今から50年前、私が通っていた田舎の中学校には、ちゃんと音楽の専任の先生がいました。先生は定年退職を目前に控えた50代の男性で、身だしなみなどは立派なジェントルマンでしたが、残念ながら授業のほうはあまり面白くなく、変声期の男子中学生にとって、ピアノ伴奏で唱歌を歌わされ、出ない声を出すように要求されるのは理不尽に感じていたものです。
同級生の女子の一部が校内合唱コンクールの実施を提案したときも、各クラスに伴奏者が確保できないからと却下されました。当時は「やる気のない先生」という評価でしたが、今思えば、学年にピアノを習った経験のある人が数名、実際に伴奏できるレベルの子は一人いるかどうか、といったところでしたから、時代背景や地域性を考えると、やっぱり時期尚早だったのでしょう。
でも、たまには学校のステレオでLPレコードをかけて聴かせてくれることもありました。鑑賞曲として指定のあった「アルルの女」組曲や「中央アジアの草原にて」などが記憶に残っており、もっと聴きたいなあと思ったのが、その後の趣味の方向を決定づけたように思います。
もう一つ、音楽の授業で楽典らしきことはほとんど習いませんでした。シャープもフラットもなく、ドミソの和音が中心になっているのがハ長調で、ラドミが中心の場合、ちょっと悲しげな短調になるんだよ、という程度のことは教わりましたが、♯が一つの時はト長調と「覚えろ」と言われてテストは乗り切りました。思えば、高校入試の科目数が音楽も含まれる九科目だったのに、数年前から三科目入試に変わっていた反動だったのかもしれません。
実は、同級生の中にちょっと変わった男の子がいて、料理が好きで音楽が好きという面白い少年でした。彼が図書室で『子供の楽典』という本を借りていたのを知り、興味をもって自分もその本を借りてみました。それによれば:
高校では音楽選択の競争にあぶれてしまい、以後は音楽の教育を受けることはかないませんでした。私にとって最後の音楽教育となった50年前の田舎の中学校では、ナマのオーケストラの演奏を体験するなどということは夢のまた夢でした。山響のスクールコンサートの話などを聞くとき、隔世の感を禁じえません。子どもが通える範囲にピアノ教室も複数できましたし、娘が中学校に在学中、文化祭では立派な合唱コンクールが行われていました。娘はクラスのピアノ伴奏をしました。校歌も混声合唱で、全校生徒による「大地讃頌」の大合唱はたいへん素晴らしいものでした。音楽の先生は実行力のある女の先生で、時代の大きな流れを感じました。
同級生の女子の一部が校内合唱コンクールの実施を提案したときも、各クラスに伴奏者が確保できないからと却下されました。当時は「やる気のない先生」という評価でしたが、今思えば、学年にピアノを習った経験のある人が数名、実際に伴奏できるレベルの子は一人いるかどうか、といったところでしたから、時代背景や地域性を考えると、やっぱり時期尚早だったのでしょう。
でも、たまには学校のステレオでLPレコードをかけて聴かせてくれることもありました。鑑賞曲として指定のあった「アルルの女」組曲や「中央アジアの草原にて」などが記憶に残っており、もっと聴きたいなあと思ったのが、その後の趣味の方向を決定づけたように思います。
もう一つ、音楽の授業で楽典らしきことはほとんど習いませんでした。シャープもフラットもなく、ドミソの和音が中心になっているのがハ長調で、ラドミが中心の場合、ちょっと悲しげな短調になるんだよ、という程度のことは教わりましたが、♯が一つの時はト長調と「覚えろ」と言われてテストは乗り切りました。思えば、高校入試の科目数が音楽も含まれる九科目だったのに、数年前から三科目入試に変わっていた反動だったのかもしれません。
実は、同級生の中にちょっと変わった男の子がいて、料理が好きで音楽が好きという面白い少年でした。彼が図書室で『子供の楽典』という本を借りていたのを知り、興味をもって自分もその本を借りてみました。それによれば:
- 音には名前がついており、トの音にくるりと巻き付いているからト音記号という。だから、その位置から逆に音の名前を数えられるのだそうです。
- ハの音がドになるのをハ長調といい、♯も♭もつかない。これに対し、トの音でドが始まるときは、シャープを一個つけて半音を調整することになる、という説明に、なーるほど!と感心しました。
- 今ならば、ABCDEFGにイロハニホヘトと当てたのだなとわかりますので、「in F major」とあれば「ヘ長調」だと理解できます。「♯が1個だけならト長調」と丸暗記するよりも、理屈がわかるほうが嬉しいものでした。
高校では音楽選択の競争にあぶれてしまい、以後は音楽の教育を受けることはかないませんでした。私にとって最後の音楽教育となった50年前の田舎の中学校では、ナマのオーケストラの演奏を体験するなどということは夢のまた夢でした。山響のスクールコンサートの話などを聞くとき、隔世の感を禁じえません。子どもが通える範囲にピアノ教室も複数できましたし、娘が中学校に在学中、文化祭では立派な合唱コンクールが行われていました。娘はクラスのピアノ伴奏をしました。校歌も混声合唱で、全校生徒による「大地讃頌」の大合唱はたいへん素晴らしいものでした。音楽の先生は実行力のある女の先生で、時代の大きな流れを感じました。