先日、見えなくなっていたヒルトン作『心の旅路』を発見したことを記事にしました(*)が、茶色くなった古い角川文庫のページをめくりながら、ようやく読了しました。いくつか映画(*2)との違いを発見し、脚本のうまさと難しさを感じました。
第1部、筆者「わたし」とチャールズ・レイニアとの出会いは、汽車の中でふともらした彼の一言がきっかけでした。スイシンでの朗読会を機に彼の秘書の仕事につくこととなり、スタートンの邸宅で執事のシェルダンとレイニア夫人に会い、チャールズが記憶を保持している体験談を聞きます。
第2部、チャールズの話です。リバプールで自動車事故にあい、記憶が蘇り、自宅に戻ります。父の死と遺言状の公開が行われ、戦死と思われていたチャールズには遺産の配分もありませんでした。弁護士の主張で、兄弟姉妹から少しずつ分けてもらい、大学に戻ってささやかな生活をはじめます。しかし、会社を相続した長兄チェットの乱脈で危機に陥った会社を立て直すために、ひたすら働きます。子どもだったキティが美しく成長し、チャールズと婚約しますが、失った記憶が妨げとなり、婚約を解消します。
第3部。旅に明け暮れ、酒におぼれるピアニスト夫婦を案内し、見た芝居「国旗に敬礼」には、記憶がありました。チャールズは、そこでメルベリーの精神病院を思い出します。
第4部、失われた記憶の中身が明かされます。メルベリーの精神病院を抜け出し、女優ポーラに助けられ、旅回りの一座に加わります。五つの州が見える田舎の旅館で愛を誓い、ロンドンの牧師館でひっそりと暮します。作家として新聞社との契約のためリバプールに赴き、そこで自動車事故に遭遇したのでした。
第5部、チャールズは、かつてともに暮し愛した女性を探しに行きます。後を追った夫人はチャールズを見つけ、スミシーとポーラとして、互いを再発見するのです。
○
映画では登場しない脇役たちが、原作ではたいへんに魅力的です。まず語り手としての「わたし」。ホッブス嬢からチャールズ・レイニアの秘書役を引き継ぎます。次に、失った息子のかわりに、夫人がほとんど養子のように世話をする若者のウォーバーン。サンダーステッド医師と対立し、チャールズの遺産相続の権利を主張してやまない弁護士トラスラブ。チャールズを崇拝する元秘書で、夫人を嫉妬するホッブス嬢。劇団の人々、漂泊のピアニスト、そして、ロンドンの牧師館に住む風変わりな牧師プランピード。
こうした脇役の織りなす陰影は、映画では見事に削られ、記憶を失ったチャールズが、いつ夫人の無償の愛情に気づくのか、そこがポイントになっています。原作では、失われた記憶の謎解きの要素が、全体の大きな骨格になっています。『チップス先生さようなら』しか知らなかったヒルトンの原作の構成の見事さとともに、映画の脚本として単純化するためにはらわれたであろう脚本家の苦心が忍ばれます。
(*):
ヒルトン『心の旅路』の文庫本を発見
(*2):
映画「心の旅路」を見る