志情(しなさき)の海へ

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劇場と社会の趣旨、今年3月11日のシンポジウムに間に合わせて書いたもの。

2012-11-07 02:43:24 | 沖縄演劇

             (雨が降った11月4日の夜、ベランダから花火が見えた。デジカメを握っていた!)

シンポジウム「劇場と社会」の趣旨


   
 この「劇場と社会」のシンポジウムは、2011年6月17日~19日、日本演劇学会春の研究大会が日本大学で開催された際、大会テーマがまさに「劇場と社会」で、そこで「劇場に見る組踊の系譜」について研究発表したことが契機になっている。ちょうど日本復帰記念日の5月15日、「国立劇場おきなわ」で戌の御冠船舞台の復元が成された事とあいまって、その復元された屋根付き張り出し舞台が、四間四方であることに驚いたこと、それが発端になった。組踊は『忠臣身替の巻』が上演され、その立体的な動きに感銘した。復元組踊上演後に開催されたシンポジウムで、専門的知識人を含めた関係者のコメントの中で、「首里城の北殿に向かって仮設舞台が作られた」「地謡は紅型幕で仕切らなくてもいいのでは」また、「地謡がやりづらい」などの発言があった。すぐその後、疑問に感じた四間四方に関して何人かの方にそのわけをお聞きしたら「現代人の身体が大きくなったので四間四方になった」の発言を三人の方々(池宮正治、宜保栄治郎、上地和夫)がされていて、これはどういうことかと疑問をもった次第である。

 歴史的に1719年北殿前に設営された長方形(19.2mx16m)の大きな舞台からいつどう三間四方になったのだろうか。1760年代には天使館辺りで三間四方の仮設舞台が那覇に登場している。その点に関しては池宮正治論文「組踊に関する資料三件」(日本東洋文化論集(6:31-49、2000)が那覇の街に三間四方の舞台を設営し、そこで「念仏」が上演されたと記している。それから1800年代まで長い40~50年ほどの開きがあって、どうもこの形態になっていったようだ。それが近代以降(王府滅亡後)歌舞伎などの影響で明治39年頃には三間四方の舞台から額縁舞台になっていった。

2011年6月、パワーポイントで発表をまとめる際、組踊の舞台構造について、『中山伝信録』、沖縄県教育委員会が昭和61年に発行した『沖縄の組踊「1」』、同じく昭和62年に発行した『沖縄の組踊「2」』、大城學の『沖縄芸能史概論』を参照した。朝薫の組踊がどんな舞台で上演されたか、それは重要な要素で、その最も直截な舞台の記録は徐葆光の『中山伝信録』である。その徐葆光が残したスケッチを含めた記録をどう読みとるかが次の課題に思えた。

大城學は著書の中で「現存する御冠船の舞台様式の資料について、最古のものは、1719年の御冠船踊を記録した徐葆光の『中山伝信録』である。同書によると、中秋之宴から首里城北殿前の御庭(ウナー)に、周囲5、6丈の木製の台を作り、回りに垂れ絹を巡らしているとある。丈をおよそ10尺とすると、5、6尺は10間となる。この場合、舞台のみならず、楽屋を含めた長さであると考えることもできる。仮設舞台で、舞台の大きさは三間四方と推測され、三方が開けている。欄干もあり、天幕も張られている」と記している。

確かに中秋之宴の舞台はそのスケッチから見るとかなり広い長方形の舞台でその上では8人の地謡の姿、2頭の獅子の姿があり、一緒に獅子を先導して踊って見える女形の袖は長く衣も長い。その結髪は独特で束ねてそれに布が巻かれているように見える。衣装は一見して中国の昆劇や韓国の伝統舞踊の装束に似ている。舞台の一番端に立って挨拶しているように見える人物が踊奉行朝薫だろうか、などと推測するのは面白いが、果たしてこれが三間四方の舞台と言えるか、疑問をもったまま大城説をとって「劇場に見る組踊の系譜」をパワーポイントにまとめた。(パワーポイントのスライドはレジメ集の最後に掲載した。御批判を受けまた中身を掘っていく所存である)

