電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

長州藩から五人の若者が英国に密航留学するまで

2014年07月09日 06時03分13秒 | 歴史技術科学
黒船来航から八年が経過していた文久元(1861)年に、海軍力の整備を目指す長州藩は、横浜のジャーディン・マセソン商会から木造帆船「癸亥丸」を購入します。このとき測量方として乗り組んでいたのが山尾庸三で、山尾はマセソン商会横浜支店の責任者であったサミュエル・J.ガワーと知り合います。このガワーは、どうやら横浜の英国領事のエイベル・J.ガワーとは別人らしい。エイベル・ガワーのほうは、吉村昭『黒船』で描かれたように、幕末の通詞・英語学者である堀達之助が晩年に苦労した、英国領事がアイヌの人骨を盗掘した事件(*1)を解決した、有能な外交官です。

横浜には、すでに居留地が作られておりました。ただし、国が金を出さないためにイギリス人が金をだし、洋風に整備した土地に排他的な自治権を設定していた上海などとは異なり、横浜の場合は資金の多くを幕府が出していたため、外国人の排他的な自治権が認められてはいませんでした。横浜には日本人も出入り自由であったために、攘夷論者たちによるイギリス公使館焼き討ち事件のような物騒なことも可能であったと考えられます。

当時、イギリス公使館を焼き討ちしたとか、孝明天皇の廃位を調査していると誤解して塙忠宝を暗殺したとか、とかくの噂の絶えない攘夷のエネルギーは、例えば高杉晋作らに煽動されたものでしたが、やがて佐久間象山の指摘によって、西洋の、とくにイギリスの海軍学を実地に学んで帰ることを決意し、長州藩主・毛利敬親の内諾を得て、海外密航留学を具体的に模索し始めます。この目標のもとにまとまったのが次の五人、いわゆる長州五傑です。

井上聞多、天保六(1835)年生まれ、28歳、小姓役
遠藤謹助、天保七(1936)年生まれ、27歳、壬戊丸乗組
山尾庸三、天保八(1837)年生まれ、26歳、壬戊丸測量方
伊藤俊輔、天保十二(1841)年生まれ、22歳、京都内用掛
野村弥吉、天保十四(1843)年生まれ、20歳、壬戊丸船将

彼らは、横浜でガワー(英国領事エイベル・ガワーまたはマセソン商会のサミュエル・ガワー)(*2)およびジャーディン・マセソン商会の横浜支店長ウィリアム・ケズウィックを通じて、英国に密航留学することを計画します。志道家を離れて旧姓に戻した井上聞多が藩主の内命を得ていたものの、旅費・滞在費・学費を合わせて、必要な金額は一人千両、五人で五千両です。試しに一両=十万円として現代の貨幣価値で換算してみると、一人当たり一億円。ずいぶんふっかけたものです。これでは御手許金だけではとてもじゃないが不足で、五人は頭を抱えます。ところが、そこはメンバーの一人の知恵で、藩の銃砲購入資金一万両の中から五千両を借り受けるという形を取って英国に渡航できることになります。

横浜から上海まではマセソン商会の船を使えたものの、上海から英国までの渡航に際しては、言葉の間違いから船員見習いの扱いをされてしまいます(*3)。これも考えようで、この扱いを耐え抜いたために、英国社会の中でも暴発して刀を抜いたりしないで済む、忍耐強い心構えができたのかもしれません。

ようやくロンドンに到着し、マセソン商会からの出迎えのおかげでホテルで五人が再会することができ、目指すユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに入るため、まもなくガワー街のフラットに移ります。むしろそこからが、彼らの英国留学の真の始まりでした。写真は Wikimedia より、1865年頃のロンドンだそうです。

(*1):幕末の英和対訳辞書草稿の発見と吉村昭『黒船』を読む~「電網郊外散歩道」2007年8月
(*2):たぶん山尾がサミュエル・ガワーを通じてマセソン商会とコンタクトし、支店長のケズウィックが英国領事のエイベル・ガワーに話を持っていったと考えるほうが、話の流れが自然です。
(*3):このあたりは、映画「長州ファイブ」がわかりやすく描いています。
(*4):この項は、全体に犬塚孝明著『密航留学生たちの明治維新』(NHKブックス)によるところが大きいです。記して感謝いたします。

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黒船来航とその反応

2014年07月03日 06時03分51秒 | 歴史技術科学
嘉永六(1853)年、ペリー率いるアメリカ合衆国の東インド艦隊の黒船四隻が、日本に来航しました。東京湾一帯の村々や江戸幕府が大騒ぎしたことは想像に難くありませんが、ペリーが突きつけた開国と和親条約締結の要求は、鎖国日本の国是を揺るがす大問題でした。



時の老中阿部正弘は、現代風に言えば情報封鎖ではなく情報公開の立場を選択します。大名だけでなく一般庶民にまで、黒船来航の事実を知らせ、あるいはこれに対処する方策を問うたのだそうです。このため、全国各地に様々な黒船絵図やペリーの肖像画が残っているそうです。

中央から遠く離れた出羽の国、今で言えば山形県天童市にも、黒船来航の絵図が伝えられました。残念ながらこの年の「御用書留帖」に記載はない(*1)ものの、嘉永六年当時に名主をつとめた旧家に「嘉永六丑年 浦賀図入」と表書きのある古文書が伝えられております。この中身は、表記を現代風に変えれば、

(1) 三本マストの外輪船の彩色絵図。旗艦サスケハナ号か。

(2) ペルリ立像。彩色絵図。「当節北アメリカ国より使節、役人 名は水師提督ベルリ」

(3) 江戸湾大縮尺絵図。「嘉永六癸丑年六月三日 アメリカ船渡来の場所」
(4) 浦賀潟小縮尺絵図。台場の配置、担当の藩名などを記載。


というものです。おそらく、写を取って次の村に伝えるなどのやり方で村々の名主のもとに伝えられ、そこから一般庶民に伝えられたと考えられ、当時の情報伝達のスタイルがうかがえます。御用書留帖への記載がないところを見ると、臨時的な伝達ルートだったのかもしれません。

