電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

明治期の中学校と理科実験室

2015年10月15日 06時03分21秒 | 歴史技術科学
明治時代、小学校の就学率はしだいに上昇していきました。改正教育令で事実上の受益者負担主義となり、53%まで向上していた就学率が40%台まで低下するという足踏みの時期はありましたが、明治21年に設置者負担に変わると、就学率は回復し、再び向上していきます。

ところが、中学校となると、就学率の推移は必ずしも順調ではありませんでした。当時は、子供の頃から子守りなど何らかの役割を与えられ、小学校卒業年齢には働くのが普通でしたので、読み書きを習った後に、わざわざ上級の教育を受ける必要性を感じないどころか、教育を受けると働くことを嫌がるようになる、と考えられていたからです。

中学校の就学率が顕著に増加していくのは、明治20年代になってからです。この背景には、中学校令とともに徴兵令も改正され、中学以上の学歴を得ることが徴兵上の優遇措置につながることが知られるようになったためと考えられます。戊辰戦争や西南戦争などの激しい内戦の記憶も鮮やかな時代に、子の徴兵期間が三年から一年に短縮されるという一年志願制度の特権は、資産家や地主など富裕な平民層の親にとって価値あるものであり、子弟の中学校進学熱が高まって行ったのでしょう。その結果、当初は生徒に占める士族の子弟の比率が多かった(*1)のが、しだいに平民の子弟が多くなり、士族の割合は低下して行ったようです。

明治24年、尋常中学校設備規則(*2)が制定され、普通教室の他に、特別教室として、

  • 物理化学・博物・図画の特別教室
  • 図書室・器械室・薬品室・標本室

などの基準が示されます。このあたりは、大学など高等教育において、実験室・実習室を中核としたリービッヒ流の教育が移植され、その有効性が認識・実証されていたこと、時の政府もまた、その意義を重視していたことが背景にあると考えられます。



日本の近代史や教育史においても、学校制度や教科科目とその時間数、教師養成などについては詳しく研究され、論じられているようですが、実験室やその設備、器具などについては、どうやら盲点となっているようで、なかなか資料が入手できません。山形県内では、高校や大学の創立百周年などの記念誌に、前身となる旧制中学校や師範学校の平面図が記されるケースがあり、参考になります。

例えば、1県1中学校の時代に特別教室を有する形で中学校が整備されていたようで、旧制山形中学校(現山形東高)では、明治26年に改築された新校舎について、

「理学博物ノ機器標本、各別ニ室ヲ設ケテ之ヲ蔵ス」

とあり(*3)、尋常中学校設備規則に基づき、特別教室として理化教室と博物教室とがあり、それとは別に、理科機器室、標本室などがあったと考えられます。校舎は幾度かの火災で消失しますが、明治32年に再建された校舎の敷地建物全図が残されており、理科教室と博物教室、物理化学器械室、標本室が明記されています。

また、同時期(明治34年)の山形師範学校の増改築平面図にも、理科棟の記載があり、実験室の存在を確認することができます。実際には、増改築以前にも実験室があったようで、明治20年代には、この山形に旧制山形中学校と旧山形師範学校の二箇所に理科実験室が存在していたようです(*4)。

いっぽう、明治30年頃には、中学校進学率の上昇と、日清戦争や産業の発展を受けて中学校令が改正され、1県1中学校の制限が緩和されることとなります。また、小学校令で小学校教育が義務化されたほか、実業学校令や高等女学校令などが制定されます。この頃に開校した学校では、同時期に複数の中学校の建設を進めなければならないことから、まず普通教室の建設が急務とされ、特別教室は後回しになる例が少なくなかったようです。ネット上で学校沿革を見ると、いくつかの学校でこのような記述が散見されます。例えば、

  • 愛知県・岡崎高校(明治29年開校)「明治42年 理科 博物教室竣工」
  • 埼玉県・熊谷高校(明治29年創立)「大正5年~ 博物教室(物理化学実験室・講義室、第一次大戦により重視、生徒自ら実験できるようになった)」
  • 宮城県・古川高校(明治30年開校)「明治36年 理科教室、博物教室完成」

などの記述があります。これらの学校の沿革の中に、なぜ理科実験室の記述があるのか、その理由を考えると、おそらくは設置者の財政事情ではなかったかと推測されます。



写真は明治33年に旧制山形中学校の分校として創立された新庄中学(現山形県・新庄北高)及びその平面図で、やはり理科教室は斜線が引かれ、増築部分とされています。(同校百年史より)



(*1):明治初期の学生たちの大半は士族の子弟だった~「電網郊外散歩道」2014年11月
(*2):中学校設備整備規則(明治24年)
(*3):長岡安太郎『明治期中学教育史 山形中学校を中心に』
(*4):石垣立郎「化学実験室ことはじめ」~山形県立博物館研究報告第29号、(平成22年度)、2011年2月刊

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明治初期の硫酸製造と大阪造幣局

2015年06月29日 06時02分26秒 | 歴史技術科学
山形師範学校の付属小学校における天覧実験(*1)は無事に終えたものの、明治初期の初等教育において、リービッヒ流の「実験を通じて学ぶ化学」が行われていたわけではありません。各地に建てられた小学校には、一斉教授用の教場(教室)はあっても、生徒用の理科実験室などはもちろんありませんでした。教場における主たる道具立ては、黒板とチョークと掛図、生徒は石版と石墨、紙と筆と墨、といったところでしょう。


(明治9年、鶴岡に建てられた朝暘学校~当時全国最大

ところで、明治15年当時の島津製作所のカタログ(複製)が手許にありますが、種々の物理化学の実験器具のほかに、例えば化学実験セットが二種掲載され、おそらくは薬品の種類や機器の組み合わせの違いで、お値段が違っています。30円と50円とあり、仮に当時の1円=2万円とすれば、現代風に言えば1組60万円と100万円のセットということになります。こうしたセットを購入できたのはおそらくは裕福な学校であり、学校にとっては例えば天覧実験の際に供するような使い方の、貴重な財産であったろうと思われます。







では、明治初期に、化学実験用の薬品はどうしていたのか? あるいは、大量に必要な、産業用の薬品は? おそらく、はじめは高価な輸入品を用い、後にそれら真似て(模範として)、国内で製造できるかどうか様々な形で試みられたのでしょう。その例として、長州ファイブの一人・遠藤謹助(*2)が勤務した大阪造幣局(*3)における硫酸製造を取り上げます。

明治政府は、近代的な貨幣制度を確立するために、大阪の地に造幣寮(後に造幣局)を建設します。明治4(1871)年のことでした。日本政府が英国の東洋銀行と結んだ条約をもとに、グラバーを通じて香港にあった造幣局の設備や主だった人員も移転したような形であり、監督権も日本側にはなく、元陸軍少佐で元香港造幣局長の地位にあったキンドルを中心に、外国人の指導のもとに事業が進められました。井上馨や遠藤謹助など、英国に密航留学した経験を持つ日本人幹部とはしっくりいかなかったようで、後に(明治7年)キンドル排斥運動が起こったりしていますが、明治初年の当時、実際の設備を運用するには、短期間の留学経験では実務的に役に立つことは無理だったでしょうし、ロンドン大学のウィリアムソン教授の姿勢とは違って、香港での経験からアジア人を蔑視する傾向を持つキンドルらに対する反発も強かったことでしょう。


(大阪造幣局外観・『造幣局のあゆみ 改訂版』より)(*3)

大阪造幣局は、洋式設備による貨幣製造工場であるだけでなく、素材となる金属の分析や精錬、製造加工など自給自足が可能な総合的工場でもありました。勤務体系や複式簿記の採用、日曜休日、1日7時間労働制など、英国風に合理的に整備され、断髪で洋服の着用など、現代に通じるスタイルを取り入れた工場でした。

とくに「金銀の分離精製や貨幣の洗浄に用いる硫酸は、明治5年に開設された硫酸製造所において、英国人技師フィンチの指導のもとに製造を開始」(*3)されたと記録されています。
明治6(1873)年の構内図に、「四百ポンド硫酸室」および「硫酸室(鉛室、硫黄窯場、精製煮詰窯場)」の存在が確認されます。