演劇とは? 劇場文化装置=パブリックなフォラムなの
 スコットランドの演劇人、ジョン・マグラスは演劇について以下のように述べている。「演劇は、様々な芸術形式の中で最も公的で、最も明白に政治的な形式である。(すくなくともそうありうる)のです。演劇はある社会の生活が公的にその社会の成員に示される場であり、その社会が前提していることが提示され、試される場です。演劇という場において、その社会の価値観が吟味され、その神話に承認が与えられ、そのトラウマが現実の象徴となるのです。したがって演劇はしばしば詩がそうであるように、外部の事象に対する「一個人の感受性」の反応ではありません。また、たいていの小説がそうなりがちなように、現実社会を描いた一断片や空想を「私的に」享受することでもありません。演劇は公的なイヴェントなのであり、公的な関心事に関わるものなのです。--演劇はその性質からして、美学的な虚空の中で深遠な芸術的感受性を経験する場というよりも、むしろ政治的なフォーラムであり、政治的に働く媒体なのです」
 マグラスはさらに「そして演劇そのものが、社会が自らの姿をそこに映し出しながら自らを定義し直す場であり、そこは作り手のみならず観客も参加するパブリックなフォーラムなのである。劇場はまさに物理的なそうした空間である」とも述べている。これらの引用は、谷岡健彦「パブリック・フォーラムとしての演劇/劇場」、『舞台芸術』(京都造形芸術大学、2005年)の中で谷岡氏が紹介した言説である。

 マグラスは「演劇/劇場それ自体が社会的であり、それゆえ政治的な存在であることを免れえない」と強調している。「劇場」という文化装置は「同時代」に向けて何を発信することが可能なのだろうか?

演劇とは何か?劇場とは何か?
劇場と社会はどう絡み合っているのだろうか?

 「劇場は社会の文化装置であり同時に記憶装置である。パブリックなフォーラムである」というマグラスの認識は示唆的である。その観点にそって見る時、「国立劇場おきなわ」は、どんな役割を果たしているのだろうか?

 「国立劇場おきなわ」は、1719年以来、琉球王府時代に創作・上演された組踊、近代以降の沖縄芝居や現代の新作組踊を上演しているが、琉球舞踊、古典音楽、民俗芸能も披露される場である。そこは琉球王府時代から現代に至る沖縄の舞台芸術を社会に開いて見せる場であり、互いに交流し、文化的アイデンティティを再確認する場でもある。文化伝統の保存・継承・発展が可能な場であり、新たに現在を照らす創造/想像空間であり未来への礎でもある。「わたしとは何者か」「われわれとは何者か」個々が多層的なアイデンティティを確認する場でもある。琉球・沖縄のナショナリズムがにわかに沸騰する場でもありえる。政治的でありパブリックなフォーラムが推進される場でもある。集団の意識・無意識が舞台の花になりそれを共感しえる空間・場でもある。

 演劇や芸能を上演する劇場がどう社会と関わっているのか、その伝統芸能(組踊)の原型を追求する時、現在の国立劇場おきなわがもっと論議されてもいいと考える。さらにこの間の沖縄における劇場がどのように推移してきたのか、どんな劇場が存在したのかの問は、また組踊を含む沖縄芸能史(演劇史)の探究に他ならない。時代と共に変遷してきた舞台芸術の歴史をたどることは、わたしたちの美意識やアイデンティティを手繰り寄せる旅でもあろう。

 

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今回お能研究の第一人者、天野文雄先生(能楽学会代表/日本演劇学会会長)をお迎えして基調講演をしていただくことになりました。天野先生にはお忙しい中、沖縄に来て下さり心より感謝しております。また、「国立劇場おきなわ」芸術監督幸喜良秀先生、作曲家/平成組踊塾代表高江洲義寛先生、沖縄国際大学教授狩俣恵一先生、京都産業大学教授鈴木雅恵先生、そして沖縄県立芸術大学教授板谷徹先生方には今回の『劇場と社会』のシンポジウムに快く参加してくださり、深く感謝しております。先生方のご報告と論議を今後の沖縄の舞台芸術のさらなる研究と発展に生かしていくことを肝に念じて冒頭の趣旨とします。そして『劇場』がより一層社会に開かれ、文化装置・記憶装置としてパブリック・フォーラムの場でありつづけることを祈念いたします。


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