電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

『大学で学ぶ東北の歴史』を読む(その2)

2022年01月07日 06時00分33秒 | -ノンフィクション
昨年の暮れから読んでいる『大学で学ぶ東北の歴史』の続きです。ノートに摘要を書きながらの読書は、しばらくぶりの感じがします。

まず、弥生時代です。中国大陸・朝鮮半島から西日本に渡来した弥生人は、稲作を伝え、金属器を用いた祭祀を行い、拠点集落をつくり戦争を行うという特徴を持ちます。これに対し、東北日本の縄文系弥生人は、稲作を行うが青銅器を用いる祭祀を行わず、縄文式の墓制に従います。戦争の痕跡は確認されず、環濠集落もありません。

東北地方では、弥生時代前期に水稲栽培を受容し、弥生時代中期には主要な沖積平野、盆地などでは広く水田農耕が行われ、多くの集落が営まれる。しかし一方で戦争が起きた痕跡はなく、有力な支配者は登場しない。また、信仰は縄文文化の伝統にあり、東北弥生社会は西とは違う構造を持っている。その後、中期の大地震と大津波により大きな打撃を受け、狩猟と採集を主たる生業とする社会に移行していく。西日本弥生社会と違って国家形成に向けての動きは認められないのである。(p.24)

ふーむ、会津盆地や山形盆地などでは、津波被害は受けなかったはず。東北地方の東側に低地性の弥生文化が成立したけれど、ある時期に津波で壊滅し、他地方は弥生文化の影響を受けた縄文式の生活が続いたと見ることもできるのでは。あるいは、中国大陸内の争い等により、先に渡来した初期弥生人の一部が後から渡来した後続の弥生人に押し出される形で東北日本に混在するようになり、文化の混合が起こったという可能性もあるかも。

続いて古墳時代です。
この頃の東北地方は、南東北と北東北ではだいぶ違い、北部では狩猟採集社会が継続しますが、南部では農耕社会の再形成が行われます。これも実は単純ではなく、一つには能登半島から会津盆地、庄内平野、米沢盆地、福島県浜通りへとつながる寒冷地対応の集約農業の流れと、もう一つは千葉県地域より東北南部全域へと集団移住した塩釜式土師器を使うのが特徴です。東北南部の農耕社会のほうが古墳文化圏となり、東北北部が続縄文文化圏と言っても良いでしょう。このあたりは、ヤマト政権によって旧来の弥生人社会(集落)が圧迫され集団移住を余儀なくされた結果ではないのか、という気もします。

このあたり、中国の南北朝時代が589年に随により統一され、618年に唐が成立し、645年に大化の改新という形のクーデター事件が起こるというように、中華の事変が周辺地域をも揺るがすというところでしょうか。その後の政治改革の影響が、東北地方にも城柵の出現という形で現れます。



うーむ、面白いぞ。大人になってから読む歴史は、実に面白い。地方史にも世界の大きな歴史の流れは貫徹する、という現象がしばしば見られますが、東北地方もその例にもれない、というところでしょうか。


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