隊長曰く/RFC名古屋

釣れた日には釣りのハナシでも(笑)

古戦場散歩(8)桃配山

2021年11月27日 06時00分01秒 | 遊びに行こう

 桃配山(ももくばりやま)です。国道21号線に接しているので、誰もが気づく史跡です。関ケ原合戦においては徳川家康最初陣跡、それより900年以上前に起こった壬申の乱では大海人皇子陣跡と、2つの重要な歴史的事件に関わった場所です。ありがたや(笑)。思うように進まない戦況に苛立った家康は、11時頃ここから、石田三成の待つ笹尾山へ向けて隊を移動させます。東軍が勝利を収めた後、家康は古戦場記念館すぐ西の徳川家康最後陣跡で首級の検分等を行いました。

 これにて古戦場散歩シリーズ終了。まだまだ立ち寄っていない場所がたくさんあるので、またの機会に訪れたいと思います。今回はクルマでの移動だったけれど、次回はレンタサイクルかな。


古戦場散歩(7)島津義弘陣跡

2021年11月25日 08時30分25秒 | 遊びに行こう

 薩摩より駆けつけた西軍、島津義弘陣跡です。負け戦が決まった後、あえて軍を前進させ、東軍の軍勢を切り裂くように去っていった勇猛果敢さは「島津の退き口」として語り継がれています。その際に殿(しんがり)を務めたのが甥の島津豊久。豊久はそのとき命を落としたとされていますが、、、実は異世界に転移し大暴れしていた、というのはコミック「ドリフターズ」でのお話(笑)


古戦場散歩(6)開戦地

2021年11月24日 07時26分19秒 | 遊びに行こう

 1600年9月15日(日付は旧暦)朝、立ち込めていた霧が晴れるや東軍の井伊直政と、その娘婿・松平忠吉の隊が抜け駆けして、西軍の宇喜多秀家隊に発砲、本来は東軍先鋒であるはずの福島正則隊も遅れを取るものかと発砲。合戦の火蓋が切られたのが開戦地です。開戦地の碑はもともと300mほど南(福島正則陣跡寄り)にありましたが、圃場整備の都合で現在の場所に移されたそうです。

 開戦地の碑のすぐ西には、西軍のキリシタン大名、小西行長陣跡もあります。実際に布陣したのは碑の裏手に広がる北天満山の中腹で、そこには西軍の烽火場もあったそうです。


古戦場散歩(5)福島正則陣跡

2021年11月23日 13時44分45秒 | 遊びに行こう

 「へうげもの」では憎めない人物として描かれた福島正則。関ケ原合戦でも先陣を切ることを約束されていましたが、松平・井伊隊に抜け駆けされ慌てて戦い始めたのだとか。豊臣秀吉に愛された家臣でありながら東軍についたのは、石田三成が大嫌いだったからとの噂も。う〜ん、やっぱり憎めないなぁ。そんな彼の陣跡は、今は住宅と農地が入り交じる閑静な場所。写真右の大杉(月見の宮大杉)は樹齢約800年で合戦の頃既にあり、関ケ原合戦図屏風にも描かれているそうです。


古戦場散歩(4)決戦地

2021年11月22日 16時43分49秒 | 遊びに行こう

 あ〜掲載順を間違えました。古戦場記念館の前に決戦地へ立ち寄っていました。といっても、すぐ後ろに写っているように笹尾山の目と鼻の先なんですけれどね。小早川秀秋らの裏切りが流れを変え、桃配山に構えていた徳川家康隊も笹尾山を目指して侵攻、合戦はクライマックスへ。そして西軍は総崩れとなり、石田三成も敗走することになりました。今は田んぼが広がるだけの土地ですが、そこがかえって無常感を募ります。