少し前のことになりましたが、ゴールデン・ウィークの終わりに、山形市嶋地区に先ごろオープンした複合型施設「ムーヴィー・オン山形」で、藤沢周平原作、篠原哲雄監督による映画「山桜」の先行上映を観て来ました。こちらは八文字屋山形北店が隣接し、無料パーキングがあって、駐車料金の心配なく書店で上映まで時間を待つことができますし、映画を堪能した後で原作を探すのにも便利になっています。そうして、映画の出来栄えもたいへんに丁寧で、原作とは別の映像作品としてじゅうぶんに満足できるものでした。
映画の冒頭、野江さん役の女優さんの印象が、何か一言いうと三言くらい返ってきそうなキツイ現代娘のようでしたが、慣れてくると、その気の強さがこの映画には必要だったのだ、ということがわかります。また、映画では再嫁先で野江に同情し、心を通わせることできた老僕や婢の存在がいい味を出していますが、これも実は原作には登場しません。以前、「山桜」の原作について記事を書いています(*1)が、映画化する上で変更しなければならなかった、いくつかの相異点をあげてみました。
(1) まず、手塚弥一郎との縁談が立ち消えになった理由です。原作では、野江本人が剣の使い手イコール乱暴者というイメージを持っていたことに加えて、母一人・子一人という手塚家の境遇に対して、野江の母親が懸念を持っていたからでした。それが映画では、娘の手塚弥一郎への想いを察知し、今は回り道をしているだけよ、と諭す賢い母親になっています。
(2) 最後の場面、原作では式台に手をかけたまま涙が迸り出る心理的かつ劇的なクライマックスですが、映画では地の文を表現することが困難です。映画では、座敷の中で弥一郎の母親と対面しつつ泣く設定になっており、どうも心理的クライマックスにはならないようです。映像では、正面からの野江の涙も泣き笑いのようで、顔を俯け滂沱として落ちる涙ではないようでした。このあたりは、難しいところです。
(3) 手塚弥一郎の描き方は、大きく違います。原作は、あくまでも野江中心の描き方であり、実際の弥一郎は、ほんの少ししか登場しません。映画では、二人が相思相愛に至る回り道を描くために、弥一郎も丁寧に描き出さざるを得ず、その分だけ弥一郎の行動は説明的に美化されます。いわば美しきテロリストになってしまっています。
このあと、はたして主君はどう裁くのでしょう。武士の世に、城中の刃傷沙汰は、その動機の如何を問わずご法度でしょう。だからこそ、野江は嫌いな夫に「お腹を召されるのでしょうか」と問うたのでしょうし、切腹または情状を酌量し罪一等を減じても長い蟄居は免れないところでしょうか。原作では、決してハッピーエンドは示唆しておりませんで、結末はあくまでも不明です。ただし、蟄居閉門であったとしても、野江は喜んだことでしょうし、たとえ切腹となったとしても、幸薄い叔母と同様に一途に仏を供養して暮らそうとすることでしょう。そういう想いのはげしさは強く示唆される作品です。その意味では、やや希望を持たせる映画の終わり方も、なるほどと思わせるものがあります。
そうそう、音楽が良かった。チェロとピアノで、あまり盛り上げようとしないで淡々と演奏されるところが、藤沢作品によくあっていると思います。
いずれにしろ、近年の優れた映画をきっかけに、藤沢周平作品の原作に親しむ方々が増えればよいと、愛読者としては素直に願ったことでした。
(*1):小室等さんの好きな藤沢周平作品「山桜」を読む
映画の冒頭、野江さん役の女優さんの印象が、何か一言いうと三言くらい返ってきそうなキツイ現代娘のようでしたが、慣れてくると、その気の強さがこの映画には必要だったのだ、ということがわかります。また、映画では再嫁先で野江に同情し、心を通わせることできた老僕や婢の存在がいい味を出していますが、これも実は原作には登場しません。以前、「山桜」の原作について記事を書いています(*1)が、映画化する上で変更しなければならなかった、いくつかの相異点をあげてみました。
(1) まず、手塚弥一郎との縁談が立ち消えになった理由です。原作では、野江本人が剣の使い手イコール乱暴者というイメージを持っていたことに加えて、母一人・子一人という手塚家の境遇に対して、野江の母親が懸念を持っていたからでした。それが映画では、娘の手塚弥一郎への想いを察知し、今は回り道をしているだけよ、と諭す賢い母親になっています。
(2) 最後の場面、原作では式台に手をかけたまま涙が迸り出る心理的かつ劇的なクライマックスですが、映画では地の文を表現することが困難です。映画では、座敷の中で弥一郎の母親と対面しつつ泣く設定になっており、どうも心理的クライマックスにはならないようです。映像では、正面からの野江の涙も泣き笑いのようで、顔を俯け滂沱として落ちる涙ではないようでした。このあたりは、難しいところです。
(3) 手塚弥一郎の描き方は、大きく違います。原作は、あくまでも野江中心の描き方であり、実際の弥一郎は、ほんの少ししか登場しません。映画では、二人が相思相愛に至る回り道を描くために、弥一郎も丁寧に描き出さざるを得ず、その分だけ弥一郎の行動は説明的に美化されます。いわば美しきテロリストになってしまっています。
このあと、はたして主君はどう裁くのでしょう。武士の世に、城中の刃傷沙汰は、その動機の如何を問わずご法度でしょう。だからこそ、野江は嫌いな夫に「お腹を召されるのでしょうか」と問うたのでしょうし、切腹または情状を酌量し罪一等を減じても長い蟄居は免れないところでしょうか。原作では、決してハッピーエンドは示唆しておりませんで、結末はあくまでも不明です。ただし、蟄居閉門であったとしても、野江は喜んだことでしょうし、たとえ切腹となったとしても、幸薄い叔母と同様に一途に仏を供養して暮らそうとすることでしょう。そういう想いのはげしさは強く示唆される作品です。その意味では、やや希望を持たせる映画の終わり方も、なるほどと思わせるものがあります。
そうそう、音楽が良かった。チェロとピアノで、あまり盛り上げようとしないで淡々と演奏されるところが、藤沢作品によくあっていると思います。
いずれにしろ、近年の優れた映画をきっかけに、藤沢周平作品の原作に親しむ方々が増えればよいと、愛読者としては素直に願ったことでした。
(*1):小室等さんの好きな藤沢周平作品「山桜」を読む