
(今夕、夕暮れ時の写真をとっているとあの懐かしいココココ、の鳴き声、が聞こえてきた。何とイソヒヨドリの雄がフェンスにいて首をかしげている。思わず車からまた飛び出して写真を撮った。ありがとう、君に会えて嬉しかった。今日は良い日になったよ!)
実は最初のイントロを読むと、ポスト・コロニアリズムや植民者、被植民者など、専門的な語が並んでいるので18.19歳の学生たちがよくわかっているのかあいまいで解釈する方も大丈夫かと気になって学生たちの読書体験を聞いた。
なんと誰も大城立裕さんを知らないのだ。誰も沖縄出身の芥川賞作家の作品を読んでいないのだ。コミックや漫画、ハリー・ポッター、村上春樹などなどはまだ良くて、ほとんど小説など読まない学生もいる。沖縄の文化の顔として誰をイメージするかと聞くと、仲間由紀恵であり安室奈美恵であり国吉涼子でありと、テレビのメディアの寵児たちが出てくる。ヤレヤレとうてい、崎山多美を論じたこの英語論文は彼らにとってもちんぷんかんぷんということになる。第一沖縄が植民地だと規定したこの論稿に彼らが同意するかも怪しい。冒頭から「言語は私そのものである」である。沖縄の地政的位置から決して解放されないと書いている。しかし学生諸君の意識の中でどれだけの沖縄がエコーしているか疑問を覚えた。沖縄の文化って何?何が沖縄文化?と聞いてみた。すると三線、エイサー、ハーリー、仲田幸子も登場した。誰も組踊など見ていない、といっても中国人と山口県出身者がいる15人のゼミのようなクラスである。毎回円陣を組んで取り組むいいクラス、だと思っているが、彼らが大城も目取真も知らないということに驚いていた。ポストコロニアルなり境界なり隙間=深い割れめなり、夜明けの薄暗がり=トゥイライトなりのメタファがイメージできるのか、疑問になってきた。「薄暗がりの夜明け前の闇の中から静かな声が新しい世界のサバイバルへの新しい意味をともなう物語へと変容していく空間」、やれやれ、彼らは小説も読んでいないのだよ。そこで諦めた。無理だ。彼らにとって沖縄は特別区ではない。大きなピラミッドの一部でしかない。沖縄の学校は沖縄出身の作家の作品をあえて生徒たちに読ませるわけでもない。彼らはすでにして根を引きぬかれているのだった。
(キャンパスの夕暮れ時)
そして本をあまり読まないと言い切った受験を勝ち取ってきた者たちだ!敵の声【言語】を再創造する?reinventing the enemy's languages,border literature, translingual connection, translinguality, twilight, the chasm of comprehension
被植民者がグローバル時代の世界で可視化されること、植民者によって都合良い単純化される論理がある。
多文化主義の欠陥、日本がもっと文化的に多様で多元的であるというイメージをアピールできる都合のいいエスニックな位置でしかない沖縄(沖縄文学)が露骨に出される。国民国家の国家的欲望を満たし日本文学の一部として沖縄文学を位置づけるのではなく、すでにして国家を超えた独自の世界文学として捉え返そうとする一連の思想的企てがある。書いた方もまたその路線に立ち、400年の植民地の楔をどう切開するかに心を砕いているのである。沖縄のアイデンティティはトランスナショナルなのである。国家という狭い枠をすでにして超えた視点に立つのである。
日本文化の線を引き直す役割を演じながら沖縄文学は多文化主義に奉仕しているのである。そうではなく国境を国家を超えて世界へと乗り出していく中に従来の被植民地(者)を開いていく鍵がありそうだ。しかし多文化主義のそうした弊害、日本による利用の構図はすでに明らかになっていて目新しさはない。面白いと思ったのは the chasm of comprehensionである。
日本の一部としての文学を超えてトランスナショナルでグローバル文学になりつつある沖縄文学である。そして崎山の文学は境界の文学である。沈黙に耳を澄まし見えないものを想像するなかに異なる言語を通して(超えられる)音訳しえる関係の可能性がありえる、と書いていたようなー。
文学は芸術はメタファーである!とはかのアルビーがかつてアメリカのキャンパスで話していた。メタファーである。
沖縄は植民地である。学生たちはどれだけその認識を持っているのだろうか?この論文は続けないことにした。各自、註釈がしっかりした論文6枚以上をもってくるよう課題を与えたのでした。
(キャンパスの神と勝手に呼んでいるイソヒヨドリさん!)