goo blog サービス終了のお知らせ 

電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

デフォー『ロビンソン・クルーソー』を読む(3)

2007年03月05日 06時27分38秒 | -外国文学
ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の物語、前半は無人島での生活の建設と、聖書を媒介とした孤独な自省と対話です。
全くの一人ぼっちになってしまったとき、人はその孤独に耐えられるのだろうか、と思うことがあります。絶望のあまり、日々の生活を営むことができなくなってしまうのではないか。

しかし、この物語は、実際にあったセルカークの漂流譚を小説にしたものなのだそうで、先年、南米のある島で、実際にセルカークが生活したと思われる洞窟が発掘されている(*)そうです。それを思うと、強靭な精神力と頑健な体を持ってはいたのでしょうが、実は日常の様々な仕事が、日々の営みを続ける原動力になっているのかもしれない、と思うようになりました。絶望せずに生きていくと言う秘密は、実は日々の仕事に知恵をしぼり、努力を傾注することにあるのではないか。逆説的ですが、意外にもそれが真実のような気がします。

一方、話し相手がほしいと念願したロビンソン・クルーソーは、食人の習慣を持つ蛮人の捕虜を助け、ファラデーと名付けます。蛮人を襲撃する計画を立てるところには、いかにも西欧人の独善的な発想が濃厚に見られ、やや鼻白む思いがします。銃という圧倒的な武力を持つ側と、撃たれ、傷つく側の対比は、当時のイギリスの人種に対する考えの現れでしょう。その意味では、『ロビンソン・クルーソー』の物語の後半は、子どもの頃はともかく、大人になってからは無条件に愉快なものではありません。その中でも、ファラデーが父を助けて狂喜する場面など、蛮人の世界にも親子の情愛があるのだ、ということを描いた場面などは、当時の英国の民衆に、鮮明な印象を与えたのかもしれない、と思います。

逆に、ヨーロッパ人の船乗りの反乱を描き、「イギリス人、あの人たち、食う?」とたずねるファラデーの姿は、同国人に対する、作者デフォーの辛辣ではあるが公平な見方を示しているとも言えます。

(*):日本人探検家、「ロビンソン・クルーソー」の住居跡を発見
この記事は、トラックバックをいただいた、ロンちゃんのジオログ から、知ることができました。感謝です。
コメント