当時の庶民の反応は不明ですが、結果的に幕府の権威の低下につながり、大きくは後の明治維新の伏線になったのではないかと思われます。少なくとも、「夷狄討つべし」という攘夷論が大きく盛り上がったという形跡は、当地には見られないようです。

しかしながら、日本国内の一部には、過激な攘夷論が一定の影響力を持ち始めていました。要するに権力争いの旗印に過ぎないのに、本気で攘夷を叫ぶ者、若者を煽動する者、テロルによって反対意見を封殺する者、それらの動きを苦々しく見守る者など様々なレベルはありましたが、「尊皇攘夷か開国か」は、時代の先鋭な対立点になっていきます。その激動の中心の一つが、今の山口県にあたる長州藩でした。


(*1):『天童市史編集史料第7号』には、嘉永七年の「御触書(外国船取扱)」(p.82)として、現代表記に直せば「豆州下田湊に滞留のアメリカ船、今般残らず帰帆いたし候。この段、心得の為に向々(それぞれ)へ達せらるべく候」とあり、アメリカ船が来航した事実は確かに伝えられているようです。同じ御触書では、下田と函館の両港にアメリカ船が船繋ぎを差し許された件も、淡々と知らせています。

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ウィリアムソン教授のこと

2014年06月28日 06時04分32秒 | 歴史技術科学
アレクサンダー・ウィリアム・ウィリアムソンは、1824年生まれのイギリスの化学者で、ハイデルベルクでグメリンについて化学を学び、20歳の1844年から22歳となる1846年まで、ギーセンのリービッヒのもとに留学します。リービッヒの化学教室としては開設後20年を経過した時期で、リービッヒ自身がロンドンの王立協会のフェローに選出され、科学の業績に対して贈られる最古の賞であるコプリ・メダルを受けるなど、充実した研究教育を行っていました。ギーセン大学で三年間リービッヒの下で学んだウィリアムソンは、ではその後はまっしぐらに化学の道に進んだかというと、そうではありませんでした。

父親の仕事の関係で幼馴染であった友人J.S.ミルの推薦によって、パリのオーギュスト・コントの下で、ウイリアムソンはさらに高等数学を学びます。コントといえば社会学の祖の一人ですから、「日本的常識」に従えば「社会学=文系=数学苦手(^o^;)」となるところですが、実はコントはエコール・ポリテクニークで数学を専攻した学者で、フランス革命の後の市民社会の危機を、想像的神学に基づく軍事的社会から理性と論理に基づく法律的社会へ、そして実証的観察に基づく科学に立脚した産業的社会へと移行発展していくことにより克服することができる、と主張した人です。化学者ウィリアムソンは、リービッヒの革命的な教育研究システムとその背後にある教育思想を身に付け、さらに功利主義を唱えた友人J.S.ミルを通じて紹介された在野の学者オーギュスト・コントに高等数学を学ぶかたわら、コントの実証主義による産業的社会の理想・理念を、カール・マルクス等とは別の形で~おそらくはコスモポリタン的な形で~受け継いだのであろうと想像できます。

1849年、ウィリアムソンは25歳でロンドン大学の実用化学の教授に指名され(*1)、63歳となる1887年に退くまでその教授職にありました。1855年(31歳)には王立協会の会員となり、エマ・キャスリーン・キイと結婚します。夫人はカレッジの比較文法学の教授トーマス・H.キイ博士の三女で、まずは中産階級以上の出身とみなして良いでしょう。夫妻はロンドン大学まで3kmほどのプロヴォスト街の家に住み始めます。

さて、ウィリアムソン教授の研究テーマは、アルコールとエーテルが中心で、通常はアルコールに130~140℃で濃硫酸を作用させると水分子が取れて(脱水縮合)、対称なエーテルができます。例えば、メタノールを原料とすればジメチルエーテルが、エタノールを原料とすればジエチルエーテルができます。

CH3-OH + HO-CH3 → CH3-O-CH3 + H2O    (ジメチルエーテル)
C2H5-OH + HO-C2H5 → C2H5-O-C2H5 + H2O   (ジエチルエーテル)

このあたりは、高校化学で習うところですが、私自身、高校生の頃に、ふと疑問に思ったことがありました。もし、メタノールとエタノールを混合して濃硫酸を加えたら、エチルメチルエーテルを作ることはできるのか? たぶん、ジメチルエーテルとジエチルエーテル、それにエチルメチルエーテルの三種混合が生成してしまうのではないか。では、命名法の問題に出てくる、片方がエチル基で他方がメチル基からなるような非対称エーテルを効率的に作るには、どうすればよいのだろう?



実は、これを19世紀に解決していたのが、ウィリアムソン教授でした。まさにそれが、大学の有機化学で初めて学んだ非対称エーテルの合成法「ウィリアムソン合成」です。

C2H5-ONa + Cl-CH3 → C2H5-O-CH3 + NaCl   (エチルメチルエーテル)

ウィリアムソン合成のすぐれた点は、立体障害などが影響しない限り、エチルメチルエーテルに限らず、任意の非対称エーテルを合成することができる、という点にあります。
ウィリアムソン教授は、ロンドン大学にリービッヒ流の実験室を中核とした研究室を作り、こういった分野の研究を推し進めます。数多くの研究業績により、1863年には、39歳でイギリス化学会の会長に就任します。

ウィリアムソン教授の肖像は、先に掲げたものが用いられることが多いのですが、実はもう一種類、左手をだらんと下げた肖像が伝えられています。それは、生涯左腕のマヒをかかえ、右眼を失明し左眼は近視で、自分が細かな実験をするのは不自由だったけれど、理論的な思索に優れていたという教授の姿をよく表しているようです。