(造幣局構内図:『造幣局のあゆみ 改訂版』より)(*3)

塩川久男氏によれば(*4)、明治5年には「日産400ポンドの生産量で、不足分は輸入しなければならなかったので、先進技術により多量生産を行うため、同年4月フィンチを雇」いいれ、明治6(1873)年には新工場も建設されて、「造幣局でつくった硫酸が一般に販売され」るようになったこと、明治8(1875)にはガウランドがこの硫酸を分析し、「今般再溜の分は純粋なり」のお墨付きも得て上海に輸出されるようになったとのことです。

明治5年の開設から明治18年の民間会社への貸渡までの間に、硫酸の生産実績は 17,446,000 ポンド余り(*4)となっており、同時に硫酸製造は一国の化学工業の水準の指標である(*5)との言葉のとおり、硝酸、塩酸、アンモニア、リン酸アンモニウム、硫酸アンモニウム、硫酸亜鉛、硫酸鉄などの化学薬品も製造し、ソーダ工業もここから興されます。大阪造幣局は、当時の日本の化学工業の中心であったと言えましょう。


(*1):明治天皇の東北巡幸と山形師範学校における化学の天覧実験の記録~「電網郊外散歩道」2015年6月
(*2):長州藩の密航留学生は何を学んだか~「電網郊外散歩道」2014年8月
(*3):『造幣局のあゆみ 改訂版』平成22年 (PDF)
(*4):塩川久男「科学と社会~日本における近代化学の成立」、『科学と実験』p.66,Vol.29,No.12
(*5):「硫酸」~Wikipediaの解説

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明治天皇の東北巡幸と山形師範学校における化学の天覧実験の記録

2015年06月06日 06時04分15秒 | 歴史技術科学
明治初期の翻訳教科書『小学化学書』は出版されましたが、明治初期の日本で、大学以外の学校ではどのような教育が行われていたのか。これを推測するうえで、明治14年の山形師範学校の天覧実験の記録が、興味深いものです。

明治14年、明治天皇は、二度目の東北巡幸を行います。これは、戊辰戦争の後に自由民権運動が盛んになっていた地域を巡撫することも目的の一つであったろうと思われますが、山形県でも三島通庸・初代県令の各種土木工事の成果を歩くほかに、山形師範学校を視察することとなります。

天皇陛下をお迎えすることになった山形師範学校では、化学実験を演示し、日ごろの教育の成果を示そうとなったのでしょう。付属小学校の生徒二名が、講堂において「火の燃ゆる理~物の燃焼について」と「空気膨張の力」というテーマで演示実験を行ったとのことです。前者は、ロスコウ著『小学化学書』上巻に掲載された実験の一つで、ガラス鍾内で黄リンを燃やし、空気中の酸素が消費されるために、大気圧に押されてガラス鍾内の水位が上昇することを示すものです。


(ロスコウ『小学化学書』上巻より)

この実験を担当した付属小学校1級生(現在の中2)の佐々木忠蔵君が、この時のエピソードを作文に記し、記録にとどめています(*1)。

すなわち、黄リンをいささか多くし過ぎたために、点火したら熱のためにガラス鍾が割れてしまい、黄リンが燃えた際の白いケムリが明治天皇のほうに流れていきます。お付きの人があわてて窓を開けに走り、佐々木君はこのとき「放校を覚悟」したそうです。けれども、次の実験では失敗しないぞと、かえって度胸がすわり、めでたく天覧実験を終えて、お褒めの言葉をたまわったそうです。


(高橋由一:「山形市街図」)



明治14年~15年に高橋由一が描いた「山形市街図」では、中央遠景に見える初代・木造の山形県庁の右に小さく見える時計塔を持つ建物が、このエピソードの舞台となった旧・山形師範学校で、現在のJA山形ビルにあたる場所のようです。当時、化学実験はデモンストレーション効果の高い「見せ物」でもあったようで、理科実験室ではなかったところに、明治初年の啓蒙期の科学教育の特徴がよくあらわれています。

(*1):小形利吉『山形県の理科教育史(上)明治・大正編』p.51-52、山形県理科研究同好会、1978
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明治初期の化学教科書の著者と翻訳者

2015年05月30日 06時06分52秒 | 歴史技術科学
明治初期に発行され、初等中等教育において広く用いられた教科書として、ロスコウ著『小学化学書』があります。この本の実物は、山形県内では県立博物館の教育資料館(*1)で見ることができますが、1872(明治5)年に発行された原著"Chemistry"(Science Primers-第2巻)を、市川盛三郎が翻訳し、1874(明治7)年に文部省が発行したものです。原著の発行にはイギリス側の事情が興味深いものがあり、日本での翻訳の素早さと発行までの期間の短さは驚くばかりです。

まず、原著の発行の事情です。1866年から11年間続いた南北戦争によって、米国南部からの綿花の輸入が急減し途絶えます。これによって、産業革命の柱の一つであった英国ランカシャー地方の工場の操業が止まります。これに対し、労働者に同情したT.H.ハックスリー(Huxley)やチンダル(Tyndall)などが、労働者の資質向上による再就職を狙い、通俗講演会を開きます。また、マクミランの要請によって、1870年にロスコウ、ハックスリー、スチュアート(B.Stewart)が編集者となり、Science Primersという叢書が編集・刊行されます。大沢眞澄(*2)によれば、この刊行の趣旨は、

  1. 学校において年少者の第一段階での教科書として使えるもの、
  2. 実験はきわめて容易な生徒自身が行えるもの
  3. 実験を基礎に学習を進めるもの
  4. 各科の学習順序が入門→化学→物理学のように教育的配慮がなされているもの
  5. 廉価であるもの(定価は1ペニー)

とするとのことです。
このうち、第2巻「Chemistry」は、内容が優れていたために広く普及し、ドイツ、アイスランド、ポーランド、イタリア、トルコ、インド、日本などで翻訳が行われたのだそうです。

この「Chemistry」の翻訳は、1873年版の原著が刊行された翌年の1874(明治7)年10月に、文部省から刊行されます。原著刊行から日本語版の刊行までの期間の短さに驚かされますが、さらにこの序文の内容が、まったく現代に通じるような、たいへん興味深いものです。現代表記に直せば、

原序
この書は化学の原理を説き、童蒙をしてその大意を知らしむるものなり。ただし、その主意たるや、いたずらに事物の理を論じ、生徒をしてこれを暗記せしめんと欲するにあらず。その要する所は生徒を誘導し直に造化に接して自らその妙理を悟らしむるにあり。これがために許多の試験(注:実験のこと)を設け、各事、もっぱら実地についてその真理を証するを旨とす。ゆえに教師たる者、丁寧にこの諸試験(実験)をなして生徒に指示せずば有るべからず。このごとくすれば生徒自ら事物を見てその理を考えるに慣習して大いに利益ありとす。また、時に問を設け生徒をしてこれに答えしめ、その学力進歩の多少を試みることもっとも緊要とする所なり。
                1873年 ロスコウ識るす。

というものです。ファラデーが示し、リービッヒがシステマティックに開始した教育システムの中心にある、理論と実験を通じて化学を学ぶという方法が、ここでも貫かれていることがわかります。

著者のロスコウ(Sir Henry Enfield Roscoe,1833-1915,*3)は、1833年にロンドンに生まれ、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンでウィリアムソン教授らに学んだ後、大学卒業後にドイツのハイデルベルグ大学の、リービッヒの盟友であったブンゼンを訪ね、1855年に助手となり、老ブンゼンを助けて働きます。都市ガスが普及するロンドンで購入してきた一本立てのガスバーナーをブンゼンと共に改良し、今日化学実験室に普及するブンゼンバーナーに改良したほか、この無色の炎を利用してセシウムとルビジウムという新元素を発見、また光が化学反応を促進することを追及し、光化学の変化量は吸収した光のエネルギーに比例するというブンゼン・ロスコウの法則を発見して、光化学の分野の開拓者となります。


(左から、キルヒホッフ、ブンゼン、ロスコウ)


