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猫に追い詰められたネズミは牙をむき出し巨体の猫に立ち向かうという。そのままかすり傷をつけても逃げ切るか、巨体の猫の餌になるのか?
袋小路に陥った時、さて人はどうする?極めて自分自身のことだが、開き直るより他に術はないのだろうか?無知を晒す。力のなさを晒す。弱さをさらす。侮蔑を浴びる。そして時が来るのをひたすら待つか?つくづく、受苦(パトス)を生きていると思う。それと計画性のなさを思い知る。
課題が三つあってそのどれにもまともに付き合えない混沌を生きている現実の前で差し迫った研究発表なり、論稿の締め切りがあり、重ねて食べるために「教える」という仕事もあり、何が何やら、あほなモグラを生きている!
こんな場合、それでも身近に迫った対象と向き合わざるを得ないが、うまくいかない場合はもう開き直るよりほかないのかもしれない。現時点で達成できることはここまでです。思考が、思念がこのレベルで先に進めません、と。
ふと明け方に起きて、二階の半ば物置小屋になった13畳の部屋のプリンターの上を見ると「身体とアイデンティティ」磯川全次の本がある。タイトルが気になって東京に行く前に置いたのだろう。ペラペラめくると「ゲイの民俗学」の項目があり、三島由紀夫と石原慎太郎の対談の引用と共に二人の作家の関係が面白く書かれている。見巧者の石原が本質的に保守で、差別的、暴力的、異性愛者であった事に対して、三島がウールニング的同性愛者(自らを女性の立ち場に置き男性を求める)からペデラスト(少年を求める同性愛者)に自らを変質/変容させる立場にあった転換点に石原の小説「太陽の季節」があったとする論調である。
自他の男根と身体を崇拝する「真の男色者」のことばがあり、それが観念(ことば、精神)を越えて肉体を信望するに至ったという三島の悲哀も文面から伝わってくる。天皇を最後に守るべきものとは思っていない、と言い放つ石原に対して、どうも天皇を日本の文化の中枢に置く三島の観念が際立っても見えるが、しかし文学作品として、どうなのだろう?現実的で合理的に見える石原の論調の前でよわよわしくことばが倒れていくように感じられる三島の姿が、「開き直り」を余儀なくされている自らの追い込まれた現在の位置から見ると同情したくなった。
天皇制なり天皇を中心とする信仰は、将来変容していくに違いない。それは日本人の心性の問題でもあろうか?明治12年から日本という国に組みこまれた沖縄出自の人間として、近代以降の天皇を中心とした政治システムの弊害・悪夢を経験した過去の歴史に照らして、それが残ることの重さが気になるだけである。天皇メッセージがあり、沖縄は麗しい日本国憲法から排斥されたままである。
矛盾と欺瞞の渦を沖縄島は生かされている。
それより、英語の論稿と発表論稿と、博論コンセプトに取り組まないといけない限界点にいる。受苦(パトス)を生きている、絶望的な目をしたあの里主の姿に共苦を感じられるのはいいのかもーー(?!)生きている限り希望はある、と信じたい!恥をさらして時の熟成を待つのみで、その時間もあまりないこの時にーーー。
袋小路に陥った時、さて人はどうする?極めて自分自身のことだが、開き直るより他に術はないのだろうか?無知を晒す。力のなさを晒す。弱さをさらす。侮蔑を浴びる。そして時が来るのをひたすら待つか?つくづく、受苦(パトス)を生きていると思う。それと計画性のなさを思い知る。
課題が三つあってそのどれにもまともに付き合えない混沌を生きている現実の前で差し迫った研究発表なり、論稿の締め切りがあり、重ねて食べるために「教える」という仕事もあり、何が何やら、あほなモグラを生きている!
こんな場合、それでも身近に迫った対象と向き合わざるを得ないが、うまくいかない場合はもう開き直るよりほかないのかもしれない。現時点で達成できることはここまでです。思考が、思念がこのレベルで先に進めません、と。
ふと明け方に起きて、二階の半ば物置小屋になった13畳の部屋のプリンターの上を見ると「身体とアイデンティティ」磯川全次の本がある。タイトルが気になって東京に行く前に置いたのだろう。ペラペラめくると「ゲイの民俗学」の項目があり、三島由紀夫と石原慎太郎の対談の引用と共に二人の作家の関係が面白く書かれている。見巧者の石原が本質的に保守で、差別的、暴力的、異性愛者であった事に対して、三島がウールニング的同性愛者(自らを女性の立ち場に置き男性を求める)からペデラスト(少年を求める同性愛者)に自らを変質/変容させる立場にあった転換点に石原の小説「太陽の季節」があったとする論調である。
自他の男根と身体を崇拝する「真の男色者」のことばがあり、それが観念(ことば、精神)を越えて肉体を信望するに至ったという三島の悲哀も文面から伝わってくる。天皇を最後に守るべきものとは思っていない、と言い放つ石原に対して、どうも天皇を日本の文化の中枢に置く三島の観念が際立っても見えるが、しかし文学作品として、どうなのだろう?現実的で合理的に見える石原の論調の前でよわよわしくことばが倒れていくように感じられる三島の姿が、「開き直り」を余儀なくされている自らの追い込まれた現在の位置から見ると同情したくなった。
天皇制なり天皇を中心とする信仰は、将来変容していくに違いない。それは日本人の心性の問題でもあろうか?明治12年から日本という国に組みこまれた沖縄出自の人間として、近代以降の天皇を中心とした政治システムの弊害・悪夢を経験した過去の歴史に照らして、それが残ることの重さが気になるだけである。天皇メッセージがあり、沖縄は麗しい日本国憲法から排斥されたままである。
矛盾と欺瞞の渦を沖縄島は生かされている。
それより、英語の論稿と発表論稿と、博論コンセプトに取り組まないといけない限界点にいる。受苦(パトス)を生きている、絶望的な目をしたあの里主の姿に共苦を感じられるのはいいのかもーー(?!)生きている限り希望はある、と信じたい!恥をさらして時の熟成を待つのみで、その時間もあまりないこの時にーーー。