(*1):日本版Wikipediaの解説中、「教職の候補となり」は誤訳。英語版 Wikipedia の原文は Williamson was appointed professor of practical chemistry at University College, London,…)とある。

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幕末期の英国とロンドンの化学界

2014年06月26日 06時04分17秒 | 歴史技術科学
日本で言えば幕末期にあたる19世紀後半には、英国は覇権国家となっており、「パックス・ブリタニカ」と呼ばれるような帝国最盛期の繁栄を謳歌していましたが、それ以前の19世紀前半には、労働者という階層が都市に集中し、様々な問題が生まれていました。劣悪な都市生活環境は、例えばディケンズの小説『オリヴァー・ツイスト』やエンゲルスの著書『イギリスにおける労働者階級の状態』などに描かれているとおりです。

これに対して、環境汚染を抑制し、食品や売薬や飲料水などの純度を規制するような法的措置が制定されますが、実際に規制を有効なものとするためには、化学分析を主とする検定業務を担う一群の人々が必要となります。ところが階級社会イギリスにおいては、ドイツのギーセンにおけるリービッヒの研究室のように、大学がその育成の役割を担うことはありませんでした。むしろ、薬局協会などの職能団体が、徒弟制のような形で技術者の育成を行っていたのが実状のようです。

1826年に、哲学者ベンサムが高等教育の大衆化を唱え、ロンドン・ユニヴァーシティを設立します。当時、オックスフォード大学やケンブリッジ大学は、イギリス国教会の信徒で貴族出身の男性のみを受け入れていましたが、ロンドン大学ははじめて女性を受け入れ、宗教・政治的思想・人種による入学差別を撤廃した、自由主義・平等主義の大学として成長します。ロンドン大学は、後に多くのカレッジを吸収しつつ成長しますので、もともとの大学をユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)と称するようになります。おもしろいエピソードとしては、無宗教という性質上、大学のある通りをもじって「ガワー街の無神論者たち」と揶揄されることもあったそうで、チャールズ・ダーウィンも、「生物進化論」を発表したのはこの大学だったそうです。また、幕末期に英国公使の通訳として活躍したアーネスト・サトウも、この大学の卒業生です。次の写真は、ダーウィン。



さて、UCL は、設立当初から医学部の中に化学教育を置きましたが、薬局協会の制約を受けるなど、教育面でも必ずしも効果をあげたとは言えなかったようです。1841年には、薬学協会とほぼ同時にロンドン化学会が設立され、外国人化学者の第一号としてリービッヒを会員に迎えています。1845年には、リービッヒの助言を得てロンドンに王立化学カレッジを開設し、短期間ホフマンが指導に当たりますが、こちらもあまりうまくいかず、財政的に行き詰まり、1853年には王立鉱山専門学校に吸収されてしまいます。

したがって、ギーセンにおけるリービッヒの流儀をイギリスに伝え、後々まで影響を与えた人物として挙げられるのは、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのウィリアム・ウィリアムソン教授ということになりましょう。

(*):柏木肇「西欧の化学~19世紀化学の思想その4~イギリスにおける化学の職業と科学運動」,『科学の実験』572-579,Vol.29,No.7,1978,共立出版

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リービッヒの研究・教育とギーセンで学んだ化学者たち

2014年06月22日 06時02分13秒 | 歴史技術科学
リービッヒの研究上の業績のうち大きなものは、

(1) 高校の化学の教科書に出てくる有機化合物の定量分析法を確立し、様々な有機化合物を分析したこと。これには、酸素気流中で試料を燃焼させて生じた二酸化炭素を吸収する、写真のようなカリ球の採用による精度の向上が大きく貢献しています。

(2) ヴェーラーとの共同研究によって苦扁桃油からベンゾイル基(C6H5CO-)を発見し、基の概念を提唱したこと。
(3) 植物の生育に関するN,P,Kの三要素説とリービッヒの最小律を提唱したこと。

などが挙げられることと思います。もちろん、全ての植物が空中窒素を固定できると誤解し、有機質肥料不要論を唱えたり、発酵の微生物原因説を否定したりするなどの誤りもありましたが、有機化学の確立者の一人であり、農芸化学の父と呼ばれるなど、後世に大きな影響を与えました。また、粉ミルクの創始者で、肉エキスを商品化するなど、産業面や栄養改善にも努力した人でもありました。

これらのリービッヒの活動の基礎となった、化学実験室の薬品や装置は、当初リービッヒの私費でまかなわれたために、雑誌編集を行ったり、委託研究の費用をつぎ込んだほか、受講生からは受講料を徴収し、大学入学資格のない者まで迎え入れたそうです。もちろん、この背景には、リービッヒのオープンな考え方があって、国籍や宗教の別なく学生を受け入れることにしていた(*1)のでしょう。



例えば、ギーセンの化学実験室を描いたイラストの中で、左端に立つ伊達男ふうの男性は、右手にカリ球を持っているようですが、実はメキシコからの留学生で、ヴィンセント・オルティゴーサだそうです。彼は、リービッヒが確立した化学分析の手法をもとに、タバコに含まれるアルカロイドの分析を行ったそうですが、所定の受講料を払うことのできる、意欲ある人々に開かれていたことの証であると言えます。そしてこのオープン性の背後に、お金を払ってくれる人ならば受け入れるというドライな割り切りとともに、リービッヒ自身が不遇時代に手を差し伸べてくれたカストナーや、パリ大学時代のゲイ=リュサックの影響、などを見てしまいます。

