水浴場に行ったものだ。
9月、10月:運動会鎮守のお宮の相撲大会
そう言えば相撲の仕切りのときに徒歩競走の時のスタートの構えをして笑われたのを思い出す。
11月:製鉄所の起業祭、薪取り
官営の製鉄所の起業祭は当時の旧八幡市の最大イベントだ。
各戸全ては配られた旗を飾る。
当日は学校は半ドン。
家では余所から見物に来るお客のために栗おこわと煮染め、甘酒を容易する。
祭の会場とそこに至る通りは全て旗の波で覆われる。
祭が済めば子供は旗の飾りから糸を回収して凧上げ用の糸にする。
凧は七夕用の笹から取っていた竹から竹ひごを作り半紙を貼ってつくる。
私の家では子供は母親に連れられて、山で枯れ木を集め、子供の年相応の束を作って貰い家までえっちらおっちら担いで帰ったものだ。
また昔のことを言ってまた嫌われるが、昔は皆貧乏だったが、子供にとっては昔の方がはるかに良かったと思うのだが。
[子供の喧嘩といじめ]
それで一つ思い出したのだが、子供だから当然喧嘩がある。
然しそのときの男の子の喧嘩はいつ決まったのか知らないが、喧嘩は取っ組み合い、殴るのは平手と決まっていた。
それで喧嘩なれしてない私などが、稀に相手を抑え付けたのは良いが、その後どうして良いか判らずに、仲裁に入るのを待っていた記憶がある。
当時は拳固で殴ったり蹴ったりするのは「やくざ」のするものと考えられていたのだが。
それともう一つ、私がいじめなど経験したことがないと何度か書いたとき、いや当時でもいじめはあったとコメントを頂いたことがある。
私はコメントを頂いた後、私が生まれ育った旧八幡市では開放的な土地柄だと気がつき後のブログにもそう書いた。
その後本屋で、「出身地でわかる性格・相性事典」の本を見ていた所、北九州市の西部から筑豊地方は「かなり開放的」とランク付けされていた。
そう言えば家内もいじめの経験はないと言っていたが、当時の石炭荷役で荒っぽい気風と言われていた旧若松市の出身だ。
つまり私どもがいじめを経験しなかったのは、弱いものいじめをしたり一人を大勢でいじめるのは男らしくないとか、思いやりから足りないのは女として恥ずかしいと言う考えが浸透していた地域で、しかもよその人を受け入れる開放的な土地柄にいたからだと判った。
参照:カテゴリー → いじめ
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