岩波新書で、高木仁三郎著『市民科学者として生きる』を読みました。著者については、詳しくは知りませんでしたが、太平洋戦争終結の玉音放送のときに七歳であったことからみて、私よりも一回り以上も年上だったようです。科学者として研究生活をおくっていた頃に、プルトニウムに関するシーボーグの記述に魅力を感じつつ、一方でシーボーグの著書中の次のような記述
に違和感を感じたと書いています。このあたり、ヒロシマで救援のため入市被曝し、長年にわたり原爆症で苦しんだ父を持つ私などは、違和感ではすまない、強烈な反感を感じてしまいます。
ところで、このコンパクトな新書の中でもっとも印象的だったのは、比較的初期に原子力研究の当事者であった高木氏による
という指摘でした。
原子力発電の本質というのは、一度点火したら冷やして「おき火」にすることはできても消すことはできない、そういう「火」を使った蒸気機関の運転というものであり、産業というのは一定の技術的基盤の発展の上に成立するという常識から言えば、「消せない火」を飼いならす技術的進歩を基盤としない早期の産業化というのは、なんだかなあと思ってしまいます。
(かといって、3.11 を経た今となっては、技術的進歩が巨大地震や大津波等の自然災害を乗り越えられるとは思えませんが。)
原子力に関わる研究や技術に夢を抱いた世代の科学者が、原子力に疑問を抱き、自らの生き方を変えていった過程を振り返り、病の中で自伝として書き残した、興味深い本です。著者が62歳という年齢でガンに倒れた背景には、運転を停止した原子炉内の冷却水をバケツで汲んで汚染の程度を測定するという、若い時代の研究の過程で浴びることとなった放射線の影響があるのではなかろうかと、どうしても考えてしまいます。
実際の原爆の製造は、非常に独創的で輝かしい数多くの基本に関わるアイデアと、設計の詳細にわたる重要なアイデアを必要とした。(p.143)
に違和感を感じたと書いています。このあたり、ヒロシマで救援のため入市被曝し、長年にわたり原爆症で苦しんだ父を持つ私などは、違和感ではすまない、強烈な反感を感じてしまいます。
ところで、このコンパクトな新書の中でもっとも印象的だったのは、比較的初期に原子力研究の当事者であった高木氏による
原子力産業は、政治的意図や金融資本の思惑が先行して始められた産業であり、技術的進歩を基盤として自ら成長していった産業とはかなり性格を異にしていた。(p.72)
という指摘でした。
原子力発電の本質というのは、一度点火したら冷やして「おき火」にすることはできても消すことはできない、そういう「火」を使った蒸気機関の運転というものであり、産業というのは一定の技術的基盤の発展の上に成立するという常識から言えば、「消せない火」を飼いならす技術的進歩を基盤としない早期の産業化というのは、なんだかなあと思ってしまいます。
(かといって、3.11 を経た今となっては、技術的進歩が巨大地震や大津波等の自然災害を乗り越えられるとは思えませんが。)
原子力に関わる研究や技術に夢を抱いた世代の科学者が、原子力に疑問を抱き、自らの生き方を変えていった過程を振り返り、病の中で自伝として書き残した、興味深い本です。著者が62歳という年齢でガンに倒れた背景には、運転を停止した原子炉内の冷却水をバケツで汲んで汚染の程度を測定するという、若い時代の研究の過程で浴びることとなった放射線の影響があるのではなかろうかと、どうしても考えてしまいます。