
大きな災害や人災を受けてそしてその最中にあって、さまざまなエピソードが飛び出してくる。予言していた方々がまた浮上してくる。想定外ではなかったということも明らかになってくる。神話や物語が造成される過程にまた同座している気持ち。
中央では日本沈没の危機に強力なリーダーが求められている。そして東京の知事選もあの方がまた担うという。大衆心理としては強い個性イメージ(カリスマ性)を求めていくのだという事が何となく分かるし、ヒットラーを登場させたかつてのドイツが脳裏をふとよぎる。
実は原発にしても今回のような災害はすでに指摘されていた。ただ利潤を追求する進歩主義・合理主義者たちは推進を前え前へと押し進めてきたという事も分かるようになってきた。
地震・つなみも震度9以上のチリーの事例もあり、また何十万人が死んだ地震、何万人も流された津波をすでに世界は経験している。かといって膨大な災害がいつ起こるかの予測はその道の研究者も常に的確な予測ができるわけではない。何かが、地球そのものの構造が変わりつつあるのかもしれない。
こうなると、先が読める人間たちがもてはやされてくるのだろうが、人間は未来をどれだけ予測できるのだろうか?
近未来小説を80年代のアメリカの物理学研究室の学生たちは好んで読んでいたが、彼らはその時火星に送られた無人人工衛星から送られてくるデータ―を当時の巨大コンピューターで分析などしていた。そして今回の原発事故にしても、その状況のディーテールがアメリカなどは日本より先につかんでいた、とも言えようか。
実際の出来事について、具体的なディテールをより正確に分析して対処していくという方策がなされたか否か、も問われている。国の管理という特権的指針のありようも問われている。何より原発などの安全神話が崩れたという事が大きな不安・恐怖を与えている。
現在の日本がどのように一連の不幸な出来事(自然災害・人災)に取り組んでいくのか、その全てに世界は注目している。それは明日どの地域でも起こり得る事だからでもあろうか。
未来の先取りは可能なのだろうか?未来は見えてくるのか?過去の経験則に照らして見えてくることはありえよう。予測不可能ではないということは原発事故の過去の事例からわかる。絶対安全はありえない。放射能は放出されている。人体を蝕むほどに、なのにクリーンエネルギーとしてもてはやされてきた。それを信じこまされてきた現代史は身近にある。人間は愚かということなのだろうか?安全神話を創りあげてきた政府や企業や素敵な研究者の顔が並ぶ。それをになった教育・メディアの加担がある。何か同じことを書いているようで嫌になってくる。つまり彼らはいつも大衆を操作する!
つまりどこに真実が宿っているのか?「何が真実か」常に問われている。ーーー社会のヒエラルキーや構造を疑わなければならないという事にもつながる。
単純だが、誰が得をして誰が犠牲になっているのかの構図だろうか?そして「黙って従う群衆」に未来は微笑まない、という事は確かなようだ。自らの権利を、人間としての尊厳を要求し、より人間に優しい制度改革を常に求め続けなければならない。そうでないかぎり制度は制度そのものの歪で(もちろんほくそえむ者たちと犠牲者に分断されたままであり続けるが)いずれは破綻するだろうが、その時は遅いのかもしれない。もはや私は「彼ら」を信じない。私を収奪している現大学システムも信じない。私が人間として尊厳をもって教え研究できる権利を与えてほしい!
<写真は鹿児島の堀の中の鯉。2011年1月末>
中央では日本沈没の危機に強力なリーダーが求められている。そして東京の知事選もあの方がまた担うという。大衆心理としては強い個性イメージ(カリスマ性)を求めていくのだという事が何となく分かるし、ヒットラーを登場させたかつてのドイツが脳裏をふとよぎる。
実は原発にしても今回のような災害はすでに指摘されていた。ただ利潤を追求する進歩主義・合理主義者たちは推進を前え前へと押し進めてきたという事も分かるようになってきた。
地震・つなみも震度9以上のチリーの事例もあり、また何十万人が死んだ地震、何万人も流された津波をすでに世界は経験している。かといって膨大な災害がいつ起こるかの予測はその道の研究者も常に的確な予測ができるわけではない。何かが、地球そのものの構造が変わりつつあるのかもしれない。
こうなると、先が読める人間たちがもてはやされてくるのだろうが、人間は未来をどれだけ予測できるのだろうか?
近未来小説を80年代のアメリカの物理学研究室の学生たちは好んで読んでいたが、彼らはその時火星に送られた無人人工衛星から送られてくるデータ―を当時の巨大コンピューターで分析などしていた。そして今回の原発事故にしても、その状況のディーテールがアメリカなどは日本より先につかんでいた、とも言えようか。
実際の出来事について、具体的なディテールをより正確に分析して対処していくという方策がなされたか否か、も問われている。国の管理という特権的指針のありようも問われている。何より原発などの安全神話が崩れたという事が大きな不安・恐怖を与えている。
現在の日本がどのように一連の不幸な出来事(自然災害・人災)に取り組んでいくのか、その全てに世界は注目している。それは明日どの地域でも起こり得る事だからでもあろうか。
未来の先取りは可能なのだろうか?未来は見えてくるのか?過去の経験則に照らして見えてくることはありえよう。予測不可能ではないということは原発事故の過去の事例からわかる。絶対安全はありえない。放射能は放出されている。人体を蝕むほどに、なのにクリーンエネルギーとしてもてはやされてきた。それを信じこまされてきた現代史は身近にある。人間は愚かということなのだろうか?安全神話を創りあげてきた政府や企業や素敵な研究者の顔が並ぶ。それをになった教育・メディアの加担がある。何か同じことを書いているようで嫌になってくる。つまり彼らはいつも大衆を操作する!
つまりどこに真実が宿っているのか?「何が真実か」常に問われている。ーーー社会のヒエラルキーや構造を疑わなければならないという事にもつながる。
単純だが、誰が得をして誰が犠牲になっているのかの構図だろうか?そして「黙って従う群衆」に未来は微笑まない、という事は確かなようだ。自らの権利を、人間としての尊厳を要求し、より人間に優しい制度改革を常に求め続けなければならない。そうでないかぎり制度は制度そのものの歪で(もちろんほくそえむ者たちと犠牲者に分断されたままであり続けるが)いずれは破綻するだろうが、その時は遅いのかもしれない。もはや私は「彼ら」を信じない。私を収奪している現大学システムも信じない。私が人間として尊厳をもって教え研究できる権利を与えてほしい!
<写真は鹿児島の堀の中の鯉。2011年1月末>