地元紙「山形新聞」の連載「やまがた再発見」に、三週連続して特集が組まれた藤沢周平シリーズ、その第3回です。筆者は鶴岡藤沢周平文学愛好会代表の万年慶一氏。
■9月8日(日)付、「教え子たちが記念碑建立」、「先生を都内でたびたび訪問する際、第一声は決まって古里の農民たちが交わすあいさつ言葉そのものだった」
結核の治療・療養のため上京し、教員生活はわずか二年で終わったけれど、業界新聞に勤めるかたわら小説の執筆を続けます。その結果、1971(昭和46)年にオール讀物新人賞、1973(昭和48)年に直木賞を受賞します。同年10月、湯田川中学校で開かれた講演会で、教え子たちは突然姿を消した恩師と約20年ぶりの再会を果たします。このあたりは、随筆にも描かれているとおり。翌1974(昭和49)年には作家活動に専念することとなりますが、すでに30代も後半、もうすぐ40歳に手が届く年代の教え子たちが申し出た記念碑の建立の考えを、小菅留治先生は固辞します。たしかに、わずか二年の教員生活で教え子たちに記念碑を立ててもらうわけにはいかない、元の同僚たちに申し訳なくまた恥ずかしい、などといった気持ちもあったことでしょう。しかし、教え子たちもすでに大人であり、分別ざかりの年齢になって、それでもと希望するものを断り続けるわけにもいかなかったのでしょうか、萬年慶一氏は先生から「お前に任せる」との言葉をもらい、碑が建立されることになりました。
その後、碑の完成を見ることなく先生の急逝に接し、教え子代表として弔辞を読むこととなるあたりも、同級生や遺族からの氏への信頼感を表すものでしょう。さらに、後年、湯田川中学校の統廃合等にともない、校舎を解体し様々な碑を再編配置することになりますが、萬年氏は自治会長としてその仕事にあたることとなります。かつての教え子として、様々な思いが去来したことでしょうが、とりわけ結びの一文;
には、客観的に事実を記しながら、恩師であり心のつながりの中心であった作家が寄せたであろう古里の追慕への共感が感じられるようです。
■9月8日(日)付、「教え子たちが記念碑建立」、「先生を都内でたびたび訪問する際、第一声は決まって古里の農民たちが交わすあいさつ言葉そのものだった」
結核の治療・療養のため上京し、教員生活はわずか二年で終わったけれど、業界新聞に勤めるかたわら小説の執筆を続けます。その結果、1971(昭和46)年にオール讀物新人賞、1973(昭和48)年に直木賞を受賞します。同年10月、湯田川中学校で開かれた講演会で、教え子たちは突然姿を消した恩師と約20年ぶりの再会を果たします。このあたりは、随筆にも描かれているとおり。翌1974(昭和49)年には作家活動に専念することとなりますが、すでに30代も後半、もうすぐ40歳に手が届く年代の教え子たちが申し出た記念碑の建立の考えを、小菅留治先生は固辞します。たしかに、わずか二年の教員生活で教え子たちに記念碑を立ててもらうわけにはいかない、元の同僚たちに申し訳なくまた恥ずかしい、などといった気持ちもあったことでしょう。しかし、教え子たちもすでに大人であり、分別ざかりの年齢になって、それでもと希望するものを断り続けるわけにもいかなかったのでしょうか、萬年慶一氏は先生から「お前に任せる」との言葉をもらい、碑が建立されることになりました。
その後、碑の完成を見ることなく先生の急逝に接し、教え子代表として弔辞を読むこととなるあたりも、同級生や遺族からの氏への信頼感を表すものでしょう。さらに、後年、湯田川中学校の統廃合等にともない、校舎を解体し様々な碑を再編配置することになりますが、萬年氏は自治会長としてその仕事にあたることとなります。かつての教え子として、様々な思いが去来したことでしょうが、とりわけ結びの一文;
先生の記念碑も例外ではなく、朝日の昇る金峯山に向かって据えられた。文学碑にはこう刻まれている。「赴任してはじめて私はいつも日が暮れる丘のむこうにある村をみたのである」(「半生の記」の一節)。その隣の俳句「花合歓や畦を溢るる雨後の水」は、若き日に子どもたちと野山を駆け回った頃を思い浮かべて詠まれた。記念碑が正面に見据える方向には、古里の高坂集落がある。
には、客観的に事実を記しながら、恩師であり心のつながりの中心であった作家が寄せたであろう古里の追慕への共感が感じられるようです。
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