さて、リービッヒの研究室が毎年20人の卒業生を出そうとしていることに、大学の内外では様々な批判があったそうです。たとえば、

・優れた弟子を育てるには生涯に一人か二人で精一杯で、リービッヒの教育方法は二流の化学技術者をつくるだけだ。
・むやみに化学者ばかりをたくさんつくって、彼らの将来をどうするのか。青年をおだてて身を誤らせるおそれがある。

などです。

これに対し、リービッヒは、一人の一流をつくるよりも、たくさんの二流をつくることが大切だと信じていたようで、その後のリービッヒの化学教室は、多くの薬剤師、化学技術者、学者をつくり出すことになります。科学史家・島尾永康氏の論文(*2)によれば、28年間にわたるリービッヒの薬学・化学教室の受講者の総数は700人を超え、そのうち化学の教授になった者が約60人という数字があるとのこと。進行する産業革命を支える技術者を育てるとともに、実験室を中核とし、理論と実験とを並行する化学教育のシステムが、弟子達を通じて世界中に広がっていきます。例えばベルリン大学にはホフマンが、ボンにはケクレが、ロンドン大学にはウィリアムソンが、そしてハイデルベルクには盟友のブンゼンが、ギーセン流のスタイルで研究室を構えます。一時期、ノーベル化学賞はリービッヒ門下生の独壇場だったようで、エミール・フィッシャー(1902)、オストワルド(1909)、リチャード・ウィルシュテッター(1915)という具合です。先の批判が当たっていたかどうかは、まさに歴史が証明していると言えましょう。

ここからは、リービッヒ流の化学教育システムをロンドンに伝えた、ウィリアムソン教授の周辺を見ていきます。

(*1):とはいうものの、残念ながら日本はまだ鎖国中で、日本人は登場しません。日本人が登場するのは、もう少し後になって、ロンドンとなります。
(*2):島尾永康「リービッヒの薬学・化学教室」,『和光純薬時報』Vol.66,No.4(1998)
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リービッヒ、ギーセン大学に新しい化学研究教育システムを開始する

2014年06月19日 06時02分07秒 | 歴史技術科学
1824年の4月、リービッヒはパリ留学を終えて故郷ヘッセンに戻ります。そして、5月にはギーセン大学の助教授として、人口5,500人ほどの小都市ギーセンに赴きます。

ギーセン大学は、哲学・医学・法学・神学の四学部からなり、おそらくは医学部に所属する形でのスタートであったろうと思われます。しかし、化学の先任教授は、21歳と若い助教授リービッヒと実験室を共用することに同意しません。せっかく張り切って赴任しても、実験室がないリービッヒは翼のない鳥です。助け船を出してくれたのは、やはり閣僚のシュライエルマッヘルだったようで、大学が口出しできない兵舎の守衛室を実験室として使えるようになります。同年11月、最初の受講生として12名の薬学学生を迎え、リービッヒの化学教室はスタートします。

実験室として当てられた棟は、間口が約5.5m、奥行きが約7m、面積が約38平米といいますから、日本風に言えば約11.5坪、23畳分の広さの小規模なものでした。翌1825年の12月、先任教授の逝去によって、リービッヒはギーセン大学でただ一人の化学教授に昇任します。そして、実験室に天秤室、試薬類の倉庫、洗浄室、助手室などを加えてしだいに実験室を拡充していき、化学・薬学研究所を発足(*3)させます。
ここは1年間の課程で薬剤師に必要な学科を教授するもので、その内容は、

前期:数学、一般植物学、鉱物学、試薬学、化学分析理論のほかに、リービッヒが担当する実験化学、薬剤商品学、医薬鑑識法
後期:数学、実験物理、化学分析実習

というものだったそうです。このようなやり方は、取りも直さず、それまでリービッヒが追求してきた「化学的技術には理論の裏付けがあり、逆に化学の基礎学習は実験によって達成される」というヴィジョンの具体化でした。

そして、一年間に受け入れる学生数を20人に定め、講義の中で実験を演示しながら、耳で聴き眼で見ることができる教育を推し進めます。現代にあっても、黒板とチョークだけで講義される化学が無味乾燥で理解しがたいものであるのに、実験を通じて自分の眼で確かめながら学ぶ場合には、興味を引かれ、理解度も高まることが多いものです。ましてや当時の多様な学生にとっては、こうした教育方法はまさに斬新かつ革命的なものであり、印象深く理解にも有益なものであったろうと思われます。

(*1):島尾永康「リービッヒの化学・薬学教室」、「和光純薬時報」Vol.66,No.4(1998)
(*2):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その2)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.706,1976年8月号
(*3):写真は増築後のもので、現在はリービッヒ博物館。隣に日産マーチが駐車しているのが、後の日本との関わりを暗示しているようで、おもしろい。

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パリ留学時代のリービッヒ

2014年06月17日 06時05分26秒 | 歴史技術科学
リービッヒは、ヘッセン大公ルートヴィヒI世から奨学金を受け、1822年にパリ大学に入学します。当時のパリ大学には、気体反応の法則の発見者で熱気球で大気の組成は上空も下界も変わらないことを示したジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック(*1)等、多くの科学者がおり、元素記号を定め原子量を精密に測定したスウェーデンのベルツェリウスとともに、物理学・化学研究の先端に位置する教育と研究を行っていました。肖像画は、ゲイ=リュサックです。



当時のドイツでは、学生実験は認められず、リービッヒが反発したように、自然哲学という名目で実験事実を都合よく解釈する講義が幅を利かせていました。ところがパリ大学では、講義の中でよく準備された実験を演示するやり方を主体に、観察と仮説、実験による検証と数学的手法も駆使した理論化といった科学的な方法論が中心になっており、リービッヒは自分のうぬぼれに気づかされると同時に、ようやく求めていた環境に近づけたと驚喜したことでしょう。