(晩年のロスコウの執務姿)

ロスコウとブンゼンの師弟関係は親密で、学生が実験を通じて化学を学ぶという思想とスタイルをそのままに受け継いだようです。このロスコウのところに留学していたのが杉浦重剛(*4)で、彼は途中で挫折しましたが、帰国後に本書の翻訳を監修します。そして、直接に翻訳に携わったのが、市川盛三郎でした。

市川盛三郎は、1852(嘉永5)年8月に、幕府の洋学者の子として江戸に生まれます。幼時より才能をかわれ、川本幸民(*5)がいた幕府開成所に入り、1866(慶応2)年に幕府の留学生としてロンドンに向かいますが、1968年に幕府が崩壊したことにより帰国、補助的な立場で教職に就きます。1870年11月より、大阪理学所においてお雇い外国人教師リッテルを助け、各種の著作の翻訳編集にあたります。1873(明治6)年に東京に移り、この頃に『小学化学書』を翻訳したようです。21歳のことでした。
1875(明治8)年養子となって平岡姓を名乗り、1877(明治10)年にはマンチェスターのオーウェンズ・カレッジに私費留学、病を得て1879(明治12)年に帰国し、1881(明治14)年には東京大学理学部教授となりますが、翌1882年に病没、31歳の若さでした。

(*1):山形県立博物館の教育資料館
(*2):大沢眞澄「明治初期の初等化学」(『科学と実験』1978年10月号)
(*3):ヘンリー・エンフィールド・ロスコー~Wikipediaの解説
(*4):明治初期の留学生の行先~「電網郊外散歩道」2015年2月
(*5):北康利『蘭学者川本幸民』を読む~「電網郊外散歩道」2008年9月

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帝国大学の整備と教育の目的の変化

2015年05月21日 06時04分53秒 | 歴史技術科学
明治初期には、お雇い外国人教師を中心に様々な学校で行われていた高等教育でしたが、国費留学生が帰朝し、教授に就任するなどして、徐々に日本人教員に置き換えられていき、高給で雇われた外国人教師たちも、少しずつ帰国していきます。
工部大学校の都検(実質的校長)として活躍したダイアーも、明治15(1882)年に帰国し、英国で『大日本』という本を発表します。東洋の島国に移植した西欧の技術とそれを支える思想が、どのような実りをもたらしつつあるか、また将来の日本の技術的自立を予言するものでした。しかし、この本は、明治の日本では発禁となります。これは、おそらく底流を流れる社会進化論的な思想が、当時国家主義的方向に大きく再編成されつつあった日本にとって、有害とみなされたのでしょう。

(森有礼)

明治19(1886)年、学校令が公布されます。これは、(1)帝国大学令、(2)師範学校令、(3)小学校令、(4)中学校令、(5)諸学校通則の五つの法令からなり、教育に対する国家の支配を決定的にするものでした。この中の帝国大学令により、工部大学校や駒場農学校など官立学校が開成学校と統合されて帝国大学となります。これを、かなり強権的に推し進めたのが、幕末期に英国に密航留学していた旧薩摩藩士で、グループが分裂し、アメリカに渡って宗教的コミュニティに幻滅し、国家主義的な考え方を育んだという経歴を持つ人物、森有礼でした。もちろん、その背後には、プロシアのビスマルクと面談し、その影響を濃厚に受けて英国からドイツへと方向転換をするようになった伊藤博文がおり、やがて明治22(1889)年に大日本帝国憲法の成立へと進むこととなります。
森有礼は、帝国大学の目的を、国家に奉仕する人材の育成と定めます。これは、ダイアーらお雇い外国人教師たちの中にあった、技術と産業を通じて社会を変革するという情熱や、教育の目的を社会の進歩と人々の幸福に置くというようなタイプの考え方を、基本的に相容れないものとみなしたのでしょう。ダイアーの離日に際して、名誉は贈るが著作は発禁にするという処置は、森有礼あたりの影響が色濃く出ているのではないかと推測しています。



この頃、足尾鉱山の鉱毒事件が世間を騒がすようになります。明治10(1877)年に操業を開始した足尾鉱山からは、多量の鉱毒が流出しており、明治20(1890)年の大洪水によって、一気に問題が顕在化します。かつては穀倉地帯だった渡良瀬川流域を中心に、鉱毒に汚染された状況を見て、沿岸の青年有志が田畑の土や川の水を採取し、明治24(1891)年、東京帝国大学の丹波敬三教授と農科大学の古在由直助教授に持ち込み、分析を依頼します。

(古在由直)

とくに、この事件に関わりの深い古在由直氏は、明治19(1886)年に駒場の農学校を卒業し、明治22年に農科大学、明治23(1890)年に東京帝国大学農科大学助教授に就任したばかりの少壮学者でした。分析の結果、明らかに銅が含まれていることが判明します。この事件が大きな社会問題となるや、古在助教授は明治28(1895)年にドイツのライプニッツ大学に留学を命じられ、日本を離れることとなります。この背景にあるのも、国家に奉仕するという帝国大学の使命であり、意志であったと言うことができるでしょう。しかしながら、古在助教授は帰国後にもその節を曲げず、徹底した調査活動を行います。明治35(1902)年、鉱毒調査委員を命じられた古在は、渡良瀬川流域を地図上でグリッド化し、その区画毎に銅の濃度をプロットすることによって、自然銅ではなく鉱山に由来するものであることを明かにします。この手法は、まさに駒場農学校で学んだ実践的なフィールドワークの手法の適用であり、鉱山側の責任を誰の目にも明かにするものでした。

足尾鉱毒事件は、明治の鉱山技術を産業として適用した結果の事件であるとともに、化学分析によってその実態が明らかになったわけですが、日清・日露戦争を背景に、富国強兵政策をなおも推進する政府は、鉱山側をかばいます。足尾鉱毒事件は、田中正造という人物によって議会で取り上げられ、大きな社会問題となりますが、鉱毒の回収や無毒化など技術的な解決は不可能で、結果的には谷中村一村の強制移転という形になってしまいます。にもかかわらず、局地的に起こった不幸な事件として受け止められ、国民全体が意思表示することはありませんでした。このあたり、なにやら福島原発事故により周辺町村が集団移転させられた一連の事態を連想してしまいます。渡良瀬川流域の住民は、自ら収集した記録集の発刊を発禁処分とされましたが、現代では発禁処分という対応はできない、という点に違いがあるでしょうが。

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明治初期の留学生の行先

2015年02月02日 06時04分54秒 | 歴史技術科学
文部科学省の「学制百年史」(*1)によれば、維新後に海外への留学生は急増し、留学生の選抜や規律等について、必ずしも良好とは言えなかったようです。そこで、政府は、明治3(1870)年に留学生をすべて文部省の管轄と定め、官選と私願の2区分に分けて試験で選抜することとしました。こうした制度改革に前後して、国費で留学生を派遣します(*2)。

1871(明治4)年には、第1回として長井長義、柴田承桂、菊地大麓、矢田部良吉ら11名が派遣されています。当方がわかる自然科学関係とくに化学分野で主な留学先を調べてみると、次のようになります。


■長井長義は、阿波藩の藩医の家に生まれ、長崎に留学して精得館で西洋医学をマンスフェルトに、化学をボードウィンに学んだ後に大学東校に進み、医学を目指してドイツに留学することになります。駐独代理公使の青木周蔵に下宿を斡旋してもらい、ベルリン大学に入学、リービッヒの教え子であるヴィルヘルム・ホフマンに化学を学びます。ヘルムホルツの植物学に惹かれながら化学実験に没頭するうちに、本来の留学目的である医学ではなく、化学・薬学の方向に転換してしまいます。ホフマンは長井を大学に留めておきたいと考えてドイツ人女性のテレーゼを紹介、二人は結婚します。

