チャイコフスキーにはニ短調の弦楽六重奏曲(Op.70)があって、「フィレンツェの思い出」という名で親しまれているようです。残念ながら、私はオリジナルの弦楽六重奏では聞いたことがありませんが、弦楽セレナードに併録された弦楽合奏版で楽しんでおります。1990年の2月にウィーンのスタジオ・バウムガルテンでデジタル録音されたナクソス盤、8.550404 という型番のCDで、フィリップ・アントルモンの指揮、ウィーン室内管弦楽団の演奏、お値段は安価ですが、たいへんいいCDのように思います。(ただし、D minor が ニ長調 に翻訳され表記されているのは、私でもわかる明らかな間違い。)
第1楽章、アレグロ・コン・スピリト、ニ短調。切り込むような情熱的な出だしが印象的ですが、すぐに優しいチャイコフスキー節が聞けます。メロディーを支える他のパートがオクターブで同じ音を奏するためか、音にふっくらとした厚みがあって、弦楽合奏の効果が上がっているようです。
第2楽章、アダージョ・カンタービレ、ニ長調。こういう柔和で叙情的な緩徐楽章になると、チャイコフスキーの天性のメロディーメーカーとしての素質が存分に発揮されるようです。
第3楽章、アレグレット・モデラート、イ短調のスケルツォ。情熱的で劇的な要素もある印象的な音楽です。
第4楽章、アレグロ・ヴィヴァーチェ、ニ短調。フィナーレでの開放感が、やっぱり室内楽の枠を超えているように思います。弦楽合奏版の魅力が、ここでも強く感じられます。
それにしても、アントルモンに限らず、ピアニストがしばしば指揮者を目指すようになる理由はどこにあるのでしょうか。近年思いつく限り、バレンボイム、アシュケナージなどがそのいい例ですし、わがジョージ・セルも、デビュー当時は達者なピアニストでした。
これは推測でしかありませんが、たぶん弦楽器の持つカンタービレの魅力、管楽器の音色の色彩感といった、ピアノの持つ表現力を超えた部分を大きくカバーする、最高の楽器としてのオーケストラの機能に惹かれる、という要素と、ピアニストの孤独な作業よりも、多人数の合奏を通じた、音楽でコミュニケートする一体感、といったものを求めるようになるから、なのでしょうか。
フィリップ・アントルモンの指揮するウィーン室内管弦楽団の演奏は、チャイコフスキーの音楽の持つ、室内楽に収まりきれない広がりを、弦楽合奏の形でうまく開放しているように思います。
どこがフィレンツェなんだ?というツッコミは、ほら、思わせぶりなタイトルで商売するって、あるでしょ?出版社の意向とか(^_^)/
■フィリップ・アントルモン指揮、ウィーン室内管弦楽団
I=10'23" II=10'37" III=6'27" IV=7'06" total=33'33"
第1楽章、アレグロ・コン・スピリト、ニ短調。切り込むような情熱的な出だしが印象的ですが、すぐに優しいチャイコフスキー節が聞けます。メロディーを支える他のパートがオクターブで同じ音を奏するためか、音にふっくらとした厚みがあって、弦楽合奏の効果が上がっているようです。
第2楽章、アダージョ・カンタービレ、ニ長調。こういう柔和で叙情的な緩徐楽章になると、チャイコフスキーの天性のメロディーメーカーとしての素質が存分に発揮されるようです。
第3楽章、アレグレット・モデラート、イ短調のスケルツォ。情熱的で劇的な要素もある印象的な音楽です。
第4楽章、アレグロ・ヴィヴァーチェ、ニ短調。フィナーレでの開放感が、やっぱり室内楽の枠を超えているように思います。弦楽合奏版の魅力が、ここでも強く感じられます。
それにしても、アントルモンに限らず、ピアニストがしばしば指揮者を目指すようになる理由はどこにあるのでしょうか。近年思いつく限り、バレンボイム、アシュケナージなどがそのいい例ですし、わがジョージ・セルも、デビュー当時は達者なピアニストでした。
これは推測でしかありませんが、たぶん弦楽器の持つカンタービレの魅力、管楽器の音色の色彩感といった、ピアノの持つ表現力を超えた部分を大きくカバーする、最高の楽器としてのオーケストラの機能に惹かれる、という要素と、ピアニストの孤独な作業よりも、多人数の合奏を通じた、音楽でコミュニケートする一体感、といったものを求めるようになるから、なのでしょうか。
フィリップ・アントルモンの指揮するウィーン室内管弦楽団の演奏は、チャイコフスキーの音楽の持つ、室内楽に収まりきれない広がりを、弦楽合奏の形でうまく開放しているように思います。
どこがフィレンツェなんだ?というツッコミは、ほら、思わせぶりなタイトルで商売するって、あるでしょ?出版社の意向とか(^_^)/
■フィリップ・アントルモン指揮、ウィーン室内管弦楽団
I=10'23" II=10'37" III=6'27" IV=7'06" total=33'33"