ただし、先生の実験室(研究室)に入れるかどうかはまた別問題で、リービッヒが幸運にもゲイ=リュサックの研究室に入れたのは、ドイツの貴族の生まれで有力政治家を兄に持つ地理学者・博物学者アレクサンダー・フンボルトの紹介があったためでした。これは、1823年の7月に、リービッヒが科学アカデミーで雷酸の性質に関する論文を発表した際に、フンボルトもリービッヒの実力を正当に評価し、ゲイ=リュサックに紹介の労をとったためでした。

リービッヒは、ゲイ=リュサックの直接指導を受ける中で、様々な科学的知識や法則の背後には、過去の研究業績の積み重ねがあることを痛感し、発見や研究の基礎となる教育の在り方、とりわけ真実を追求するフランス流のやり方に感銘を受けます。1778年生まれのゲイ=リュサックと1803年生まれのリービッヒとは、25歳も年齢が離れた親子のような関係でしたが、「困難な実験に成功したときには、ともに手を取って実験台のまわりをワルツを踊りながら喜び合ったという」(*2)師弟関係は、期間は短くとも、貴重なものだったでしょう。リービッヒ自身が、後に

兵器庫の中にあったゲー=リュサックの実験室こそ、私のその後の仕事の基礎を与え、私の生涯の針路を決定した

と語っている(*2)ように、リービッヒは、科学研究の方法のうえでも教育と師弟の在り方の上でも、ようやく自分の方向性を見出していくのです。
1824年4月に、リービッヒはパリを離れてドイツに戻り、5月にはギーセン大学の助教授の職を得ますが、これにはヘッセン大公に宛てたフンボルトの推薦状とともに、ゲイ=リュサックの推薦状が大きくものを言ったようです。



こうしてみると、リービッヒは本当に先生に恵まれていると感じます。才能と実力があるだけではなく、たぶん人間的な魅力のある青年だったのでしょう。肖像画でも、直情的で喧嘩っ早い熱血青年の面影を残しているものが多くみられます。

(*1):ジョゼフ・ルイ・ゲイ=リュサック~Wikipediaの解説
(*2):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その2)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.707,1976年8月号

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リービッヒはカストナーによって道を開かれた

2014年06月15日 06時02分51秒 | 歴史技術科学
1820年の秋、リービッヒは、そのころ父親が懇意にしていた、当時のドイツ最大の化学者と言われたカール・ウィルヘルム・ゴットロープ・カストナー(1783~1857)のいるボン大学に入学します。そこで、自分に不足している外国語や数学などを学び始めますが、1821年にカストナーがエルランゲン大学に移ると、リービッヒもエルランゲン大学に転学します。やはり薬剤師等の徒弟修業の経歴を経て教授となっていたカストナーがボンからエルランゲンに移ることとなった事情はよくわかりませんが、どうやら政治的な事情もあったらしいです。

エルランゲン大学でのカストナーの講義は、残念ながら実験を重視するリービッヒを満足させるものではなかったようですが、このエルランゲン大学時代に、リービッヒはお気に入りの雷酸銀に関する処女論文を、カストナーの紹介で薬学雑誌に投稿(*1)するなど、化学の学習と研究を続けていたようです。

1822年に、リービッヒは急に郷里のダルムシュタットに帰ります。これには、いささか不穏な事情があったようで、リービッヒはこの年のはじめ頃に、非合法の学生団体に関係し住民と衝突をしたことがあり、逮捕される危険から逃れるためだったと言われています。当時のドイツは、小さな王国や公国に分かれた封建体制のもとにありましたので、思想の自由やドイツ統一などを論じることはかなりの「危険思想」であったようです。実際には、郷里に戻ったからと言って危険が去るわけではないわけで、リービッヒはついに逮捕されてしまいます。今風に言えば、学生運動に関わり暴行を働いた容疑ということになるのでしょうか。

幸いなことに、リービッヒは釈放されたばかりでなく、エルランゲン大学から博士号を取得して、パリ大学に留学できることになります。これには、恩師カストナーからヘッセン大公ルートヴィヒI世に宛てて、「この優秀な青年をパリに留学させたのちに化学教師として採用するならば、貴国の発展に寄与するだろう」という推薦状が提出されており(*2)、これを閣僚のシュライエルマッヘルが取り上げた(*3)ためらしい。弟子を心配する師カストナーの温情を、リービッヒは痛感したことでしょう。

考えてみれば、ひたすら化学に没頭し、新しい知識と技術を求めることに性急であったリービッヒにとって、事件を起こし警察に追われる身になった学生を心配する師カストナーの在り方は、人間性ということを考えさせるもので、後年のリービッヒとその弟子たちの師弟関係に大きな影響を与えたものと思われます。

(*1):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その1)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.603,1976年7月号
(*2):吉羽和夫「有機化学を拓いた化学者(その2)ユストゥス・フォン・リービッヒ」、『科学の実験』共立出版、p.706,1976年8月号
(*3):島尾永康「リービッヒの薬学・化学教室」,『和光純薬時報』Vol.66,No.4(1998)
(*4):Karl Wilhelm Gottlob Kastner ~ Wikipedia(English)
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リービッヒの生い立ちと少年時代

2014年06月13日 06時03分58秒 | 歴史技術科学
ドイツの化学者で、ユストゥス・フォン・リービッヒ(*1)という人がいます。彼は、1803年の5月12日に、ドイツのヘッセン・ダルムシュタット大公国の首都ダルムシュタットの薬種原料商人の次男として生まれました。父親は医薬品や染料の製造にあたり、母親が販売面を受け持つという生活で、中産階級に属する家族であったようです。リービッヒ少年は、父親の仕事を手伝いながら化学への興味を育てていきます。このときは、宮廷文庫の蔵書を市民に貸し出すという制度があり、司書官に可愛がられて、化学辞典全32巻など、手当たり次第に読みふけり、知識を蓄えていったという幸運も大きいでしょう。リービッヒは、何度も実験を繰り返し、詳細に知り尽くすまで反復するという点でファラデーを高く評価し、着想を思弁でなく感覚で認めるという自分の流儀を育んでいきます。