帰国後は、医科大学薬学科の教授となります。明治18(1885)年に、漢方薬の麻黄からエフェドリンを抽出発見し、後に化学合成が可能であることを示し、多くの喘息患者の症状を緩和することとなります。塩酸メチルエフェドリンは、交感神経興奮薬として今も感冒薬などに使われ、重要な意義のある発見でした。また、日本薬学会を創立し初代会頭に就任、テレーゼ夫人とともに女子教育に力を入れ、日本女子大学校に香雪化学館を創設し、最新の実験設備を備えて、後に帝国大学に入学する女性第1号の1人、丹下ウメを育てます。

■柴田承桂は、漢方医の家に生まれ、藩医・柴田家の養子となります。藩の貢進生として大学東校に進みますが、承桂も医師の道ではなく、化学・薬学者の道を選びます。長井長義とともにドイツ留学生に選ばれ、同じくリービッヒ門下生であるベルリン大学のホフマンの下で有機化学を学び、ミュンヘン大学で薬学・衛生学を学んだ後に、1874(明治7)年に帰国して東京医学校の薬学科教授に就任します。日本薬局方(1886)、改正日本薬局方(1891)の編纂などに携わります。

1875(明治8)年と1876(明治9)年、文部省は、東京開成学校在学生の中から第二次留学生を選び、海外に派遣します。この中には、化学関係では松井直吉(明治8)、桜井錠二(明治9)、杉浦重剛(明治9)らが含まれています。

■松井直吉は、美濃国大垣藩の出身で、大学南校でアトキンソンに化学を学び、文部省の国費留学生として米国コロンビア大学鉱山学科に留学、帰国後は帝国大学工科大学教授、同農科大学教授兼学長などを歴任、明治38年には東京帝国大学総長をつとめます。



  (photo:桜井錠二)
■桜井錠二は、加賀藩士の家に生まれ、父が早逝したために経済的な苦労をしますが、加賀藩のお雇い外国人教師オズボーンに英語で教育を受け、大学南校~東京開成学校でアトキンソンに学び、選ばれてロンドンのユニヴァーシティ・カレッジのウィリアムソン教授のもとへ留学します。初年度から首席となって奨学金を受け、有機水銀化合物の研究でロンドン化学会の会員として認められます。1881(明治14)年に帰国後は東京大学理学部講師となり、教授に昇進しますが、師匠と同じく原子論の立場を取り、初等中等教育における実験及び理論科学の重要性と意義を重視します。東京化学会の会長、東京帝国大学理科大学長となり、後の理化学研究所の前身となる研究所の設置をすすめます。

■杉浦重剛は近江国膳所藩の儒者の子として生まれ、漢学洋学を学び、藩の貢進生として大学南校に進み、選ばれて国費留学生としてイギリスに渡ります。はじめは農学を志すのですが、日本の農業には役立たないとこれを放棄、オーエンス・カレッジのロスコウ教授のもとへ移ります。ロスコウ教授は、実験観察を重視した優れた化学教科書を執筆発行したほか、南北戦争で失業したランカシャーの労働者のために「人民のための科学講義」という講演・教育活動を行うなどの事績が知られています。このあたりは、ファラデーの影響でしょうか。教授は、若い時代にユニヴァーシティ・カレッジでウィリアムソン教授に習っていますので、その点ではリービッヒ門下の孫弟子と言ってもよいでしょう。杉浦重剛は、ここではなんとか続いたようですが、さらにロンドンのサウスケンジントン校やロンドン大学に移ったら神経衰弱になってしまい、四年後の1880(明治13)年に帰国します。この後の国粋主義的言動は、おそらく英国留学時代の挫折経験が影響しているのではないかと考えられます。



このように、化学関係の留学生の行き先は、ほとんどがリービッヒ門下生またはその盟友の弟子たちのところであったということが分かります。リービッヒが開始した「実験室を通じて化学を学ぶ」という流儀が当時の大学教育を革新し、続々と生み出されるその門下生たちが、多くの大学に教授として就任していたわけですから、当然といえば当然の話です。

(*1):学制百年史:文部科学省
(*2):四:海外留学生と雇外国人教師~学制百年史:文部科学省
(*3):井本稔『日本の化学~100年のあゆみ』(1978,化学同人)

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明治初期の学生たちの大半は士族だった

2014年11月15日 06時02分56秒 | 歴史技術科学
明治初期に、お雇い外国人教師たちに師事した日本人学生は、どういう人たちであったのか。これは、圧倒的に士族が中心でした(*1)。廃藩置県の前は、各藩に貢進生と称して若く有能な青年たちを送り出すように命じますが、やがて廃藩置県によってこの制度も途絶えます。結局は、失業した元武士の子弟が、識字力と漢籍を中心とする教養及び一部は蘭学の知識を土台として、西洋の諸科学を吸収していくことになります。

残念ながら、明治初年のこの時期に、士農工商のうち農工商の身分の人たちには、学問をして立身出世という意識はまだありませんでした(*2)し、東京遊学を支える経済力を持つ中産階級や資産家は、まだそういう意識を持っていませんでした。



工部大学校や司法省法学校など、官立の高等教育機関は、給費生と私費生からなり、給費生は、学費はもとより制服などの諸経費や食費も官費で支給される代わりに、一定の年限を官に奉職する義務を負っていました。天野郁夫『学歴の社会史』によれば、明治9年の駒場農学校入学者の94%、明治13~18年の札幌農学校の卒業者の76%、明治13年の司法省法学校入学者の84%、明治18年の工部大学校在学者の72%が士族出身者であったとされています(同書p.52)。 また、明治11年の東京大学(法・理・文3学部)在学者157名の九割が給費生であり、在学者の4分の3が士族の子弟であるとの記録が残っているとのこと、このとき全人口に占める士族の比率は5~6%であったそうですので、いかに士族から官僚への道が中心であったかがわかります。

(*1):天野郁夫『学歴の社会史』(平凡社ライブラリー,2005)
(*2):明治11年の『日本帝国文部省年報」では「富豪ナル平民ノ子弟ノ未ダ専門学科ヲ攻究セントスル志気充分ナラザル」ため、とのことです。天野郁夫『学歴の社会史』p.48
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明治初期における科学・技術に関する専門的教育の状況

2014年11月14日 06時02分10秒 | 歴史技術科学
ここまで、開成学校と工部大学校を中心に、リービッヒ流の化学研究と教育のスタイルがどのように日本に伝えられたかを見てきました。この際ですので、明治初期の日本国内における科学・技術に関する専門的教育の状況を整理してみたいと思います。

明治維新のあと、国内の体制を固めるのにおおわらわだった明治政府ですが、人材育成に関しても、今で言う省庁ごとにバラバラで、統一的な教育政策のようなものは見られません。

例えば、1870(明治3)年に、民部省の一部が独立して設置された工部省には、山尾庸三の建白によって、殖産興業を担う人材育成のために、1871(明治4)年に工学寮が設置され、1873年に工部大学、1877年には工部大学校となります。残された写真を見る限り、石造りの実に立派な建物で、普通教育を行い留学生を送り出す役割を担う開成学校よりも、格段に立派です。開成学校を現在の東京大学のイメージで見るのは誤りで、工部大学校を大学レベルとするならば、開成学校は高等学校あるいは昔の教養部のような位置づけだったのでしょう。


(東京医学校)

江戸幕府時代の医学所は1868年に明治政府に接収されて医学校となり、1869(明治2)年には英国人医師ウィリスを教師に迎え、教育を開始します。1871(明治4)年には大学校の内紛に伴う閉鎖や、イギリス医学からドイツ医学への転換などがあり、1872(明治5)年の学制により第一大学医学校、次いで1874(明治7)年に東京医学校となります。1877(明治10)年には東京開成学校と統合されて東京大学となります。このあたりの、とくにウィリスの処遇とその後の影響については、吉村昭著『白い航跡』にかなり詳しく描かれており、興味深く読んだものでした(*1,2)。かつての東京医学校の建物は、小石川植物園内に移築されているそうです。

明治19年に官立学校の大合併で帝国大学が成立する以前に、「学士」の称号を与えることができた高等教育機関には、医学校と開成学校が合併した東京大学と、司法省法学校、工部省工部大学校、農商務省駒場農学校、そして開拓使札幌農学校の五つがありました。フランス風の法学を教えたという法学校については知識がありませんので省略しますが、内務省が設立した駒場農学校でも、リービッヒの盟友の門下生がお雇い外国人教師として奉職しておりました。


