
<<三月遊び in あかちら>>
のエッセイは写真共々味わい深い文章である。その冒頭だけご紹介したいと思う。Sさんは数年前辻の芸能に目を見開かされた時からの知人で何かと貴重な古老の方々の証言をご紹介してくださった。持続的にかつての浮島を掘っている。地域のおじー、おばーの声に耳を澄まし歩いてきた年月から自然にこぼれてくるものがある。それらがことばの中にちりばめられている。
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今回の東日本大震災が発生した翌朝早朝、とてつもない光景を見ることができた。未曾有の出来事でワサワサした気持ちを落ち着かせようと波の上界隈の、お通し所(拝所)斧崎(ゆーちぬさち)に足を運んだ。目の前に開けた光景は懸命に祈りを捧げる数人の老婆の姿であった。なにかしら ありがたく、また美しい。少し離れた場所から観察?していたのだが拝所の軸を前に一人の老婆が座り、その後方に2,3人の女性が位置している、後方の人々は微妙に体を揺すっているように見受けられたのだ。何のことはない太古から続く神女を筆頭として国土の安寧を祈っていたのだと思う。その佇まいが美しかった、同時に日本再生の確信を得た思いだ。
前日、久米の長老が震災の報道をみて
呟いた『うりうてぃ すでぃゆん《これで孵化する》』との言葉が去来した、二度も世替わりを経験し凄まじい廃墟の中から沖縄の復興を果たした古老方のしたたかさ、たくましさを肌身を持って再確認することが出来、少しばかり自分の成長を知った。
人の世は侭ならぬものである、ましてや自然を凌駕することなぞ出来やしないのだ!
今回のような天災もあれば、戦のような人災もあるなかで、先達はその度再生を果たした、混乱は当たり前、その中にこそ安寧なのだと思う。なだやしく なのである。
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所で今日は頼まれた原稿を仕上げるために3人の沖縄芝居役者の方々のお話を伺った。実演家の方々の生身の証言にはいつでも圧倒されるものがある。直に創造の場に身を置いてこられてきた方々のことばに、表情の中にきらめいているものに惹かれる。それは何だろう。体験・経験の豊富さ、表象として身体を通して結実してきたものが生命の中に揺れ、翻えっている何かを伝えてくる。それはやはりクリスタルのような何かでありつづける。
創作の磁場には見えないしかし見えるものがある。見えないものの真象、きりりとはためくもの、それらに深く感じ入る日だった!ありがとう!
遠くにいつものような横顔も見えた!遠い日々の面影、あれは何だったのだろう!
若者の笑顔、ことばはいじらしくいとおしい。急に大人びた表情に驚く日!
新学期の顔、顔、顔!学生の笑顔が、生き生きとした視線がまばゆい!こうして流れる川のしぶきのような空間を生かされていく!水しぶきのようにはじけるものがある。沼から抜け出せそうだ!しかしかなたの不幸はこなたの不幸でありつづける。笑顔は救い!
<紺地の着物>