ところが、ラテン語や古典などに重きを置く教育が中心のギムナジウムに、リービッヒはなじむことができません。お気に入りの物質である雷酸銀を爆発させる騒ぎを起こしただけでなく、語学がまるでダメ、語学を生かして学ぶ学科もダメとあって、劣等生のレッテルを貼られて、教室で叱責されてしまいます。

「そんな心がけでは、大人になったら何になるつもりか!」

すると、リービッヒは

「化学者になるつもりです」

と答えたそうです。その時、教室中に嘲笑がわき起こったといいますから、語学や哲学、古典などの思弁的学問が重視され、産業革命を支える技術や科学が蔑視されていた当時の社会的評価が想像できます。

卒業を迎えることなくギムナジウムを離れたリービッヒは、薬剤師として身を立てさせようという親の願いにより、近くの村の薬屋に徒弟奉公にやらされます。そこで、薬品の知識は身に付けたものの、屋根裏に与えられた自分の部屋で、やっぱり雷酸銀の爆発事件を起こし、親方からクビを宣告されてしまいます。仕方なく、1818年(15歳)から17歳まで二年間ほど父親の仕事の手伝いをしながら化学の勉強を続けますが、ようやく父親の許しを得て、父親の知り合いだったという縁でボン大学のカストナーのもとに入学し、学友との交流の中で、ギムナジウムでの不勉強に気づきます。リービッヒは、そこから外国語や数学などを真剣に学び始めます。

このあたりも、大学に入学し学んだ経験を持っているリービッヒが大学における科学教育に革命をもたらし、ほとんど学校教育を受けていないために、ファラデーが学校教育にあまり期待しないという違いの遠因でしょうか。

(*1):リービッヒ~Wikipediaの解説

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デーヴィーは1人のファラデーを育て、ファラデーはクリスマス講演をした

2014年06月09日 06時04分16秒 | 歴史技術科学
いろいろないきさつはあっても、最終的にデーヴィーは、自分の発見の中で最大のものはマイケル・ファラデーを発見したことだと語ったそうです。ファラデーがデーヴィーからの手紙を終生大切に保管していたこととあわせて、人生の晩年には心なごむエピソードです。

また、ファラデーについては、科学者としての業績とともに、その人間性の点でも興味深いものがあります。壮年期には委託研究でかなりの額の収入がありましたが、ある時期からは委託研究も断って自分の研究テーマを中心とするようになり、特許を取って金儲けに走ることをしませんでした。研究成果については、成功も失敗も包み隠さず発表し、公開します。毒ガスの兵器としての可能性について問われたときに、技術的には可能だろうが、自分は絶対にしない、と断ったそうな。技術的に可能でも、していいことと悪いことがある。おそらく宗教的な信条が理由でしょうか、現代の私たちにも共感できるところです。

さて、当時の徒弟制度の慣習にしたがい、デーヴィーは一人の弟子を育て、その弟子が師を超える大科学者となったことになりますが、このようなケースは珍しいとしても、徒弟制度のような中で、生涯に一人か二人の弟子を育てることが普通でした。でも、ファラデー自身は弟子を育てることをせず、むしろ自分の若い頃の経験からでしょうか、一般向けの科学講演会に力を注ぎます。とくに子どもたちを対象にしたクリスマス講演会で話すことを最晩年まで楽しみにしていたようで、その講演録が古典的名著『ロウソクの科学』として残されています。しかしながら、大学ではラテン語や古典などが中心で、物理化学や技術などは教育の対象とならなかった時代に、当時の子供たちが科学を志したとしても、それを受け止める受け皿はあまりにも少なかったと言えましょう。

象徴的に言えば、たった一人の弟子を育てる時代から、多数を育てる時代へ。産業革命の進行を背景に、増大する技術者・科学者の需要に応えるにはどうすればよいのか。その答えを探すには、イギリスを離れて、19世紀のドイツを見る必要があります。

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ファラデーとデーヴィーの間のトラブル~その背景と階級的偏見

2014年06月07日 06時01分13秒 | 歴史技術科学
王立協会のフェローであり、名講演で社会的な知名度の高い王立研究所教授で、ファラデーよりも13歳年上の尊敬する師匠であるハンフリー・デーヴィーは、1812年にナイトの称号を受けるとともに、上流階級出身の裕福な未亡人と結婚していました。

1813年3月1日、ファラデーは王立研究所の助手に正式に採用されます。この時点では、ファラデーはまだ実験の助手に過ぎず、独自の研究業績をあげていたわけではありませんでした。長いあいだ願っていた科学研究の世界に足を踏み入れ、思い切り好きな実験ができるぞと喜んでいたときに、デーヴィーはナポレオン・ボナパルトからメダルを贈られることとなり、これを受ける目的で、1813年10月にヨーロッパ旅行に出かけることになります。当時、英国とフランスは戦争状態にあったために、夫人の召使いは敵対国への同行を断ります。ファラデー自身は、助手としてデーヴィーに従うこととしますが、デーヴィーは新たな召使いが見つかるまで、一時的に夫人の仕事も請け負うことを受諾させます。

ナポレオン・ボナパルトの旅券の効力もあって、パリへの旅はなんとか前進しますが、英語のわかる夫人の召使いはなかなか見つかりません。にもかかわらず、レディとして気位の高い夫人の要求は多種多様で、命令は居丈高だったようです。