(駒場農学校)

1876(明治9)年に、英国からエドワード・キンチが来日し、駒場農学校において、化学分析に基づく農芸化学を教え、農学研究と農場における実践的研究を指導します。エドワード・キンチの詳しい経歴は不明ですが、後にA.H.チャーチの『The Laboratory Guide for Students of Agricultural Chemistry(農芸化学の学生のための実験室ガイド)』の編集改訂に携わった経歴からみて、実験室を通じて学生を理論と実験の両面から育てるスタイルを重視していたと考えられ、やはりリービッヒからウィリアムソンに続く流れの中にいた一人であると見て良いだろうと思います。キンチは、日本国内における英国流からドイツ流への転換を受けて、1881(明治14)年には帰国してしまい、かわってドイツからオスカル・ケルネルが来日します。

ケルネルは、リービッヒの盟友ヴェーラーの門下生であったヘルマン・コルベの下に学んだ化学者で、リービッヒ流の化学教育研究法を正しく日本に紹介した人の一人として知られている人物です。ケルネルは、1892(明治25)年に離日するまで、日本人女性と結婚し日本に永住する覚悟でいたようですが、故国ドイツからのたっての要請でやむなく帰国し、家畜飼料のエネルギー価の評価法を確立するなど大きな業績をあげ、オスカー・ケルネル研究所にその名を残しているとのことです。このあたりも、たんに英国からドイツ流に転換するというだけでなく、人選には英国のウィリアムソン教授の師匠すじの人、という推薦や判断が働いているような気がします。そして、駒場農学校のケルネル門下からも多くの人材が輩出しますが、後世にその名が残る人物としては、足尾鉱山鉱毒事件の関連で名高い古在由直がいます。


(*1):吉村昭『白い航跡(上)』を読む~「電網郊外散歩道」2009年8月
(*2):吉村昭『白い航跡(下)』を読む~「電網郊外散歩道」2009年8月

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お雇い外国人教師の活動

2014年11月13日 06時09分42秒 | 歴史技術科学
来日したお雇い外国人教師たちは、不案内な東洋の島国の、風俗や習慣もまるで異なる東京の町で、サムライ青年たちが中心となる若者たちに、それぞれの教育を始めます。

福井で実験室を作り化学教育を行っていたグリフィスは、廃藩置県で職を失い、東京に出て来た開成学校に化学実験室はなく、作られるという見通しもなく、途方に暮れたことでしょう。おそらく、まもなく帰国してしまった理由は、そのあたりにあったのではないかと推測しています。

後任として化学を担当したアトキンソンは、ガスも水道もない開成学校で、実験を通じて化学を学ぶという、リービッヒから師ウィリアムソン教授につながる教育のスタイルを実現しようと奮闘します。幸いに、直訴した伊藤博文らの応援などもあって、少しずつ実験室を整備し、教育と研究ができるようになっていきます。開成学校において行った授業は、定石通り定性分析から始めて定量分析に進みますが、当時の鉄鋼業の中心地ニューカッスルに育った人らしく鉄鋼の分析など冶金学の授業も行ったようです。彼の下からは久原躬弦、高松豊吉など36名の化学者が育ち、のちに彼らが中心となって東京化学会が設立されます。1878(明治11)年のことです。


(写真は工部大学校)

一方、工部大学校(*1)のダイアーやダイヴァースらは、近代的工業の存在しない日本で、母国イギリスでもまだ行われていない体系的な工業教育を開始します。とくにダイヴァースは、開成学校と比較して格段に優れた工部大学校の環境と優れた学生たちに恵まれて、1873(明治6)年から1899(明治32)年まで、26年間1度も日本を離れずに滞在しています。彼は、学生たちの間に研究の精神を養うことに努力し、実験を通じて地道に検討していくスタイルと気風を重視しました。工部大学校化学科で卒業した教え子は23名、1886(明治22)年に工部大学校が帝国大学に合体した後は、今風に言えば工学部ではなく理学部化学科に転じますが、ここでの卒業生が36名を数えます。教え子たちの名前の中には、アドレナリンとタカジアスターゼの高峰譲吉、下瀬火薬の下瀬雅允などが見られます。

しかしながら、高い給料を貰っているとはいうものの、故国を離れ、かつての仲間たちから取り残されていくような感覚を、彼らは感じたに違いありません。そんな空虚感をまぎらすかのように、明治初期の日本にいるからこそできるテーマを見つけ、研究をすすめ、発表を行っています。例えばダイヴァースは、次亜硝酸塩の発見やセレンとテルルの分離法など化学史上に残る成果をあげている化学者ですが、セレンやテルルの化合物の研究は下瀬雅允との研究であり、河喜多能達と雷酸塩の研究を、清水鉄と無機硫黄化合物の研究を行い、ロンドンの化学会誌に多数の報告を行っています(*2)。また、日本固有のテーマとして、「草津温泉の硫化水素の量」や「日本に落下した二つの隕石について」など6編の報告を行っている(*3)とのことです。

アトキンソンもまた、1878(明治11)年に「The Water Supply of Tokio」という報告を発表しています。これは、大都市東京の上水道の水質を化学分析して科学的報告にまとめあげた(*3)もので、木製の樋を継ぎ合わせ、縦横に引いた水路の腐食により、上水の水質が雨水や下水等の混入によって悪化する理由と実態を明らかにしようとするものでした。江戸時代にしばしば流行したコレラや赤痢などの伝染病の経路を考えれば、実に重要な研究と言えます。これらの研究の進展を目の当たりにした学生たちの意識は、確実に変化していったことでしょう。時代的な条件を考えれば、化学技術は主として殖産興業のために用いられたことは確かでしょうが、現実を重視し実地に行われる化学研究と教育は、当初の目的にとどまらず、別のリアルな現実認識をも生み出してしまうという性格があるからです。この点、渡良瀬川流域の鉱毒調査を行った古在由直のところで、再び取り上げることとしましょう。

(*1):工部大学校~Wikipediaの記述
(*2):井本稔『日本の化学~100年のあゆみ』(1978,化学同人),p.29
(*3):塩川久男「お雇い外人教師ーグリフィス、ダイヴァース、アトキンソンー」、『科学と実験』1978年11月号、p.40-43,(共立出版)


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お雇い外国人教師たちの人選と推薦

2014年09月09日 06時02分39秒 | 歴史技術科学
明治維新にともなう内乱を経て、ようやく近代的な国づくりに着手した明治政府は、学校制度をととのえるとともに、近代化の担い手となる人材を育成すべく、外国人教師を招聘することを決定します。でも、偉そうに「決定」するにしても、誰を招聘するかについては、また別の問題です。

外国人教師の招聘には、幕府も一部の有力大藩も、若干の実績がありました。たとえば、1859年に宣教師として来日したフルベッキは、越前福井藩のために、自分の所属する教会を通じ、おもに化学と自然科学を教える人の推薦を依頼し、1870(明治3)年にアメリカからウィリアム・エリオット・グリフィスを迎えます。グリフィスは、1872年には東京の開成学校に移り、実験室もない環境の中で化学を教えています。今でいえば、レベルはあまり高くないものの、供覧実験を通じて化学に興味を持たせる役割を果たしたようです。宗教的な縁でもあまり長続きはしなかったようで、1874年には帰国してしまいます。

考えてみれば、内乱の直後、すぐに人斬り刀を振り回す東洋の野蛮な島国に、教師として赴こうとする青年はそうはいないでしょう。それに対して、明治政府には貴重な人脈がありました。残念ながら、私の興味関心の範囲の理工学系だけに限られてしまいますが、その範囲内での話です。
1870(明治3)年、伊藤博文は、同じ密航留学生仲間で明治元年には帰国していた山尾庸三を、長州から東京に呼び出します。山尾は、民部省及び大蔵省の役人としての仕事から横須賀造船所の再生の仕事へ、そして工部省設置や訓盲院設立の建白と精力的に活躍しており、念願の工学校は1872(明治5)年に建設されます。翌1873(明治6)年には、都検という職(身分は教頭だが実質的には校長)でグラスゴー大学からヘンリー・ダイアーを招聘し、開校します。


