先日、南東北地方も梅雨に入り、どんよりしたお天気です。今日は、サクランボの収穫もお休みで、一日読書です。宮城谷昌光氏の長編『奇貨居くべし』は、いよいよ第5巻(天命篇)になりました。
呂不韋の訴えにより、華陽夫人は太子に願い、公子異人は嗣子となり子楚と改名、呂不韋は子楚のうしろだてとなります。呂不韋を慕って死んだ小環の遺児・小梠が舞子として近づき、呂不韋の子を身ごもります。ところが、子楚が小梠を望み、妾ではなく正室として迎え、産む子は自分の子とする、と言います。呂不韋は同意しませんが、小梠は自ら子楚のもとに行きます。このあたり、なんだかなぁ、よく理解できません。
趙を支えていた藺相如が死去し、呂不韋は弔問に出向きますが、楚に回り黄歇もとに滞在して学問に励み、子楚のもとに帰ろうとしません。そんなところへ僞の呼出があり暗殺されかかりますが、かつて逃した奴隷に危急を救われます。首謀者は子楚を排斥しようとする勢力であり、秦と趙の雲行きが悪くなると子楚は身の危険を感じるようになり、妻子を置いてからくも脱出しますが、父のかわりに人質となった子の政は置き去りにした子楚と呂不韋をひそかにうらみます。
秦では応候范雎が引退し、陶候魏冉が没すると、陶は魏によって亡びますが、田焦ら農業技術者が多数秦に移住します。子楚の妻小梠と子の政を人質の立場から解放するための方策はうまく行きません。秦では昭襄王が没し、太子柱が孝文王として即位しますが、わずかな在位日数で急逝し、子楚は荘襄王として即位します。趙姫小梠と子の政が帰国しますが、王はなつかない政を嗣子とすることに難色を示します。しかし政治の不安定をきらう宰相呂不韋が王にやわらかに諌言し、政を太子とします。
ここからはやや抽象的になります。立憲政体を目指したという呂不韋の政治と蒙ゴウ将軍の軍事は穏やかで、秦の支配域は徐々に拡大します。ところが荘襄王もまた崩御し政が即位しますが、内心にうらみを持つ政は呂不韋を遠ざけ、暗い政治に逆戻りしてしまいます。
◯
長い物語の終わりは割愛しておいたほうが良かろうと思いますが、充分に面白さを満喫することができました。一方、呂不韋という人物像をどうとらえればよいのか、私には今一つ不透明です。
(1)呂不韋はなぜ正妻を持たないのか。多くの女性との間に子をもうけながら、現代の目で見ると不自然だ。敵国に母子を置き去りにした父を政がうらむのは自然な気がする。
(2)公子異人に黄金の気を見た件について、異人が嗣子となり王となるのは事実だがその後あっけなく早逝してしまうところを見ると、どうも金メッキだったのではないか。君子を買ったおそるべき政商という見方もできるが、君子こければ政商もこける、という実例でもあるだろう。
(3)『呂氏春秋』は呂不韋の思想というよりも、当時の優れた思想や知識の百科全書的集大成であろう。呂不韋の評価は思想や知識の組織家なのではないか。
呂不韋の訴えにより、華陽夫人は太子に願い、公子異人は嗣子となり子楚と改名、呂不韋は子楚のうしろだてとなります。呂不韋を慕って死んだ小環の遺児・小梠が舞子として近づき、呂不韋の子を身ごもります。ところが、子楚が小梠を望み、妾ではなく正室として迎え、産む子は自分の子とする、と言います。呂不韋は同意しませんが、小梠は自ら子楚のもとに行きます。このあたり、なんだかなぁ、よく理解できません。
趙を支えていた藺相如が死去し、呂不韋は弔問に出向きますが、楚に回り黄歇もとに滞在して学問に励み、子楚のもとに帰ろうとしません。そんなところへ僞の呼出があり暗殺されかかりますが、かつて逃した奴隷に危急を救われます。首謀者は子楚を排斥しようとする勢力であり、秦と趙の雲行きが悪くなると子楚は身の危険を感じるようになり、妻子を置いてからくも脱出しますが、父のかわりに人質となった子の政は置き去りにした子楚と呂不韋をひそかにうらみます。
秦では応候范雎が引退し、陶候魏冉が没すると、陶は魏によって亡びますが、田焦ら農業技術者が多数秦に移住します。子楚の妻小梠と子の政を人質の立場から解放するための方策はうまく行きません。秦では昭襄王が没し、太子柱が孝文王として即位しますが、わずかな在位日数で急逝し、子楚は荘襄王として即位します。趙姫小梠と子の政が帰国しますが、王はなつかない政を嗣子とすることに難色を示します。しかし政治の不安定をきらう宰相呂不韋が王にやわらかに諌言し、政を太子とします。
ここからはやや抽象的になります。立憲政体を目指したという呂不韋の政治と蒙ゴウ将軍の軍事は穏やかで、秦の支配域は徐々に拡大します。ところが荘襄王もまた崩御し政が即位しますが、内心にうらみを持つ政は呂不韋を遠ざけ、暗い政治に逆戻りしてしまいます。
◯
長い物語の終わりは割愛しておいたほうが良かろうと思いますが、充分に面白さを満喫することができました。一方、呂不韋という人物像をどうとらえればよいのか、私には今一つ不透明です。
(1)呂不韋はなぜ正妻を持たないのか。多くの女性との間に子をもうけながら、現代の目で見ると不自然だ。敵国に母子を置き去りにした父を政がうらむのは自然な気がする。
(2)公子異人に黄金の気を見た件について、異人が嗣子となり王となるのは事実だがその後あっけなく早逝してしまうところを見ると、どうも金メッキだったのではないか。君子を買ったおそるべき政商という見方もできるが、君子こければ政商もこける、という実例でもあるだろう。
(3)『呂氏春秋』は呂不韋の思想というよりも、当時の優れた思想や知識の百科全書的集大成であろう。呂不韋の評価は思想や知識の組織家なのではないか。