デーヴィーに表敬訪問する西欧諸国の科学者たちとの晩餐に、社交好きな夫人が同席して愛想を振りまいても、ファラデーは召使部屋で召使たちと一緒の食事を強いられるばかりです。科学者たちは、デーヴィーの従僕が実は豊富な科学知識と科学実験の経験を持っていることをいぶかしみ、晩餐への同席を要請しますが、夫人の不同意のために実現しません。はやく夫人の召使いを雇ってほしいと訴えても、デーヴィーは曖昧に言葉を濁すだけだったようです。科学の研究のためにデーヴィーに献身的に協力することについては熱心でも、上流階級の階級意識と偏見にとらわれた夫人の態度には、さすがのファラデーも我慢がならなかったものとみえます。

ラテン語や古典の知識に基づく教養が紳士の条件とされた時代、上流階級の人たちは、新興中産階級の教養の無さを指摘し、技術や産業に熱心な俗物性をさげすんでいました。デーヴィー夫人が、ナイトの称号を持つ有名人としての夫を誇ることはあっても、次々に新発見を成し遂げる偉大な科学者として夫を尊敬したとは思えません。デーヴィーの妻が夫の助手に過ぎない下層階級出身のファラデーを従僕扱いにしたことは、その流れにおいて理解すべきことでしょう。当然のことながら、ファラデーを科学者の一員として認めることはあり得ませんでした。ましてや外国人とくに東洋人への偏見と蔑視は、彼女だけでなく当時の西欧の社会的な共通性だったと思われます。

ナポレオン・ボナパルトの運も傾き、1815年に、デーヴィーは急きょ帰国します。ファラデーにとってこの旅は、不愉快なことも多かったことでしょうが、視野を広げ、各国の科学者との交流が生まれることとなった、得難い有益な経験となったことでしょう。

帰国した1815年に、デーヴィーはファラデーの協力のもとに、炭鉱で使う安全灯を発明します。産業革命が進む英国で、鉄と石炭は最も重要な資源でした。当時は、炭鉱で爆発事故が頻発し、炭塵が舞う坑内で用いることができる、安全な照明が求められていたからです。

そして、これまでの多くの科学上・技術上の業績により、1819年、デーヴィーは平民出身としては最高の爵位である準男爵となり、1820年には王立協会の会長に就任します。デーヴィーはすでに王立研究所は辞して名誉教授のような立場になっており、ファラデーは後任の教授との関係も良好で、自力で研究を続けておりました。ところがその結果が、デーヴィーとの間でトラブルを招くこととなります。

1821年に、ファラデーは単独で磁気と電流の相互作用を実験的に証明しますが、デーヴィーはこれをウォラストンの研究を盗んだと考えます。おそらく、かつての助手が自分の研究成果をしのぐ画期的な業績を上げたことに対する嫉妬だったのでしょう。そのために、ファラデーを王立協会の会員に推す提案があったときも、会員全員の賛成の中でただ一人、会長のデーヴィーだけが反対票を投じるというしまつでした。

しかし、ファラデーは塩素の液化に成功(1823)し、気体は液体の物質の状態が変化したものに過ぎないとする考え方を導きます。さらに、当時ロンドンに普及しつつあったガス配管の詰まりが液化留分によるものであることを突き止めてベンゼンを発見(1825)し、後の有機化学における芳香族化合物の分野を開きます。デーヴィーの死去(1829)の後も、電磁誘導の発見(1831)、高校化学の教科書で有名な電気分解の法則の発見(1833)、さらには反磁性の発見(1845)、磁場が光に影響するというファラデー効果の発見など、この時代にノーベル賞があったならば一人で何度も何度も受賞していたであろうと思われる業績を、次々にあげ続けます。まことに壮観です。

では、晩年のファラデーは恩師デーヴィーをどう思っていたのか。ファラデーの伝記を執筆した著者が、次のような内容の証言を残しています。ファラデーは、恩師デーヴィーが自分を王立研究所の助手にと誘ってくれた手紙をずっと大切に持っていたそうで、伝記を執筆する際に、返却を条件に貸してくれたとのことです。いろいろな軋轢はありながら、恩人として感謝の気持ちを持ち続けたのではないでしょうか。

(*1):スーチン著(田村二郎訳)『ファラデーの生涯』(東京図書)
(*2):J.ハミルトン著(佐波正一訳)『電気事始め~マイケル・ファラデーの生涯』(教文館)

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師のデーヴィーもまた徒弟修行を経て化学者となっていた

2014年06月05日 06時04分33秒 | 歴史技術科学
師のハンフリー・デーヴィー(*1)もまた、実はファラデーと同様に、徒弟修行を経て現在の地位にあるのでした。ただし、ファラデーよりはだいぶ恵まれていて、外科医をしていた、デーヴィーの母方の義父の計らいで、私立学校に通わせてもらっていますし、馬具工をしていたダンキンから科学の初歩を習っています。実父が亡くなると、病院の薬局に年季奉公に入り、ここで化学を学び、自宅の屋根裏部屋に実験室をこしらえ、ここで化学実験を行っていたようです。

そして、たまたま王立協会のフェローだったデービス・ギルバートに認められ、その縁で病院の付属医学校の化学講師エドワーズ博士の実験室に出入りできるようになります。さらに、ギルバートの推薦により、ブリストルの気体研究所で働くこととなります。デーヴィーは、様々な気体について研究をします。例えば自分が発見した笑気ガスを、麻酔ガスとしての利用は想定できなかったものの、好んでデモンストレーション実験に使っていたようです。

デーヴィーの優れた研究は、王立研究所のバンクスの注意をひき、公式にデーヴィーを王立研究所の化学講演助手兼実験主任となります。やがてデーヴィーもまた科学講演を引き受けるようになりますが、このときに彼のもう一つの才能である詩人としての資質が発揮され、多くの聴衆を集めるようになります。特に女性には人気があったようで、1802年には正講演者に、1803年には23歳の若さで王立協会フェローに選出されます。