(ヘンリー・ダイアー)

1848年生まれのダイアーは、来日時には25歳。実はグラスゴーの工場勤務(徒弟修行?)のかたわら、夜学のアンダーソン・カレッジで学び、ここで山尾庸三と一緒だったようです。優秀で勤勉な学生だったようで、奨学金を受けてグラスゴー大学で近代エンジニアリングの先駆者であるウィリアム・ランキン教授などに学び、卒業しています。階級社会である英国では、理論は尊重されますが、実際の技術は下に見られ、教育システム面でも理論と実践が分離していました。ダイアーは、スイスのチューリヒ工科大学などを参考にしながら、東洋の島国において、理論と実践とを併行して学ぶ理想的な工学教育を実現しようと努めます。


(エドワード・ダイヴァース)

ダイアーの下で実際に指導を行う外国人教師として8名が招聘されますが、その中の1人がエドワード・ダイヴァースでした。1873年生まれのダイヴァースは、山尾庸三と同い年です。幼児期に眼の炎症によって弱視となりましたが、13歳で The City of London Schoolに入学します。ここには、リービッヒが顧問となった王立化学カレッジでA.W.ホフマンの教えを受けたT.ホールという教師がいて、正規の化学と自然哲学の授業のほかに、希望者のために、実験をまじえた講義を行っており、これによって化学に目覚めたようです。卒業後に師の母校である王立化学カレッジでホフマンの指導を受け、アイルランドで教育経験を積んだのち、1866年にはロンドンに居を定めています。ダイヴァースには教師としての才能があったようで、学生たちを魅了したことから、ウィリアムソン教授とW.オドリング教授の推薦によって、来日しています。


(開成学校の開校式)

もう一つの学校、開成学校にもまた、外国人教師を招聘する必要がありました。幕府の蕃所調所をルーツにする開成所はいったん閉鎖されますが、明治政府により再開され、大学南校を経て開成学校、さらに東京開成学校と毎年のように改称します。当初は、語学を中心とした留学生の予備教育が主眼で、とても大学教育のレベルではなかったようですが、なんとか体制を整備しつつありました。そこで、化学の教授として、こちらもウィリアムソン教授の推薦により、1974(明治7)年にロバート・ウィリアム・アトキンソンを迎えます。アトキンソンは、いわばウィリアムソン教授の最優秀な秘蔵っ子のような存在ですが、ダイヴァースと同様、やはり奨学金を受けてユニヴァーシティ・カレッジに学んでいるように、経済的な動機もあったのではないかと思われます。


(ロバート・ウィリアム・アトキンソン)

山尾庸三が建白して成立した工部大学校は、予算を潤沢に使い、学生には制服も生活用品も支給され、実験室や実習室などの施設設備も充実していましたが、開成学校はとてもそんな状況にはなく、学生実験室の整備について、伊藤博文に頼んだりしたこともあったようです。実験室を通じた教育により理論と実験(実践)の力を兼ね備えた学生を育てる、というリービッヒ以来の流儀が東京開成学校=今の東京大学に伝えられたのは、アトキンソンの苦闘によるものと言えるでしょう。

ダイアー、ダイヴァース、アトキンソンの三人の共通点は滞日期間が長いことで、ダイアーは9年、アトキンソンは7年、ダイヴァースは26年となっています。


(*):塩川久男「お雇い外人教師ーグリフィス、ダイバース、アトキンソンー」、「科学の実験」(共立出版)、1978年11月号、p.40-43
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明治維新と近代化を担う人材の養成

2014年09月07日 06時02分02秒 | 歴史技術科学
英語では、明治維新を何というのか調べてみると、"the Meiji Restoration" というのだそうです。revolution ではなく restoration ということは、権力の所在がどこに移ったかに注目した、返還・修復・復元といったイメージなのでしょう。たしかに、1867年の大政奉還や1869年の版籍奉還などはその語のイメージに合致します。

でも、王政復古の大号令は建前として掲げたものの、1871(明治4)年の廃藩置県や翌1872(明治5)年の地租改正などの明治初年の中央集権化と、それをベースに行われた数々の近代化政策は、レストアとは違うでしょう。たとえば明治4年の郵便制度や円を導入した通貨制度の発足、明治5年の学制改革と徴兵令あるいは鉄道の開通、井上馨が携わった翌年の耶蘇教禁制の撤廃など、近代国家の形を作ろうとした一連の動きは、復古ではありえません。

中学や高校で習った日本史における政治的な動きは、実は元テロリスト(^o^;)みたいな明治の元老たちの権力争いのように思えてしまいますし、表面的な枠組みは作ったものの、実質的な中身を作り、運営するには、薩長の元志士たちだけではできなかったのだろうと思われます。では、近代的な制度を運営する人々を養成するには、どうすればよいのか?

その答えは、おそらく
(1) 旧幕時代の実務家の登用
(2) 外国人教師の招聘
(3) 留学生の派遣
(4) 学校の教育内容の整備
などであったろうと思われます。

このうち、(1)の旧幕時代の実務家の登用は、蘭学・洋学の蓄積が背景にありました。
(2)の外国人教師の招聘や(3)の留学生の派遣には、薩長の密航留学生や、彼らをあっせんしたジャーディン・マセソン商会、グラバー商会の縁がありました。
(4)の学校の教育内容の整備は、教科書の作成や教材教具・施設設備などはすぐ思いつきますが、実は明治初年の日本の現実の中で、何をどのような順序で教育していくべきかという教育的識見が最も重要であったろうと思われます。外国人教師や留学生たちが、自分の趣味嗜好や思い付きで構想したのではない、というところが重要でしょう。

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ウィリアムソン教授と密航留学生たちの関わりは薩摩藩にも

2014年08月18日 06時01分24秒 | 歴史技術科学
明治の日本に話題を移す前に、犬塚孝明著『密航留学生の明治維新』をもとに、ウィリアムソン教授と密航留学生たちの関わりの深さを、もう少し紹介しておきましょう。

長州藩からは、最初の五人の他にも、高杉晋作に鼓舞されて南貞助と山崎小三郎が渡英してきます。ところが高杉は、渡航費用だけは用意したものの、生活費のことを全く考慮していませんでした。山崎小三郎は、造船技術の実地研究のためグラスゴーに去った山尾庸三の後にクーパー邸になんとか入ることができたものの、朝夕の食事も衣服も、真冬のロンドンで暖をとることもままならない困窮生活におちいります。グラバー商会のハリソンの父親が見かねて月額25ポンドほどの金銭援助をしてくれたようですが、ついに肺結核にたおれてしまいます。このとき、ウィリアムソン教授夫妻は山崎小三郎を自邸に移し、エマ夫人が懇切に世話をしてくれたそうです。しかし、過労と栄養失調のため、病気はすでにかなり進行しておりました。ついに入院の事態となった山崎小三郎は、治療と看護の甲斐なく、三月初め頃に病死してしまいます。享年22歳でした。

当時の地元紙(The London and China Express)は、教育上の目的で来英していた日本人士官の客死を小さく報じ、「ユニヴァーシティ・カレッジのウィリアムソン教授および12名の日本人学生たちが出席して葬儀がとり行われた」(p.127)ことを伝えているとのことです。

山崎小三郎の死は、不謹慎な言い方ですが、アジテーターに煽動され活動家となった若者が犠牲となる構図にあてはまり、在英の野村弥吉からの知らせを伊藤俊輔が井上聞多に伝えた書簡にあるように、

山崎の病気畢竟衣食足らず、朝夕余りの困難を経、其上異郷言語等も通ぜず、かつは自国の事を煩悶して休まず、終に此病を醸すに至る、此以後は必ず外国へ人を出すなれば、先づ金等の事を弁じ、其上ならでは決て送りくれ申さず様との事に御座候。

というのは、全くその通りであると思います。

ところで、葬儀に出席した日本人留学生の人数が12名と報じられているのは、実は野村弥吉と南貞助の他に、薩摩藩からの留学生10名が含まれておりました。英国への密航留学生については薩摩藩からも組織的に派遣(*3)されており、金のない山尾庸三が、たまたまロンドンで薩摩藩の留学生と出会って、グラスゴー行きの旅費を借りて旅立っていたようです。東洋の野蛮人と人種差別を受けても不思議ではない英国社会にあって、留学生たちは薩摩だ長州だといがみ合うことの愚を痛感していたことでしょう。ジャーディン・マセソン商会やグラバー商会の斡旋に加えて、留学では先輩にあたる山尾が薩摩藩留学生たちにカレッジ生活を案内し、ウィリアムソン教授やヒュー・マセソン、画家のクーパーなどが支援する留学生サークルのような集まりを形成したのかもしれません。山尾がグラスゴーの造船所に去った後に、困窮の中で病死した一人の留学生仲間の葬儀は、国家の近代化という当面する課題を超えて、様々な人生上の疑問を生んだものと思われます。19名で渡英していた薩摩藩留学生たちはやがて分裂し、森有礼らは、留学生サークルに近づいた宗教家の示唆した、西欧文明社会の裏面をキリスト教に基づく宗教的共同体で乗り越えるという幻想に取り付かれてアメリカに渡ります。しかし、英国に残った者たちは、ウィリアムソン教授の分析化学からさらに進んで、数理物理学(野村弥吉)などの学習に取り組みます。

こうして、英国に渡った幕末の先覚者たちは、ウィリアムソン教授との関わりを支えにしながら、ロンドンからグラスゴー等へと地理的な広がりを見せていったと考えられます。山尾庸三は、グラスゴーの造船所で働きながら、工員のための教育を通じて後に日本の工学教育の祖となるダイアーと知り合っているようです。

次は、明治維新の激動の経過は一切省略し、お雇い外国人教師が日本に残したものを見ていきたいと思います。

(*1):日英関係の始まりに見る、ある英国人の無償の愛~ニュース・ダイジェスト,2010年5月 ~いささか美化しすぎの感もありますが、山崎小三郎らの墓と、すぐそばにウィリアムソン教授の墓があることが紹介されています。
(*2):総領事館ほっとライン第6回:ロンドンの墓地で先人の足跡をしのぶ~時事通信「世界週報」より ~日英関係にはもう少し古い関わりがあることを紹介しつつ、山崎小三郎ら客死した密航留学生を紹介しています。
(*3):長州ファイブと薩摩スチューデント~英国ニュースダイジェスト
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長州藩の密航留学生は何を学んだか

2014年08月17日 06時05分32秒 | 歴史技術科学
犬塚孝明著『密航留学生たちの明治維新』(*1)によれば、「長州藩の五人の留学生を一緒に住まわせるには、プロヴォスト街の博士の家はあまりにも手狭であった」ために、「マセソンは井上と山尾の二人を、カレッジのすぐ前のガワー街103番地のクーパー邸に寄宿させることにし」ます(p.86~87)。主人のアレクサンダー・D・クーパーは、風俗画を得意とする画家で、その妻もアカデミー出品作家の一人だったとのことですが、この時代はちょうど美術界にオリエンタリズムが流行していた頃でもあり、東洋のサムライ青年を受け入れることは、画業の上でもメリットを感じたのかもしれません。

プロヴォスト街のウィリアムソン博士邸の三名(伊藤、野村、遠藤)とガワー街のクーパー邸の二人(山尾、井上)は、英会話の学習を経て、ユニヴァーシティ・カレッジに科目聴講生(Students not Matriculated)として入学(*2)します。これは、学びたい科目を選んで授業料を払い、講義に出席するもので、Ph.D.を授与される正規の学生ではありません。『密航留学生たちの明治維新』によれば、1864年7月22日付の学生登録簿(Register of Students)には、山尾、伊藤、野村、遠藤の4名が2ヶ月~7ヶ月分の分析化学(Analytical Chemistry)の授業料を納入し、聴講者となったことが記録されているとのことです。担当は、もちろんウィリアムソン博士でした。

この科目の特色は、化学を初めて学ぶ者をも対象とした実験室教育であることで、理論の学習とともに、新設のバークベック実験室で、数名の助手の協力のもと、自ら試すことができるというところにありました。まさに、ギーセン大学におけるリービッヒ流の教育方法です。バークベック実験室というのは、まさにこの年、1864年に、ジョージ・バークベック博士を記念して開設された、当時の最新設備を誇る実験室で、クリスマスやイースターをのぞき、毎日午前9時から午後4時まで開放され、多くの学生が勉学に利用していた施設とのことです。

密航留学生たちは、おそらく朝晩はウィリアムソン夫妻やクーパー夫妻とともに英語等を学び、日中はカレッジに行って実験室で化学の実験と学習に明け暮れるという生活を送ったのでしょう。英語は多少不自由でも、実地に試しながら学ぶことができる画期的なシステムのおかげで、化学の初歩から少しずつ積み上げて行き、学習期間から判断して、おそらく未知試料の分析なども経験したことと思われます。

分析化学実験、例えば金属陽イオンの定性分析というものは、かつて私の学生時代には「19世紀以来の古色蒼然たる実験技術」と陰口をきいたものでしたが、幕末の密航留学生が初めて体験する場面を想像すると、まるで違った色合いで見えてきます。たぶん、黒板とチョークと書物によって、高尚な理論を説くやり方では、定性分析や定量分析など分析化学の内容の理解は困難だったでしょう。実験室で実地に色の変化や沈殿の分離操作などを通じて成分元素を推定したり、量的な考察を行うような経験は、幕末の青年武士たちには格別に鮮明に印象づけられたことと思います。例えば未知試料を一定の手順で処理していくことによって、その成分を分離し同定することができる。それは、階級、宗教、人種や国籍によらず、きちんと学んだ者であれば誰でもが可能となる、西洋文明の技術的基盤の一つであり、ウィリアムソン博士は自分の信念に基づき(*3)、東洋のサムライ留学生達に、それを伝えたのではないか。

授業の合間や休日に、密航留学生たちは、当初の目的である海軍学を越えて、イングランド銀行や造幣局、博物館、美術館など各所へ通い、西欧文明の精華を吸収しようと努めていたようです。実際には、見学すべき場所について、ウィリアムソン博士やマセソンらの助言があったことでしょうが、英国の中央銀行であるイングランド銀行で紙幣の印刷を見学して感嘆するというのは、当時の武士の見識から見て、かなりの飛躍を感じます。おそらく、彼らは彼らなりに、英国の文明社会を分析し、根底をなす構成要素に到達しようと考え続けていたからではなかろうか。それが、例えば中央銀行と全国共通紙幣の発行であり、交通・物流の体系としての鉄道網であり、科学や技術の教育であるというように、その後の彼らの人生において主要なテーマになっていったのではなかろうか、と考える次第です。



井上聞多と伊藤俊輔は、新聞を通じて、無謀な攘夷を決行した長州藩に対する四ヶ国の制裁計画を知り、急ぎ帰国して下関戦争の講話交渉にあたるわけですが、外交的・政治的局面はさておいて、もう一度、長州藩の密航留学生の名前と帰国後の仕事を一覧してみましょう。

井上聞多、天保六(1835)年生まれ、井上馨、外務大臣
遠藤謹助、天保七(1936)年生まれ、大阪造幣局長
山尾庸三、天保八(1837)年生まれ、工部大学校、盲唖学校を設立
伊藤俊輔、天保十二(1841)年生まれ、伊藤博文、内閣総理大臣
野村弥吉、天保十四(1843)年生まれ、井上勝、鉄道局長官

一足早く帰国した二人は、識見を買われて政治家としての役割を果たすこととなりましたが、他の三人は、テクノクラートの道を歩むことになります。そしてその道は、たんに自分が鉄道が好きだから鉄道をやる、と決めたのではなさそうです。技術的視点からという制約はありましたが、西欧文明社会を分析し、その根底にある要素を抽出し、日本に移すことによって、極東に西欧文明に基づく社会を再構成することを考えた、というふうに読み取れます。