王立研究所で、デーヴィーは多くのボルタ電池を作り、これを利用してなじみの化合物を電気分解するという手法で、多くの新元素を発見していきます。具体的には、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)や苛性カリ(水酸化カリウム)を溶融塩電解してナトリウムやカリウムを、石灰と酸化水銀の混合物を電気分解することでカルシウムを発見します。さらに、同じく電気分解によってマグネシウム、ホウ素、バリウムを発見しますし、後には塩素が化合物ではなく単体であることを示すとともに、塩酸を電気分解しても酸素が発生しないことから、「酸は酸素を含む」というラヴォアジェ以来の概念を覆し、「酸は水素を含む」ことを示します。一人で六種類の元素を発見したのはデーヴィーだけだそうで、このあたりの活躍はまさに特筆に値します。

しかし、注目されるのは、デーヴィーもまた徒弟修行を経て化学者となっていた、という事実です。当時は、大学で物理学や化学を学び、科学者となるという道はありませんでした。産業革命が進む英国は明らかな階級社会であって、大学は哲学や古典を研究するところであり、物理や化学などは下賎な技術分野として扱われ、新興中産階級が興味を示すことはあっても、貴族や上流階級の紳士が学ぶものではなかったようです。

(*1):ハンフリー・デービー~Wikipediaの解説
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ファラデーの前半生~製本職人の徒弟修行を終えてから王立研究所の実験助手へ

2014年06月02日 06時05分31秒 | 歴史技術科学
マイケル・ファラデー(*1)は、1791年にイギリスに生まれました。4人兄弟の3番目で、家が貧しかったために、ロンドンの製本職人リボー氏のもとで、始めは小僧として配達から、後には製本の徒弟として、住み込みで年季奉公をするようになります。そこで製本の腕を磨いていきますが、ほとんど正規の学校教育を受けていないにもかかわらず、持ち前の聡明さと、両親から受け継いだキリスト教サンデマン派の厳しい宗教的戒律に根ざす実直さとを、親方はじめ得意客たちに愛されて成長します。

当時、本は印刷されると仮綴じで売られるだけで、購入した客は必要に応じて製本に出し、革装の愛蔵本にして書斎に収めるのが習慣でした。したがって、製本屋のお客は安定した収入のある中産階級以上の人々であり、幸いにもファラデーは、ディケンズがその作品の中で描いたような、産業革命が進行し労働者階級が悲惨な状態に置かれていた社会の底辺の悪習に染まらず、成長することができたことになります。

ところで、製本職人の徒弟としてのファラデーの変わった点は、製本の依頼を受けた本の「中身」に興味を持つことでした。例えば、大項目主義を特徴とする『ブリタニカ大百科事典』の「電気」の項に興味を持ち、学んだ知識をノートにまとめながら、少ない小遣いをやりくりして、書かれた実験ができる器具を集めたり自作したりしながら屋根裏の実験室を作ります。こんなふうに、自分で実験をして一つ一つ確かめながら、様々な自然現象についての知識と経験を蓄えていきます。また、タタム氏という人が市民向けに科学の連続講義をするという貼紙を見つけ、これを熱心に聴講して、その記録をノートにまとめます。

このファラデーのノートは、現在も保存されているそうですが、たまたまある画家からデッサンの技法を教わる機会があり、これを応用した図解を添えた見事なもので、親方や得意客たちの注目を集めることとなります。その中の一人であるダンス氏が、おそらく若い職人を励ます気持ちからでしょうが、王立研究所の教授ハンフリー・デーヴィーの科学講演の切符をプレゼントします。

ここで、王立研究所とは言っても、国や国王から予算が出るわけではなく、研究費は自前で稼がなければならない仕組みでした。したがって、当時の社会の流行を踏まえたテーマで連続講義を行い、そのチケットを売り出すことで収益をあげたり、あるいは委託研究を引き受けたりして、研究費や運営費をまかなわなければならないのでした。

デーヴィーの連続講演を聴いたファラデーは、このときも詳細な講義録を作り、精密な図解と索引も付けて、お手の物の製本をして見事に完成させます。それまでは、製本の仕事のかたわら趣味として科学実験に携わっていたのでしたが、この時をきっかけに、一生の仕事として、どんな形でも良いから、科学研究の一角に加わることを強く希望するようになります。製本職人としての年季奉公を終えて独り立ちすることになり、リボー氏の店を出て、職人として新たに勤め始めたロッセ氏の店の流儀には、どうも馴染めないものを感じ、やはり自分は科学研究に一生を捧げたいと願うのです。その願いを手紙にしたため、例の講義録ノートとともにデイヴィーに送ったところ、デイヴィーはファラデーに会ってくれました。そして、製本職人の収入と比べて科学の仕事ははるかに待遇が悪いことを説明し、今の仕事を続けるように勧めますが、ファラデーは生活のためではなく、一生の仕事として、製本職人ではなくて科学の仕事を選びたいと訴え、面会はそこで終わったのでした。この場面は、中~高校生の頃だったでしょうか、少年期の私の記憶に、強い印象を残しています。

さて、その後しばらくして、たまたまデーヴィーが実験により目を負傷したために、代筆をする臨時雇の仕事があり、数日間、ファラデーが代役をつとめます。その仕事ぶりや人柄などを観察したのでしょうか、ある日、デイヴィーの使いの馬車がやって来て、まだ気持ちが変わらないのであれば、辞職する実験助手の後任として雇いたいと伝えます。ファラデーは、この日のことを終生忘れることがなかったようです。

ファラデーは、こうして王立研究所の実験助手として正式採用され、製本職人よりもずっと低い給料で、実験器具を洗浄し片付け、実験器具や材料を準備し、師のデイヴィーの講義実験を助けるなどの仕事に従事することとなります。これが、19世紀最大の科学者の一人、マイケル・ファラデーのスタートでした。


(*1):マイケル・ファラデー(1791~1867)に関するWikipediaの記載
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