いずれにしろ、五人の密航留学生たちは、リービッヒ流の教育システムを通じ、ウィリアムソン教授や学友たちから、西欧文明を構成する要素を探る考え方を学んでいったのではないか。ウィリアムソン教授を通じて受け継がれたのは、リービッヒ流の実験実証主義や教育システムであるとともに、オーギュスト・コント等の自由主義的な産業社会の見方・考え方であったろうと思われます。

写真は、ロンドンのイングランド銀行です。

(*1):犬塚孝明著『密航留学生たちの明治維新』等を読む~「電網郊外散歩道」2014年1月
(*2):当時、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンには、法文学部(Faculty of Arts & Laws)と医学部とがあったようですが、密航留学生たちは法文学部に聴講生として入学したようです。ただし、柏木肇「西欧の化学ー19世紀化学の思想その4、イギリスにおける化学の職業と科学運動」雑誌『科学の実験』1978年7月号p.575には、「医学部の中に化学教育を置き」とありますので、正規の学生としてであれば、医学部だったかと想像しています。
(*3):ダーウィンと同時代に生きたウィリアムソン教授は、1863年に39歳でイギリス化学会の会長に就任しますが、原子論を信奉することが会長にふさわしくないとして一度退任させられています。しかし自分の信念を曲げず、後年ふたたび会長職に就任しているように、学問的業績と識見の豊かさだけでない、強い信念の人でもありました。

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長州藩の密航留学生が暮らしはじめた環境

2014年07月24日 06時03分48秒 | 歴史技術科学

長州藩から英国へ密航留学して来た五人のサムライ青年たちの世話役となったヒュー・マセソンの証言(*1)によれば、



私は彼らにふさわしい処に下宿させ、教育への準備に取りかかった。極めて幸運なことに、ユニヴァーシティ・カレッジの化学教授で、のちに英国協会(*2)の会長となったウィリアムソン博士にお願いし、彼らを博士の家に下宿させてもらうことができた。教授と相談の上、私は彼らが多少なりとも英語が学べ、しかも真に良い教育(a really good education)の基礎づくりの準備ができるクラスに入れるようにとり計らった。この点で、ウィリアムソン博士の助言はたいへん貴重なものであった。(後略)」


とされています。

たしかに、現代においても、外国人留学生を受け入れるには、いきなり正課の講義に放り込むようなことはせず、まず一定期間の語学や日常生活習慣、礼儀作法などの訓練を行った後に、本人の希望を聞きながら、受講科目を相談するのが標準的なやり方だろうと思います。たぶん、これは洋の東西、時代を問わず、必要な段階なのだろうと思われます。

では、ウィリアムソン博士とエマ夫人が住む自宅はどこにあったのか。犬塚孝明氏の著書(*1)では、プロヴォスト街(Provost Road)の「ごく小さな家」とあり、そこはアデレード街(Adelade Road)の北側に位置し、プリムローズ・ヒル(Primrose Hill)の駅にも近く、ハムステッド(Hamstead)と呼ばれる地域で、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンまでは約3キロほどの道のり(p.87)と紹介されています。

そこで、Google の「地図」で「London Provost Rd.」で検索してみると、

<iframe src="https://maps.google.co.jp/maps?q=London+Provost+Rd.&ie=UTF8&hl=ja&hq=&hnear=Provost+Rd,+London,+%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9&ll=51.544547,-0.157372&spn=0.010209,0.013905&t=m&z=14&brcurrent=3,0x0:0x0,0&output=embed" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" width="425" height="350"></iframe>大きな地図で見る

現在のプロヴォスト街の地図が表示されます。さらに、縮尺を変更してズームインしてみると、これらの位置関係が確かめられますし、Provost Rd. のストリートビューを見ると、洒落た住宅街ではあるけれど、大邸宅が並ぶ街ではないことがよくわかります。昔と今と、街の様子が同じとは限りませんが、少なくとも周囲を圧する大邸宅があった街ではなさそうです。

ウィリアムソン博士自身は、おそらくは中産階級、それも召使いを何人も抱えているような恵まれた中産階級ではなく、当時の化学の社会的位置づけからみても、せいぜい召使いを一人雇える程度の経済的背景だったではないかと思われます。そこに、サムライ留学生の支払う学費や下宿料が、研究費や化学会会長としての交際費などに役立ったのではないか。

東洋のサムライ青年たちを下宿させることについては、ヴィクトリア時代の慣習で夫の意志が強く働いたとはいえ、夫人の了解も必要だったことでしょう。幸いなことに、教授自身がギーセン大学のリービッヒの研究室で、多国籍な学生たちと生活した経験があり、オーギュスト・コントの下で学び、人種や国籍や宗教、習慣などの偏見から自由であったこと、いわばコスモポリタン的な意識が濃厚であったことが大きいでしょう。また、エマ夫人も、教授の身体的なハンディキャップ(*3)を承知で結婚しているわけで、夫の見識に理解と共感を示していた、進歩的な女性だったのではないかと想像しています。あるいは、過去にヨーロッパの他国の学生を受け入れたこともあったのかもしれません。

(*1):犬塚孝明『密航留学生たちの明治維新~井上馨と幕末藩士』
(*2):王立協会のことか。
(*3):ウィリアムソン教授のこと~「電網郊外散歩道」2014年6月

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密航留学生を受け入れた英国側の事情

2014年07月15日 06時04分48秒 | 歴史技術科学
ジャーディン・マセソン商会とは、そもそもどんな会社なのか。Wikipedia(*1)によれば、1832年、スコットランド出身で、東インド会社の元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディン

とジェームス・マセソン

により、中国の広州に設立された貿易会社とのことです。当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出だったそうで、1840年頃、アヘンの流入と銀の流出を規制すべく、林則徐がアヘンを差し押さえた事件の際には、どうやら当事者側だったと言えそうです。ジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は、わずかに九票差という僅差でイギリス軍の派遣を決定し、アヘン戦争が起こったことになります。英国が行っていた、綿製品をインドへ、インドのアヘンを中国(清)へ、中国の茶をイギリスへ、という三角貿易の二つを扱うわけですから、いわば英国政府公認の

商売のためなら戦争をも辞さない政商

であった、ということでしょう。僅差だったというところに少し救われる思いはするものの、アヘン貿易を軍事力で強制した大英帝国の非情さを見ることができます。

では、長州藩の五人の青年が英国に密航留学を希望していると伝えられたとき、ジャーディン・マセソン商会横浜支店としては、どんな対応をしたのでしょう。考えられることは、

(1) そもそも英国政府は入国を許可するのか。
(2) いざというとき、例えば刀を振り回して死傷者が出た場合など、補償できるのか。
(3) 受け入れてくれる滞在先はあるのか。

などがありましょう。

(1) については、英国政府のアジア政策から見て、中国重視の姿勢は変わらないものの、日英関係は重視していますので、長州藩の中に親英勢力を育成するために許可すると見込めること。これは、横浜の英国領事とも打ち合わせ済でしょう。
(2) については、ガワーと山尾が個人的に面識があったとしても、金銭保証を含めて高額の費用を負担させる必要がありましょう。そのための一人千両でしょうか。
(3) 問題となる受入先については、当時ウィリアムソン博士の助手をつとめていたフォスターの回想の中に、マセソンに密航留学生の教育係としてウィリアムソン博士を推薦したのは、ユニヴァーシティ・カレッジの評議員であったプレヴォスト卿であった(*2)とされているそうです。おそらく、ウィリアムソン博士の人柄と見識を見込んでの推薦だったのでしょう。

当時、ジャーディン・マセソン商会のロンドン支店を取り仕切っていたのは、創業者ジェームス・マセソンの甥のヒュー・マセソンでした。そういえば、横浜支店長のウィリアム・ケズウィックも、創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子にあたるそうで、要するに強固な同族会社なのですね。ちなみに、長崎のグラバー商会は、ジャーディン・マセソン商会の代理店としてスタートしているそうです。


(*1):ジャーディン・マセソン~Wikipediaの解説
(*2):犬塚孝明『密航留学生たちの明治維新』(NHKブックス)

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